立川の古い村と史跡を歩く──石碑と井戸ばかり残るのは、村が引っ越し好きだったから

享保の新田──殿ヶ谷・中里・宮沢、三つの村はどこから来たか

北の原野に最初に生まれた村は、砂川だ。江戸の初めに開発が始まり、玉川上水と砂川分水を得て、五日市街道沿いに短冊形の屋敷が並ぶ長い村になった。その話は、玉川上水と砂川の一編が歩いている。ここで追いたいのは、そのあとに生まれた村々である。

『たちかわ物語』によれば、江戸の初めに開発が進んだあと、山林や原野が減って肥料や薪炭が手に入りにくくなると、村々による開発反対の動きが起こり、幕府は新たな開発を認めなくなった。それが享保7年(1722)、享保の改革の中で、幕府は方針を転換する。年貢を増やすために、新田の開発を奨励したのだ。開発に反対してきた村々にも強く促した結果、多摩地域にたくさんの新田が生まれ、立川地域には六つの新田村落ができた。

その六つのうち三つが、いまの西砂町のあたりにある。殿ヶ谷新田、中里新田、宮沢新田だ。

立川市の散歩コース「西砂川と殿ヶ谷分水跡を歩く」によれば、享保5年(1720)、この三つの新田の開発のために、玉川上水から殿ヶ谷分水が引かれた。その跡地を、痕跡を残しながら遊歩道にしたのが、今の殿ヶ谷緑道だ。

市の案内の年号を並べてみると、面白いことに気づく。殿ヶ谷分水は享保5年。中里新田の鎮守、神明社の創建は享保3年(1718)ごろ。幕府が新田開発へと方針を変えたのは享保7年。水と神さまのほうが、幕府の号令より先に来ている。号令が出たときには、もう鍬を握っていた人たちがいたように見える。

三つの村は、それぞれ別の場所から来た人々が開いた。

宮沢新田は、享保年間の初め、宮沢村、今の昭島市の人々によって開発された。中里新田は、同じころ、川崎村、今の羽村市の中里伊兵衛が、殿ヶ谷分水を使って開いた。そして殿ヶ谷新田は、殿ヶ谷村の人々が開いた。殿ヶ谷村は、砂川の阿豆佐味天神社の本社がある村、今の瑞穂町である。

昭島から、羽村から、瑞穂から。多摩川の上流や、狭山丘陵のふもとの村々から、人々が原野へ出てきた。新田の開発で、もとの村のことを「親村」と呼ぶ。立川の西のはずれには、三つの親村から来た、三つの子どもの村が並んでいたのだ。

スケッチを描きながら五日市街道を歩いた人の個人サイトに、享保の改革のあとに東へ伸びた砂川の九番、十番のあたりについて、敷地の間口がかなり広く、どの屋敷もゆったりとした佇まいだ、と書いた一節がある。あとから開かれた土地のほうが、ゆったりと区切られている。遅れて来た者に、広い席。西砂の三つの新田がどんな区切り方だったのか、私はそこまで調べきれていない。宿題として、ここに置いておく。

旅人の寄り道クイズ

享保のはじめ、殿ヶ谷分水を使って中里新田を開いた中里伊兵衛は、どこの村の人だったか。

  • A 宮沢村(いまの昭島市)
  • B 川崎村(いまの羽村市)
  • C 殿ヶ谷村(いまの瑞穂町)

答えは、この記事の終わり近くで。

村は、人だけでは引っ越せない。原野に移り住んだ人々が、最初に連れてきたものがある。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

体験レッスンを予約体験専用 03-6665-0898LINE

神さまを連れて、村は引っ越す

西砂の三つの新田を歩くと、どの村も、親村から神さまを連れてきていることがわかる。

宮沢新田の諏訪神社は、親村だった宮沢村の氏神さまを勧請したものだ。祭神は建御名方命。境内には、眼の病に霊験あらたかという小さな祠がある、と市の案内は書く。殿ヶ谷新田の阿豆佐味天神社は、殿ヶ谷村の本社から氏神さまとして迎えた社で、砂川四番の阿豆佐味天神社とは兄弟社にあたる。境内には、殿ヶ谷分水の記念碑が建っている。村を生んだ水の碑が、村が連れてきた神さまの境内にある。

中里新田の神明社は、享保3年ごろに中里新田の鎮守としてつくられ、はじめは「神明稲荷社」と呼ばれていた。その後、近くにあった愛宕社と合わさって「神明愛宕社」となり、のちに神明社となった。祭神は天照皇大神。そして、もとは中里新田の西の端にあったが、横田基地の拡張によって、今の場所に移った、と市の案内は書いている。

