立川の国営昭和記念公園の奥にある、こもれびの里と日本庭園・盆栽苑の見どころと行き方。狛江から移された推定築250年の旧石井家住宅、市民が一から開墾した田畑と農事暦、数寄屋の歓楓亭、日本初の国営盆栽展示施設に並ぶ樹齢150年超の五葉松まで、公式資料で来歴をたどる。
立川市の文化財に、狛江で生まれた家がある。
立川と聞いて思い浮かべていたのは、駅前の人の多さとモノレールだった。田んぼでも、茅葺の門でもない。だから最初にこの事実を知ったとき、何かの間違いだと思った。
建てられたのは江戸時代の中ごろ、18世紀の後半と推定されている。場所は多摩川の下流、いまの狛江市だ。その家が、主屋も門も蔵もそろって、立川の、かつて陸軍の飛行場だった土地の上に建っている。周りには田んぼがあり、麦畑があり、炭焼き小屋があり、水車が回っている。
公園の地図で見ると、国営昭和記念公園の北の端、砂川口に近い一角だ。立川駅の側のゲートから入ると、みんなの原っぱを越えて、まだまだ歩く。公園の奥の、そのまた奥である。
なぜ飛行機の降りていた土地に、250年前の名主の家が引っ越してきたのか。そしてなぜ、この一角は「昭和30年代」という、ずいぶん中途半端に見える時代を選んで再現しているのか。その二つの問いを抱えて、公園の奥へ歩きはじめる。途中には、もうひとつの寄り道がある。池をめぐる日本庭園と、そこに置かれた50鉢ほどの小さな木々だ。
昭和記念公園の奥、こもれびの里へ
公園の総論は、この特集の別の一編に譲る。ここで必要なのは、ひとつの事実だけだ。この公園は、立川飛行場の跡地につくられた。平らで、広く、何もない土地である。その平らな土地の北の隅に、国は「こもれびの里」をつくった。
公式サイトの説明はこうだ。水田や畑、農家と屋敷林など、昭和30年代の武蔵野の農村風景や暮らしを再現している。テーマは「昭和・武蔵野・農業」。単に昔の風景を見せるだけでなく、農作業や年中行事などの体験を通じて、自然と暮らしの知恵を伝えることを目的に、平成19年に開園した。
開園の日付は、平成19年(2007)の10月13日である。この日付には見覚えがある。立川駅北口のファーレ立川がまちびらきを迎えたのも、1994年の10月13日だった。偶然だろう。だが立川という街は、どうも10月13日に何かを開けたがる癖があるらしい。
広さは2.4ヘクタール。岩手県が他の公園の取り組みを調べた資料に、こもれびの里の概要としてそう書かれている。主要施設は農家、田んぼ、畑、雑木林。180ヘクタールの公園から見れば、ほんの一角にすぎない。けれど、その一角の土は、ほかのどこよりも人の手で掘り返されてきた。それを知ったのは、公式サイトの奥に「里の開拓期」という年表を見つけたときだ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
何もない土地を、市民が開墾した
年表は平成12年度から始まる。最初の2年は計画と調査だ。こもれびの里の位置づけを整理し、市民の意向を調べ、指導者になれる人を探している。
平成14年度、記者発表などでクラブ員を一般から公募した。関東地方整備局の資料によれば、応募者の中から抽選で60名が選ばれた。こうして9月14日、ボランティア団体「こもれびの里クラブ」の開講式が開かれる。年表の次の行には、こう書いてある。「畑の開墾 はじめての麦まき」。
開墾という言葉に、少したじろぐ。21世紀の東京で、市民が畑を開墾している。しかも、その土はかつて飛行機を受けとめていた。
ここで、少し時計を巻き戻しておきたい。こもれびの里が再現しようとしている昭和30年代、この公園の北側に広がっていたのは、立川市ではなく砂川町だった。立川市の年表によれば、砂川村が町制を敷いたのは昭和29年(1954)。立川市と砂川町の合併がなったのは昭和38年(1963)である。市の統計を見ると、昭和29年の砂川の人口は1万2,599人。昭和30年代の武蔵野の農村は、どこか遠い山里の話ではなかった。里の門を出たすぐ先に、本物があったのだ。
