立川の古い村と史跡を歩く──石碑と井戸ばかり残るのは、村が引っ越し好きだったから

立川の史跡散歩。中世まで村は柴崎ひとつだった土地に、3万年前の調理場、おねねが奉納した16cmの阿弥陀、代官から譲られた中嶋家の門、50年待った柴崎分水、満願寺の井戸、享保に生まれた殿ヶ谷・中里・宮沢の新田が重なる。市の文化財資料と市史広報紙でたどる、立川の古い村めぐり。

立川で古い村を訪ねて歩くと、たいてい、石碑が一本立っているだけの場所に着く。地図の上では村なのに、目の前には住宅とブロック塀しかない。

市が公開している指定文化財の一覧を上から読んでいくと、その理由の端が見えてくる。八幡神社本殿跡。満願寺跡。蚕影神社跡。立川氏館跡。散歩コースの名前にも、殿ヶ谷分水跡とある。「跡」である。そこにかつて何かがあった、という印だ。

社殿が建っているはずの場所に、石碑が一本。寺があったはずの場所に、井戸が一つ。水路があったはずの場所は、遊歩道になっている。古い村は、どこへ行ってしまったのか。

駅の周りに百貨店とビルが並ぶ立川に、古い村の話を期待する人は少ないだろう。正直に言えば、私もあまり期待していなかった。だが、市の文化財の解説と、市史を編んでいる人たちの広報紙を読み進めるうちに、その見くびりは三万年ぶん外れていたことがわかった。立川の古い村は、消えたのではない。何度も引っ越し、名前を変え、合わさり、そのたびに「跡」を残していった。その引っ越しの癖こそが、この街の性格なのではないか。跡から跡へ、古い村をたどって歩いてみることにした。

立川の古い村を歩く──中世の村は、柴崎ひとつだった

最初に、地図を一枚、頭に入れておきたい。

立川市の市史編さんの広報紙『たちかわ物語』は、近世の立川を説明する号で、こう書いている。中世までの多摩地域は、武蔵野台地の崖線の際や谷戸など、水が得られる場所に村が点在し、台地の中心部には原野が広がっていた。立川地域で言えば、多摩川の近くに柴崎村があるのみだった、と。

今の立川市の広さに、中世の村は、柴崎ひとつだった。今の立川の北の大半、立飛も、昭和記念公園も、砂川も、西砂も、ただの原野だったのだ。駅ビルも、モノレールも、自衛隊の滑走路もない。あるのは、段丘の縁にしがみつくような一つの村と、見渡すかぎりの草だけだった。村と村の境もはっきりせず、原野を挟んで、ゆるやかに隣の村と接していたという。

その柴崎村がどこにあったのか。答えは、多摩川へ向かって落ちる段丘の縁だ。今のJR立川駅の南口から南へ下り、柴崎町に入ったあたり。この特集の別の一編が歩いた普済寺と諏訪神社が、ちょうどその村の真ん中にあたる。立川市の散歩コース「古村を歩く」は、このあたりを旧柴崎村(立川村)の中心地域と書き、駅の南口から出発する道順を示している。古い村は、駅から歩いて行ける距離にある。

同じ広報紙は、江戸時代の柴崎村のもう一つの顔も書いている。立川地域の村々はほぼ幕府の直轄領だったが、柴崎村は普済寺や旗本中川氏の領地を一部含んでいた。一つの村に、領主が何人もいる。こういう村を相給村落という。年貢を納める先が、家によって違ったのだ。うちの年貢は、どちらへ。寄り合いのたびにその確認が要ったのなら、村役人は気の毒である。

さらに、柴崎村は、ほかの村々と組んで、多摩川の堤防を維持し、将軍に鮎を献上する役目を負っていた。堤防の維持と鮎の献上が、同じ一つの組合の仕事として並んでいる。片方は村を守るための泥まみれの重労働、片方は将軍の膳に上る銀色の魚。川と暮らすというのは、その両方を引き受けることだった。

では、その柴崎村より前に、この土地に人はいなかったのか。そんなことはない。「村」と書くより前に、「ムラ」と書くべき時代の人々が、同じ段丘の縁に住んでいた。

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三万年前の調理場と、古代の役所かもしれない柱の跡

柴崎町四丁目、青柳段丘の上に、大和田遺跡がある。立川市の解説によれば、縄文時代から奈良・平安時代にかけての複合遺跡で、昭和29年(1954)から何度も発掘が行われてきた。縄文時代の早期、およそ1万1000年前から7000年前の竪穴住居の跡が見つかっている。

