立川観光と立川散歩の入口になる総合案内。立川とはどんな街か、何があるのかを、人口18万7千人・面積24.36km²・飛行場の来歴などの数字で示し、歴史・自然・アート・乗り物・子ども連れ・雨の日・夜・食の目的別に名所を案内する。モデルコース4本と、よくある問い10個への答えつき。
立川市には、国宝がひとつあり、南極の氷に無料で触れる場所があり、海が無いのに砂浜があり、高さ10mほどの「山」がある。
そう言っても、たいていの人は信じない。立川で降りる人より、立川を通り過ぎる人のほうが多いのではないか。私自身、長いあいだそう思い込んでいた。新宿から中央線で西へ向かうと、車窓に高いビルの群れが現れ、モノレールの梁が頭上を横切り、それから街はまた低く退いていく。乗り換えの駅。会議のある駅。どこかへ行く途中の駅。立川という名前には、そういう「途中」の匂いがまとわりついている。東京に住む人に聞いても、立川に何があるかをすらすら言える人は多くない。
ところが数字を並べると、途中の街は急に輪郭を持ちはじめる。市の面積は24.36km²。2026年1月1日の人口は187,440人。JRの立川駅で1日に乗る人は、JR東日本の公表によれば約15万人にのぼる。市の人口とほぼ同じ数の人が、毎日この駅で改札を通っている計算になる。通過する街どころか、多摩の人の流れがいったん結び目をつくる場所なのだ。
その結び目は、最初からあったわけではない。市がまとめた人口の推移を見ると、1759年の柴崎村の人口は1,065人。江戸の終わりを過ぎ、1889年に甲武鉄道、いまの中央線が開通しても、村は静かだった。表が急に跳ねるのは1922年である。立川飛行場が開かれたこの年、人口は前年の4,772人から6,115人へ、28%あまり増えた。翌年には町になり、1940年には市になった。立川は、飛行機に呼ばれて大きくなった街だった。
戦後、飛行場は米軍に接収され、1977年に全面返還された。返された広い土地は、国営昭和記念公園になり、広域防災基地になり、国の研究所の街になり、アートの街になった。南には多摩川と、千二百年前から続くと伝わる神社と、国宝の石の柱がある。北には江戸へ水を送った玉川上水と、日の光を知らずに育つ白い野菜がある。地味だと言われる街の地面を一枚めくると、たいてい、ほかのどこにも無いものが出てくる。
この頁は、立川さんぽ特集の入口である。何があるか、どう歩くか、何から読めばよいか。確かめた事実だけを手がかりに案内する。その前に、ひとつ問いを置いておく。この街はなぜ、平らな土地を手に入れるたびに、まったく別の顔に生まれ変わってこられたのか。
立川とはどんな街か 数字で読む立川
立川をひと言でつかむなら、私は「空いた土地を、そのつど別のものに変えてきた街」と言う。飛行場のために空けられた平らな土地は、基地になり、返還され、公園と研究所とアートの街になった。だから立川を歩くと、同じ場所に何層もの時代が重なっている。いま芝生の上で寝転んでいる場所は、かつて滑走路だったかもしれない。立川では、昼寝の場所にも履歴書がある。

写真: DiKnK8713 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
なぜここが選ばれたのか。立川市の資料「立川飛行場のあゆみ」は、理由を4つ挙げている。首都東京に近いこと。人家のない広い平らな土地があること。鉄道が通っていること。気象条件に恵まれていること。この4つを読み直すと、いまの立川がそのまま説明されている。都心に近く、平らで、鉄道があり、空が広い。飛行機を呼んだ条件が、百年後には人を呼んでいる。
数字で読む立川
- 24.36 ── 市の面積(km²)。このうち国営昭和記念公園の計画面積は180ha。市の地図に、ずいぶん大きな緑の切手が貼ってある。
- 187,440 ── 2026年1月1日の人口。1945年には、前年の60,000人から34,586人へ、4割あまり減った年もある。街の数字は、戦争の年を隠さない。
- 約15万 ── JR立川駅で1日に乗る人の数。市民全員が毎朝改札を通っても、まだ少し足りない。
- 113.2 ── 2020年の国勢調査による昼夜間人口比率(%)。昼の立川には、夜より2万4千人あまり多い人がいる。東京都の26市の中で、この比率がいちばん高い。
- 52 ── 東京うどの年間生産量(トン)。都内の収穫量の32.9%を立川市が占め、都内1位。
- 109 ── ファーレ立川のパブリックアートの数。うち何点かは、換気口や車止めの顔をして、今日もまじめに働いている。
立川市民が人に話したくなる、立川の9つのこと
「立川って何があるの」と聞かれて口ごもる人のために、確かめた事実を9つ置いておく。自慢は、出典つきのほうが強い。飲み会で使うときは、出典は言わなくてもよい。
- 日本で最初の民間定期旅客輸送は、立川から飛んだ。 市の資料によれば、1929年7月、立川と大阪のあいだで始まった。外国から名の知れた飛行家が相次いでやって来て、立川の名は国際的にも知られた、と資料は書く。