享保の原野に生まれた村の神さまは、二百数十年後、今度は基地に押されて引っ越した。百科事典の西砂町の項目には、西砂町七丁目の全域が横田飛行場の敷地の中にある、という一行がある。立川市の町名でありながら、丸ごと基地の中にある町。中里の神さまが西の端から動いた理由が、地図の上では、その一行に重なって見える。

寺も引っ越している。殿ヶ谷新田の玉林寺は、臨済宗建長寺派の寺で、普済寺の末寺にあたる。もとは親村の殿ヶ谷村につくられたが、元文年間(1736〜1741)に、殿ヶ谷新田の人々の菩提寺として、この地へ移された。中里新田の人々の菩提寺、林泉寺は、享保14年(1729)の創建で、山号を鷹尾山という。春になると桜が美しく咲く、と市の案内は書く。『新編武蔵風土記稿』には、福生市にある清巌院との関わりが記されているという。

こうして見ると、立川の古い村の神さまは、ほとんどが「よそから来た」神さまだ。柴崎の諏訪神社は、弘仁2年(811)に信州の諏訪から迎えたと伝わる。砂川の阿豆佐味天神社は、寛永6年(1629)に殿ヶ谷村から分けられた。砂川の蚕影神社は、安政7年(1860)に常陸国筑波郡、今の茨城県つくば市から迎えた養蚕の神だ。宮沢新田の諏訪神社は昭島から、殿ヶ谷新田の阿豆佐味天神社は瑞穂から。そして柴崎の八幡神社は、明治40年に諏訪神社の境内へ引っ越した。

引っ越しの荷物のいちばん上に、神さまが載っている。立川の古い村の歴史を短く言えば、そういうことになる。原野に移り住んだ人々は、鍬と種と一緒に、ふるさとの神さまを背負ってきた。慣れない土地で、知らない夜を過ごすとき、いちばん頼りになったのは、ふるさとで手を合わせていた神さまだったのだろう。

では、ばらばらの親村から来た村々は、その後どうなったのか。

明治12年、村はひとつになる

『たちかわ物語』によれば、明治12年(1879)12月、砂川村は芋窪新田、殿ヶ谷新田、宮沢新田、中里新田、平沢新田を合わせた。享保の原野に生まれた子どもの村々が、ここで砂川という一つの村にまとまった。それから84年後の昭和38年(1963)、その砂川町が立川市と合併して、今の立川市の形になる。柴崎と砂川と、六つの新田。中世にはたった一つの村しかなかった土地が、こうして一つの市になった。

いま地図で見る「西砂町」という名前は、さらに新しい。合併のあと、旧砂川町の町名と地番の整理が昭和45年(1970)の栄町から順に進み、西砂町がその列に加わったのは昭和58年(1983)である。殿ヶ谷、中里、宮沢の三つの新田が二百六十年かけて一つの町名にたどり着いたのは、昭和もあと数年で終わるというころだった。享保の村にとっては、つい昨日の話だ。

砂川の村々の暮らしの手ざわりを伝えるものは、建物よりも、意外なものに残っている。幟である。

立川市の文化財の解説によれば、江戸時代の末、砂川では神社の祭礼のときに、豊作を願って大幟を掲げた。今は五番、八番、九番、十番の組の大幟が残っていて、なかでも十番組の大幟は保存状態がよく、幟や竿、彫刻の部材まで残っている。

その大きさが、尋常ではない。嘉永元年(1848)に作られたこの幟は、幟の長さが14.6メートル、幅が2.2メートル。竿の長さは約22メートル。関東地方でも最大級といわれる。22メートルといえば、ざっと七階建ての建物の高さだ。それを村の人々が立てた。祭りの朝は、さぞかし掛け声が大きかっただろう。

幟の「御祭禮」の文字は、谷保村、今の国立市の書家、本田覚庵の筆による。隣の村の書家に頼んで、村いちばんの大きな字を書いてもらった。根元を支える挟み木の飾り彫刻は、わが子に厳しい試練を与える故事、「獅子の子落とし」がモチーフだという。作者はわかっていない。22メートルの竿の根元で、獅子が子を谷へ落としている。豊作を祈る幟の足もとに、子育ての厳しさを彫り込んだ。村の大人たちは、何を言いたかったのだろう。祭りの日に見上げた子どもたちが、根元の彫り物の意味に気づかなかったことを、少しだけ願う。

同じ嘉永元年、砂川八番組には、高さ約2.3メートルの馬頭観世音の石塔が建てられた。市内最大級だと、立川市の散歩コースの案内は書く。江戸時代、馬は物資を運ぶ大切な働き手で、砂川にもたくさんの馬がいた。その感謝の気持ちを込めて建てたという。22メートルの幟と、市内最大級の馬頭観音。どうやら嘉永元年の砂川は、何かを大きく建てたい気分だったらしい。