その一段上、立川段丘の上には、下大和田遺跡がある。ここでは、およそ3万年前の礫群が見つかった。市の解説は、礫群を「焼いた礫を使った調理場跡」と説明している。3万年前、立川で誰かが石を焼き、何かを料理していた。立川の駅前には今、数えきれないほどの飲食の店が並んでいるが、この土地の台所の歴史は、それよりざっと3万年古い。グルメの街を名乗るなら、看板に書いていい年数である。

下大和田遺跡からは、8世紀後半から9世紀後半の竪穴住居とともに、掘立柱の建物が9棟見つかっている。掘立柱の建物は、竪穴住居より「格」の高い建物とされる。だから、ここは奈良・平安時代のふつうの集落ではなく、古代の役所の跡ではないかという意見がある、と市は書く。そして、遺跡の北西およそ500メートルには、弘仁2年(811)の創建とされる諏訪神社がある。市の解説は「関係が注目されます」と結んでいる。役所が先か、神社が先か。それとも両方そろって、段丘の縁の小さな中心だったのか。答えは、まだ土の中だ。

段丘の縁を東へたどると、もう一つの「ムラ」がある。矢川緑地を見下ろす崖の縁の向郷遺跡だ。市は、ここを立川市内でもっとも著名な遺跡と呼ぶ。昭和20年(1945)に最初の発掘が行われ、それから100回以上調べられてきた。

縄文時代中期の前半、およそ5400年前から5000年前には、崖から少し離れた、今の羽衣町三丁目の交差点のあたりに集落があった。それが中期の後半、およそ5000年前から4500年前になると、集落は崖の縁へ移る。市営錦町住宅の地点の発掘では、集落の中心に広場があり、その周りを墓域、ピット群、竪穴住居の跡が同心円状に取り囲んでいた。環状集落と呼ばれる形だ。

墓域には、290を超える墓穴があった。その一部からは、縄文土器が逆さまの状態で出てきた。亡骸の頭に土器をかぶせて葬ったもので、「甕被り葬」と呼ばれる。墓穴からはコハクや滑石の垂れ飾りも見つかった。市の解説は、アクセサリーだが、おそらく呪術的な意味もあっただろう、と書く。

私が引っかかったのは、5000年前に、ムラが崖の縁へ引っ越していることだった。水に近い場所へ、ほんの少し。この土地の人は、縄文の時代からすでに、住む場所をこまめに動かしていた。立川の引っ越し好きは、どうやら筋金入りらしい。

石器と土器の時代から、話を少し先へ進めよう。今度は、文字が残っている。それも、一人の女性の名前が。

八幡神社本殿跡と、おねねの阿弥陀さま

諏訪神社の南の鳥居から少し離れた住宅地の中に、石碑が一本立っている。八幡神社本殿跡だ。立川市の指定史跡で、所在は柴崎町一丁目。往時を伝える石碑だけが残っている。

立川市柴崎町の八幡神社本殿跡。植え込みの前の石組みの上に石碑が一本立つ
立川市柴崎町の八幡神社本殿跡。植え込みの前の石組みの上に石碑が一本立つ
写真: 冬めく / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

市の解説によれば、八幡神社は建長4年(1252)、立川氏の氏神として建てられた。鎌倉時代の半ばである。天正14年(1586)と文政7年(1824)の野火で焼け、天保12年(1841)に再興され、明治40年(1907)に諏訪神社へ遷宮した。そして平成6年(1994)、諏訪神社とともに焼けた。

焼けて、建て直して、また焼けて、引っ越して、引っ越し先でまた焼けた。神社の来歴としては、なかなかの波乱である。だが、この八幡神社には、焼けずに残ったものがある。諏訪神社が所蔵する、高さ16センチほどの金銅製の阿弥陀如来坐像だ。八幡神社本地仏像として、市の文化財に指定されている。