もっとも、本物の昭和30年代は、のどかな絵葉書ではなかった。市の年表は、1955年の項に「砂川町で立川基地拡張反対闘争展開」と書く。飛行場の滑走路を延ばすための土地を求められた、砂川の町の人々の抵抗である。米空軍の司令官が滑走路の拡張計画の中止を発表したのは、立川市の資料によれば1968年12月。翌1969年10月には、米軍が立川での飛行停止を発表している。同じ年表には、1958年に砂川町で上水道事業が始まった、という一行もある。いまの若い人が蛇口をひねって当たり前に出てくる水は、この町では昭和30年代の半ばに届いた新しいものだった。
あのころ、金網の向こうには米軍の輸送機が降り、こちら側には砂川の畑が広がっていた。いま、その飛行場の跡で、市民が麦を刈っている。金網だけが、どこかへ消えた。
翌年の平成15年度には実験水田を開墾し、畑の開墾を終えて6面の畑が完成した。苗をもらって、うるち米の田植えと稲刈りをした。じゃがいもとさつまいもの寄付も、この年から毎年続く。平成16年度にはクラブ員が99名に増え、作業小屋の地鎮祭をしている。畑には麦、じゃがいも、さつまいも、落花生、陸稲、そば、すいか、かぼちゃ、ねぎ、大根、人参。へちまを育て、へちま水までつくった。年表の項目が、だんだん八百屋の品書きに見えてくる。
平成17年度に本水田の基盤を造る工事が始まり、翌18年度には本水田が完成して、うるち米ともち米を育てた。同じ年、炭焼き窯をつくり、池の水門と桟橋と水車の工事をしている。平成19年度にはクラブ員が106名になり、初めてアワを育て、井戸を掘った。そして10月13日、開園する。
この進め方には名前がついている。関東地方整備局の資料は、計画段階からのパートナーシップの実践として市民が計画、整備、管理運営に参加したことを、国営公園では初の取り組みと書いている。つまり、こもれびの里は、完成品を国が用意して市民に見せる場所ではなかった。市民が鍬を入れ、5年かけて田畑にした土地に、国が後から門を構えた、と言ったほうが近い。
そこへ、家がやって来る。
推定築250年、旧石井家住宅が引っ越してくる
こもれびの里の真ん中に「農家エリア」がある。建物は5棟で、そのうち主屋、長屋門、内蔵の3棟が東京都狛江市から移築され、立川市指定有形文化財「旧石井家住宅」になっている。外蔵は東京都あきる野市から移されたもので、旧岡野家住宅の蔵だ。

写真: Guilhem Vellut from Annecy, France / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
国営昭和記念公園事務所の平成25年3月の記者発表は、この農家を、東京都狛江市に建てられていたものを寄贈され、平成21年度から4年間かけて移築したと書いている。4年である。人の引っ越しなら、段ボールを詰めて1日で終わる。家そのものの引っ越しには、大学を卒業するほどの時間がかかる。
平成25年(2013)の4月13日に暫定公開が始まり、8月24日に全面オープンした。その日の式典では、建物を寄贈した人々に感謝状が贈られている。主屋では昭和30年代の生活を再現した展示が行われ、ふだんの見学は土間までだ。それでも年に何度か、「土間から上にあがってみよう」という催しがあり、座敷に上がって見学できる日がある。250年前の家の床を、靴下で踏める日である。
主屋の歳は、どうやってわかったのか。記者発表の別添資料に、その答えがある。ヒロマとナカノマの境に立つ束柱に、祈祷札が打ち付けられていた。その札から、建築年代は18世紀後半と考えられるという。柱に打たれた一枚の札が、250年後に家の生年月日を明かす。家が自分で名刺を持っていたのだ。