砂川八番組の組頭を務めた須﨑家の蔵も、今に残る。かつて質屋を営み、質蔵として使った、江戸の末から明治の初めごろの3階建ての土蔵だ。類例の少ない3階建てで、内部の梁や壁には欅がふんだんに使われている。今は川越道緑地の古民家園に移されている(古民家園は2027年3月末まで改修のため休園の予定)。新田の組頭の家に、3階建ての質蔵がある。原野を拓いた村は、百数十年のうちに、人にお金を貸す側の家を育てていた。

幟は資料館に、蔵は古民家園に移った。ここでもまた、古いものは元の場所を離れて残っている。

古い村の史跡が「跡」ばかりなのは

なぜ、立川の古い村の史跡は「跡」ばかりなのか。

八幡神社大欅(市指定天然記念物)。幹に帯を巻かれ、柵に囲まれて住宅地に立つ
八幡神社大欅(市指定天然記念物)。幹に帯を巻かれ、柵に囲まれて住宅地に立つ
写真: 冬めく / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

歩いてわかったことの半分は、こうだ。立川の古い村は、何度も燃え、何度も引っ越した。八幡神社は野火で二度焼け、明治に諏訪神社へ移り、平成にまた焼けた。満願寺は廃仏毀釈で消えた。学校は校舎を建てて、大正に移っていった。北の原野の新田は、親村から神さまを背負ってやってきて、その神さまの一つは、二百数十年後に基地に押されてまた動いた。動いたものの数だけ、「跡」が残った。

だが、もう半分は、私にはこう見える。「跡」が多いのは、なくなったものが多いからではない。動いたものを、この土地の人々が、ちゃんと覚えていたからだ。社が移れば、元の場所に石碑を立てる。寺が消えれば、井戸を史跡に指定する。学校が移れば、発祥の地に碑を建てる。分水が廃れれば、緑道にして名前を残す。忘れてしまえば、跡すら残らない。立川の「跡」は、引っ越しを繰り返してきた村の、律儀な置き手紙なのだ。

動かずに残っているものもある。人の営みだ。柴崎の獅子舞は、元禄年間に起こったといわれ、およそ300年続いている。市の解説によれば、毎年8月下旬の諏訪・八幡両社の例大祭で、柴崎町一丁目の獅子宿を出発し、4人の棒仕いが露払いとして道を開いて、境内へ舞い込む。ほら貝と笛と唄に合わせて、雄獅子2頭、雌獅子1頭、そして天狗が舞う。舞は全部で12種類あり、「十二狂い」と呼ばれる。全部舞うと2時間かかるという。

この舞を受け継いできたのは、村の小さな組だった。市史の広報紙によれば、昭和38年(1963)、砂川町との合併と同じ年に立川市獅子舞芸能保存会ができるまで、担い手は柴崎町の番場・横町・出口・新屋敷と、富士見町の台・滝の上・山中とに分かれていた。番場、横町、出口、新屋敷。台、滝の上、山中。声に出して並べると、それだけで段丘の上と下の村の地図が浮かんでくる。あのころ、獅子は小さな組の名を背負って舞った。いまは一つの保存会が、同じ舞を一つの名で守っている。

焼けて、引っ越して、また焼けた八幡さまの祭りで、獅子は300年、同じ道を通って舞い込んでくる。それを毎年支えているのは、夏ごとに笛と唄を合わせ、獅子頭をかぶる柴崎と富士見の人たちだ。仕事を持ち、家を持ち、そのうえで2時間の舞を覚えて次の世代へ渡す。その手間を思うと、石碑の前で感心していた自分が少し気恥ずかしい。建物は跡になっても、その人たちがいる限り、古い村はまだ終わっていない。

週末、それもできれば八月の下旬に、新宿から中央線で30分ほどの立川で降りて、南口から段丘を下りてみるといい。駅ビルから歩いて行ける距離に、三万年前の台所と、440年前の祈りと、獅子の通る道が重なっている。

寄り道クイズの答え

答えはB、川崎村(いまの羽村市)である。立川市の散歩コース「西砂川と殿ヶ谷分水跡を歩く」によれば、享保年間の初期に、川崎村の中里伊兵衛が殿ヶ谷分水を利用して中里新田を開発した。開いた人の名字が、そのまま村の名前になった。宮沢新田は宮沢村の人々が、殿ヶ谷新田は殿ヶ谷村の人々が開いており、こちらは親村の名前が新田の名前になっている。