その背面に、銘文が刻まれている。市の解説は、それをそのまま載せている。

武州多東郡立河郷芝崎村八幡本地再興願主立河照重内女お祢々。本願大夫式部。于時天正拾四丙戌年三月十五日。大工椎名土佐守。

市の解説の言葉を借りれば、立川照重の内女のおねねが、野火で焼けた八幡神社を再興するため、天正14年にこの阿弥陀坐像を奉納した、ということになる。

私はこの銘文を何度も読み返した。理由は二つある。

一つは、名前だ。おねね。武士の名前でも、僧の名前でもない。焼けた社を建て直したいと願った一人の女性の名が、440年前の金銅の仏の背中に、はっきり残っている。高さ16センチ。手のひらに載るほどの大きさだ。その小ささに、祈りの切実さがかえってにじむ。

もう一つは、地名だ。「立河郷芝崎村」。立川の郷の、芝崎の村。江戸時代の柴崎村は、明治14年(1881)に立川村と名を改める。この特集の別の一編が書いたとおり、同じ郡にもう一つ柴崎村があり、まぎらわしかったからだ。だが、この銘文を読むと、それは新しい名前をつけたのではなかったことがわかる。明治より300年近く前から、この村は「立河郷」の中の「芝崎村」だった。明治の人々は、村の名前を、一つ外側の古い名前に掛け替えただけなのだ。立川という名前は、戦国時代の仏の背中に、すでに刻まれていた。

八幡神社が建っていた場所から南へ30メートルほどのところに、八幡神社大欅がある。昭和30年(1955)に市の天然記念物に指定された。立川市が指定した天然記念物は、いまもこの欅ただ1本である。文政7年の野火で被災し、上のほうには近年まで焼け跡が残っていたといわれる。この木と、その先の「たんす横町」については、普済寺と諏訪神社の一編に譲る。ここでは一つだけ書いておきたい。八幡神社は、文政7年の同じ野火で焼けている。社は焼けて建て直され、やがて引っ越していった。木は焼け跡を抱えたまま、その場所に残った。動けないものだけが、元の場所を覚えている。

この八幡さまのすぐ近くに、もう一つ、「よそから来たもの」が残っている。江戸の代官の屋敷から運ばれてきたと伝わる、門である。

中嶋家の門と、五十年待った水

市の散歩コース「古村を歩く」の道順では、八幡神社のすぐ次に、中嶋家の門が出てくる。散歩コースの案内によれば、江戸時代、鈴木家と1年交代で柴崎村の名主を務めた中嶋家の屋敷があった場所だ。名主の交代の話と、この屋敷を大田南畝が訪ねた話は、普済寺と諏訪神社の一編がすでに書いている。ここで拾いたいのは、門そのものの来歴である。

市の案内は、門は江戸時代の末に、代官江川太郎左衛門から譲り受けたと伝えられている、と書く。

江川太郎左衛門。伊豆の韮山に代官所を置いた、幕府の代官の家が代々名乗った名だ。その代官の門が、柴崎村の名主の屋敷に来た。私はこの一行を読んで、別の文化財の解説を思い出した。柴崎分水訴願状である。

市の解説によれば、柴崎分水訴願状は、貞享5年(1688)に柴崎村から伊豆韮山の代官所へ出された、分水を掘る願いの書状だ。玉川上水から水を分けてもらい、新田の開発を進めたいという願いだった。柴崎分水が許されたのは、この訴願状が出されてから約50年後の元文2年(1737)だった、と市は書く。

約50年。願いを出した人は、おそらく許しの知らせを聞いていない。書状を書いた名主の、子か孫の代になって、ようやく水が来た。役所の返事が遅いのは今に始まったことではない。それにしても、半世紀の「前向きに検討中」である。その韮山の代官所の主の家から、幕末、名主の屋敷に門が譲られた。半世紀待たせた側が、最後に門を一つ贈った。そう読むのは、旅人の勝手が過ぎるだろうか。門は、今も個人のお宅の門である。外から静かに眺めるにとどめたい。

水の話を、もう少し続ける。柴崎分水は、台地の上の柴崎村では飲み水に、台地の下では田の水に使われ、延べ11台の水車も回した。昭和記念公園の西では、伏越という工法で、残堀川の下を西から東へくぐり抜ける。そして、富士見町二丁目の交差点で、本流と支流が7対3の割合で分かれる。

市の解説で面白いのは、この支流の流れ方だ。支流は、すでにあった家々に水を配るため、土地の微妙な高低差を使って、北から南へ、逆に南から北へと流れたという。水は高いところから低いところへ流れる。それを知り抜いた上で、わずかな傾きを読み、家から家へ、行ったり来たりさせた。50年待たされた村は、来た水を一滴も無駄にしない流し方を考えたのだ。本流は道路の拡張や下水道の整備で廃止されたが、支流は今も開渠で流れている。玉石積みの法面が残る区間は、市の指定史跡になっている。