- 東京うどの生産量は、都内1位。 地下3mの室で、光を当てずに白く育てる。
- 市内に国宝が一つある。 普済寺の六面石幢は1361年の作。図像が刻まれた石幢は、確認されている中で普済寺のものだけだという。
- 南極の氷に、無料で触れる場所がある。 緑町の南極・北極科学館は国立極地研究所の展示施設で、入場は無料だ。研究所には約17,400点の隕石資料もある。
- 街の中に、36の国と地域から集まった92人の現代美術がある。 そのうちの1点は、ミニマリズムの彫刻家ドナルド・ジャッドの遺作である。
- 海の無い市に、日本最大を名乗るビーチBBQ場がある。 立飛駅から徒歩1分。運営する側も「海がないはずの立川で」と書いている。
- 多摩地区最大規模、約2,500席のホールがある。 飛行場の跡地に2020年に開かれた街、GREEN SPRINGSの中に。
- 昼に人が増える市としては、東京の26市で一番。 2020年の国勢調査で、立川市の昼間人口は207,832人、住んでいる人は183,581人。昼夜間人口比率113.2%は、東京都の市の中でもっとも高い。働きに、学びに、買い物に、人が立川へ入ってくる。
- 隣の国立市の「立」は、立川の「立」。 国立市の公式の説明によれば、当時の中央線は国分寺の次が立川で、そのちょうど真ん中に新しい駅をつくることになったため、両方の頭文字を取って「国立」と名づけられた。町の正式な名前になったのは昭和26年(1951年)。立川と国立は、駅の名前の段階から縁で結ばれている(国立散歩の記事)。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
立川で何がある? 目的別の案内(歴史・自然・アート)
まず要点を一行ずつ並べる。くわしい案内は、その下と次のページに続く。
- 歴史: 811年と伝わる諏訪神社、1353年開山の普済寺と国宝の六面石幢、1922年の立川飛行場から基地の返還まで。
- 自然: 国営昭和記念公園、根川緑道と多摩川、玉川上水、矢川の湧水と立川崖線の雑木林。
- アート: ファーレ立川の109点、GREEN SPRINGSの彫刻と光の作品。
- 乗り物と空: 多摩モノレール、立飛と飛行機の記憶、自転車、競輪。
- 子どもと: みんなの原っぱ、PLAY! PARK、立川まんがぱーく、立川防災館。
- 雨の日: 南極・北極科学館、PLAY! MUSEUM、まんがぱーく、映画館。
- 夜: 光るアート、24時間開放の広場、秋の紅葉ライトアップ、横丁。
- 食: 東京うど、うどの土産品、立川の麺。
歴史を歩く
立川の歴史は、駅の南から始まる。柴崎町の諏訪神社は811年に信州の諏訪大神を勧請したと伝わる古社で、普済寺は1353年、この地の武士団・立川氏が一族の菩提寺として開いた。寺は「普濟寺版」と呼ばれる仏教経典を刊行し、当時この地方の仏教文化の中心地だったと市は説明する。国宝の六面石幢は、緑泥片岩の6枚の板に仁王と四天王を刻んだ石の柱だ。(普済寺と諏訪神社を歩く)
北の砂川は、江戸時代に開かれた新田の村である。慶長年間に岸村の村野三右衛門が開墾を始め、1657年に砂川分水が通って開発が本格化した。五日市街道に沿って、短冊形の屋敷地が東西にどこまでも並ぶ。地元の人はこの細長い村を「二里八町・長新田」と呼んだという。名前を聞いただけで脚が疲れる村である。この砂川が立川市と合併したのは1963年のことだ。(玉川上水と砂川をゆく)
近代の立川は、駅と飛行場の物語である。立川駅の物語、米軍基地と砂川闘争、町の名前に残る謎を追う町名の謎、年号を一本の線にした立川の歴史年表が、時代を順にたどる。
自然と水辺
武蔵野台地の上の立川は、多摩川の段丘崖のほかは、おおむね平らな土地だ。その崖が、立川の水のありかを決めている。南の根川は、段丘の下の湧き水を集めて流れた川だった。いまの根川緑道は約1.3km、親水の池や水辺の四阿をたどって、多摩川の河原へ出る。市が選んだ「緑の十二景」には、根川のサクラ堤と、富士見町の立川崖線が入っている。崖線には武蔵野の雑木林が残り、一部から湧水が出る。(根川緑道から多摩川へ)
根川緑道の一帯には「詩歌の道」もある。全長約2.4kmにわたって句碑・歌碑・詩碑が建ち、その一つは高村光太郎の「葱」だ。立川の友達から届いた葱をうたった詩で、芸術家が葱に負けたと悔しがる一節まで石に刻まれている。立川の農産物は、詩人にまで張り合わせた実績を持つ。
多摩川は、山梨県の笠取山から東京湾まで全長138km。国土交通省の「関東の富士見百景」には、立川の多摩川緑地が選ばれていて、天気のよい冬には丹沢と秩父の山並みのあいだに富士山が見えるという。
北では、1653年に開削された玉川上水が市内を約5.6km横切る。羽村から四谷大木戸まで約43kmを8か月ほどで掘ったという水路の両岸は、春には桜のトンネルになる。