訪ねる前に

  • 来やすさ: 新宿からJR中央線で約30分(東京都環境局のリーフレットによる)、東京駅からは特別快速で40分(立川市による)。神奈川からは、JR南武線が川崎駅と立川駅を結んでいて、川崎から乗り換えなしで着く。時刻はその日の時刻表で確かめてほしい
  • 柴崎の古い村を歩くなら: 立川市の散歩コース「古村を歩く」が、JR立川駅南口を出発して、諏訪神社と八幡神社、中嶋家の門、八幡神社大欅、満願寺跡、柴崎分水、普済寺、山中坂地蔵堂、歴史民俗資料館、富士塚を回る道順を地図つきで示している: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004889.html
  • 主な史跡の所在(立川市の指定文化財の解説による): 八幡神社本殿跡は柴崎町1-7-17先、八幡神社大欅は柴崎町1-7-8地先、満願寺跡は柴崎町1-9-2先、大和田遺跡は柴崎町4-5-8〜12付近。中嶋家の門は個人のお宅の門なので、通りから静かに眺めるにとどめてほしい
  • 学校発祥之地の碑と大和田遺跡、沢稲荷、根川緑道は、JR西国立駅を出発する散歩コース「矢川から多摩川方面を歩く」にまとまっている: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004890.html
  • 西砂の三つの新田を歩くなら: 散歩コース「西砂川と殿ヶ谷分水跡を歩く」が、西武拝島線の西武立川駅を出発して、諏訪神社、殿ヶ谷緑道、神明社、林泉寺、阿豆佐味天神社、玉林寺を回る: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004894.html
  • 市の散歩コースの案内には、所要時間は書かれていない。道順は各コースの地図(画像)で確かめてほしい
  • 本地仏、満願寺の聯、砂川十番の大幟、柴崎村絵図などは立川市歴史民俗資料館(立川市富士見町3-12-34)が保管している。展示されているとは限らないので、常設展示や企画展の内容は事前に確かめてほしい。JR青梅線の西立川駅から徒歩20分、またはJR立川駅南口から「新道福島」行きか「富士見町操車場」行きのバスで「団地西」下車、徒歩5分。入館は無料(立川市による): https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004849/1004905.html
  • 須﨑家の3階建ての蔵と小林家住宅は、川越道緑地の古民家園(立川市幸町4-65)にある。ただし、管理施設などの改修工事のため、令和8年(2026)6月1日から令和9年(2027)3月31日まで休園の予定で、その間は見学できない(立川市による)。入館は無料、休館日は月曜日(祝日・振替休日の場合は翌日)と年末年始。再開の時期は市の案内で確かめてほしい: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisetsu/1008065/1008100.html
  • 組み合わせて回るなら: 柴崎の古い村の真ん中にある普済寺と諏訪神社、段丘の下の根川緑道と多摩川、北の砂川と玉川上水を、この特集の別の一編がそれぞれ歩いている

跡を歩いたあとは、立川駅北口で

史跡をめぐる散歩は、思いのほか長い距離になる。駅の南の段丘を下り、また上り、住宅地の路地で石碑を探して行きつ戻りつする。気がつくと、ふくらはぎが張っている。その足をほぐして帰りたいなら、立川駅北口から歩いて1分の場所に、オンザショア立川店がある。東京都立川市曙町2-14-10、エトロワビルの3階だ。南口から歩いてきたなら、駅を抜けて北へ出ればすぐにある。

ここは溶岩ホットヨガのスタジオで、溶岩のプレートを敷いたスタジオでヨガをする。ほかに常温のヨガ、ピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもある。ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。

営業時間は8時から23時30分まで、年中無休で、どの曜日も同じ時間に開いている。朝の涼しいうちに古い村を歩き、昼前にレッスンに入ることもできるし、夕方まで西砂の緑道を歩いてから立ち寄ることもできる。

初めての人には、税込1,980円のヨガの体験レッスンがある。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれている。

妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

  • オンザショア: https://ontheshore.jp/
  • 料金: https://ontheshore.jp/price/
  • 体験の予約: https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp

南口の段丘の下では、柴崎分水の支流が今も、わずかな傾きを読みながら、家から家へ水を運んでいる。

冒頭の写真: 立川市の見影橋から見た玉川上水。玉石積みの岸と木々のあいだを水が流れる(写真: sewmew / Public domain / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

立川さんぽ特集のほかの記事

立川さんぽ特集の一覧

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

体験レッスンを予約体験専用 03-6665-0898LINE

💬 ご質問がある場合はこちらからどうぞ

オンザショアのチャットで質問する(24時間受付)

レッスン内容・料金・体験のご予約など、気になることをお気軽にお尋ねください。

1

2


Warning: Attempt to read property "show_author" on false in /home/c1531448/public_html/ontheshore.jp/wp-content/themes/heal_tcd077/single.php on line 165

関連記事

PAGE TOP
ご体験予約