数字で読む 立川の古い村

  • 30,000 — 年。下大和田遺跡の礫群の古さ。立川の最初の台所は、駅ビルより少しだけ早く開店していた。
  • 290 — 向郷遺跡の墓域で見つかった墓穴の数。5000年前のムラは、すでに大所帯だった。
  • 16 — センチメートル。おねねが奉納した阿弥陀如来坐像の高さ。440年分の祈りを、手のひらに載る大きさで運んできた。
  • 50 — 年。柴崎分水の訴願から許可までの歳月。返事を待つあいだに、願った人の代が替わった。
  • 7対3 — 柴崎分水が本流と支流に分かれる割合。いちばん律儀に家々を回るのが、少ないほうの3である。
  • 11 — 柴崎分水が回した水車の延べ台数。飲まれ、田を潤し、そのうえ11回働かされた水。

柴崎村が水を待っていたころ、北の原野では、別の村々が生まれようとしていた。だが、その前に、柴崎にはもう一つ、井戸だけを残して消えた寺がある。

満願寺の井戸と、北多摩で最初の校舎

柴崎町一丁目に、満願寺跡がある。市の指定史跡だが、寺はない。跡地には、井戸だけが残っている。

市の解説によれば、江戸時代の元禄期より前、この地に東光院という寺があり、たいへん栄えていた。元禄期にはすっかりさびれてしまったが、名僧として知られた黄檗宗の鉄牛和尚の弟子、別峰が、医王山満願寺として再興した。満願寺は多くの人々の信仰を集めたが、幕末には住む僧がいなくなり、明治8年(1875)、廃仏毀釈によって廃寺となった。寺の仏具などはほとんど失われた。

寺が消えて、井戸が残る。水を汲む穴だけが、寺のあった場所を知っている。八幡神社の大欅と同じだ。穴と木は、引っ越しの荷物にならない。

だが、動かせるもので、残ったものもある。廃寺になった満願寺の山門に懸けられていた2枚の「聯」だ。聯とは、寺の山門などに左右向かい合わせに掛ける、細長い書や彫刻の板のことで、元禄のころの黄檗宗の僧、高泉の作といわれる。この2枚は市の指定文化財として保管されている。寺は消えても、門の両脇の言葉は残った。立川の古い村では、言葉と水が、建物より長生きする。

柴崎村のもう一つの「跡」は、学校である。立川市の散歩コースの案内によれば、江戸時代、柴崎村の子どもたちは普済寺や諏訪神社で学んでいた。明治3年(1870)、いまの市立第一小学校の前身である郷学校が、普済寺の塔頭、心源庵で開かれた。村の子ども40人が、4人の先生から読み、書き、算盤を習ったという。先生1人に子ども10人。今の学校の先生が聞いたら、うらやましがる数字である。

郷学校は、明治5年の学制で耦穎学舎、明治8年には柴崎学校と名を変えた。生徒が増え、独立した校舎を建てることになった。明治11年(1878)、村人たちの熱意によって、今の柴崎四西公園の場所に2階建ての校舎ができた。生徒はおよそ120人。当時、独立した校舎はとても珍しかった。

市の案内は、『柴崎小学校沿革史』の一節を引いている。「北多摩郡内小学校新築ノ嚆矢ナラン」。北多摩郡の小学校で、新しく校舎を建てたのはここが最初だろう、という意味だ。市の案内は、それが「誇らしげに」記されている、と書き添えている。郷土の誇りを、明治の人は漢文調で書き、令和の市役所は「誇らしげに」と注釈する。誇らしさは、明治から令和まで、ちゃんと受け継がれている。

立川村の教育は大正3年(1914)までこの場所で行われ、今の柴崎町二丁目の第一小学校へ移っていった。公園の一角には、昭和25年(1950)、第一小学校の創立80周年を記念して建てられた「学校発祥之地」の碑が立っている。学校もまた、引っ越して、碑を残した。

ここまでが、中世から続く柴崎村の跡である。では、中世には原野しかなかった北の台地には、どうやって村が生まれたのか。そこには、もっと大がかりな引っ越しの物語があった。

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