そしていちばん大きな緑が、国営昭和記念公園だ。年間で800種を超える花と植物が入れ替わる。(国営昭和記念公園を歩く、園内の農村風景を再現したこもれびの里と日本庭園)
アートの街
立川駅北口から歩行者デッキで3分。1994年にまちびらきした「ファーレ立川」には、109点のパブリックアートがある。ベンチ、車止め、換気口、街灯。作品は街の道具を兼ねていて、知らずに座っていたベンチが世界的な作家の作品だった、ということが起こる。1997年に結成された市民ボランティアの「ファーレ倶楽部」が、作品の案内と清掃を続けてきた。(ファーレ立川アートを歩く)
飛行場の跡地にできたGREEN SPRINGSにも、彫刻や光の作品が置かれている。植物は350種類以上。2階の人工地盤に約1haの広場をつくり、その下を駐車場にした。120mのカスケードは、玉川上水のせせらぎを再現したものだという。歩いていて気持ちのよい場所が、実は駐車場の屋根の上だと知ると、少しだけ足の裏がくすぐったくなる。(GREEN SPRINGSを歩く)
アートの街の顔を見たあとで、もう一度、あの問いに戻りたい。立川はなぜ、何度も生まれ変われたのか。その答えの半分は、駅の北の地面に、小さな痕跡として残っている。
飛行場の街が残したもの 駅の北で見つかる小さな痕跡
立川飛行場の年表を、市の資料で読み進める。1922年11月、陸軍飛行第五大隊が立川へ移った。1923年の関東大震災のとき、民間の飛行機が取材と原稿の輸送に活躍した。1927年、ソ連の飛行機が立川に飛来し、これが立川に来た最初の外国機になった。1929年、立川と大阪のあいだで民間の定期旅客輸送が始まる。1931年に旅客機が、1933年には民間航空が羽田へ移った。

写真: 国土地理院 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
羽田へ移った。この一行に、私は少し胸が詰まる。いま東京の空の玄関といえば羽田だが、その前の数年、東京の民間の空は立川から開けていたのである。立川は空港の座を羽田に譲り、そのかわりに軍都と呼ばれるようになった。1934年には陸軍航空廠が所沢から移ってくる。
痕跡は、駅の北に点々と残っている。市史編さんの広報紙『たちかわ物語』によれば、陸軍飛行第五連隊、のちの米軍基地の正門があった場所には、1990年に「市制50周年憩いの場」がつくられ、ヒマラヤ杉が往時をしのばせている。飛行場の東西には貨物専用の引込線が敷かれ、基地の返還とともに線路は撤去されて、1980年に遊歩道の「栄緑地」に生まれ変わった。あのころ、この線路を走っていたのは基地へ向かう貨車だった。いまそこを歩くのは、散歩の人である。線路の跡は、歩いてみると妙にまっすぐで、少し長い。遊歩道になってからも、線路だったころの癖が抜けない。
飛行機の工場の痕跡もある。石川島飛行機製作所、のちの立川飛行機は1930年に月島から移ってきた。1943年には工員宿舎として二戸建て平屋480戸の「高松住宅」が建てられた。ところが建っていたのは砂川村で、立川の地名が付いていると立川市の一部のように錯覚させるという理由で、のちに「南部住宅」と改められた。住所と名前が合わないと困るのは、昔も今も同じである。
娯楽の痕跡もある。1925年に完成した「立川キネマ」が、「映画の街立川」の先駆けになったと広報紙は書く。飛行場で働く人が増え、町が大きくなると、映画館ができる。人が集まる理由と、人を楽しませる場所は、たいてい同じ速さで育つ。
戦後、基地の跡地には国の機関がやって来た。国土交通省の資料によれば、立川基地跡地関連地区には、国文学研究資料館、国立極地研究所、統計数理研究所、国立国語研究所、自治大学校の5機関、あわせて345人が移ってきた。日本の古典、南極の氷、確率と統計、日本語。飛行機の離着陸を見ていた土地が、いまは国の知の一角を担っている。
1955年には基地拡張に反対する砂川闘争が始まり、1968年に滑走路の拡張計画の中止が発表された。1969年に米軍が立川での飛行停止を発表し、1977年に基地跡地が返還される。1983年に昭和記念公園が一部開園し、1986年に広域防災基地の建設工事が始まり、1994年にファーレ立川がまちびらきした。一枚の平らな土地が、半世紀あまりのあいだに、ほとんどすべての時代の用途を経験したことになる。
冒頭の問いに、ここで半分だけ答えておく。立川が何度も生まれ変われたのは、平らで広い土地が、一度に使い切られなかったからだ。基地の柵は一度には外れず、公園も30年をかけて少しずつ開いた。空いた土地を、そのつど時代が必要とするものに変えていく。その気の長さが、この街のいちばんの特技である。残りの半分は、歩きながら拾ってほしい。次のページには、乗り物と子どもと夜の立川、そして4本の道筋を置いた。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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