間取りにも履歴がある。解体調査と発掘調査によって、建てた当初は土間とヒロマ、ザシキ、ナンドの3室だったことがわかった。それがのちの改修で、6室の「六ッ間取り」になった。家は、住む人の暮らしに合わせて、少しずつ部屋を増やしてきたのだ。
長屋門と内蔵が語る、名主の仕事
長屋門は、19世紀の初めごろの建立と推定されている。門の中央の通路に内開きの扉と脇の潜戸がある。そして東側の部屋は、村の年貢米を預かる穀蔵だった。西側の部屋は、高札や村の共有物、農具をしまっていたと考えられる納戸である。
つまりこの門は、家の出入口であると同時に、村の役所の倉庫でもあった。自分の家の玄関の脇に、村じゅうの年貢を預かっている。年貢を運んできた村人は、この門の前で背筋を伸ばしたのではないか。いや、村じゅうの米を玄関脇に抱えた門の主のほうが、夜はよほど気が気でなかったかもしれない。
主屋に接する内蔵は、明治時代の初めごろの建物と推定される。梁行2間、桁行3間の二階建てで、茅葺の置屋根、妻入。中には祝いの什器や衣類、嫁入りの長持や箪笥、そして名主の記録類が収められていたことから、文庫蔵とも呼ばれている。旅行情報サイトの解説も、この家を多摩郡和泉村の名主の屋敷としている。
外蔵は、穀物などの収穫物をしまうのに使われていた。いまは、こもれびの里のあゆみや農事暦のパネル、民具を展示している。
では、なぜこの家は狛江から立川へ来たのか。記者発表の言葉は短い。寄贈をいただき、移築した。家を手放した側の事情を、公の資料は語らない。わかっているのは、寄贈によって家が残り、市民が5年かけて開いた田畑の真ん中に置かれたということだ。多摩川の下流で250年を過ごした家は、上流の台地へ移り、立川の文化財になった。
こもれびの里の一年は、農事暦で回る
公式サイトには、こもれびの里の農事暦が月ごとの表で載っている。これが、思いのほか面白い読み物になっている。
1月は麦踏みと、まゆ玉飾り。2月はくん炭づくりと水路の補修、そして初午の飾り。3月にひな人形を片付け、じゃがいもを植える。4月の下旬には田起こしと荒代かき。こいのぼりの竿を立て、端午の節句を迎える。5月に大麦を刈り、6月の上旬に田植えをする。同じ6月に小麦を刈って脱穀し、「鎌洗い」を行う。7月は七夕飾りとお盆の飾り付け。8月にそばの種をまく。9月の十五夜のあと、下旬に稲刈り。10月は脱穀と籾摺り、十三夜、そして「おかまの団子」。11月にそばを刈って天日に干し、麦をまいて、えびす講。12月は正月飾りの準備で終わる。
表の中でひときわ妙な存在感を放つのが「おかまの団子」だ。公式サイトの行事案内に、ちゃんと説明があった。火の神さまである荒神さま、つまりおかまさまが、神無月に出雲大社へお出かけになる。そのために、お団子をお供えするのだという。神さまの出張に、弁当を持たせる。この人懐っこさには、しばらく笑いが止まらなかった。
秋の行事は、ほかにも続く。十五夜は「中秋の名月」とも「芋名月」ともいい、芋や団子を飾って、これから始まる収穫期を前に豊作を願う。十三夜は「栗名月」で、栗や団子を飾る。11月のえびす講では、えびす神を祀り、一年の無事を感謝して五穀の豊穣を祈る。農家の座敷に、行事ごとの飾りが入れ替わる。月を見る前に、まず芋と栗を用意する。昔の人の風流は、だいたい胃袋から始まっている。
表を眺めていると、ひとつのことに気づく。この一年には、終わりがない。12月に正月飾りを準備し、1月にそれを片付けて、また麦を踏む。稲を刈れば、その籾から次の年の種を取る。9月の表には「種取り」とちゃんと書いてある。こもれびの里は、完成した風景を見せる場所ではない。同じ作業を毎年くり返すことで、風景をその都度つくり直している場所なのだ。
里だよりに書かれた、週ごとの手仕事
公式サイトの中に「ボランティアブログ」という一角があり、こもれびの里の作業の記録が「里だより」として、ほぼ毎週載っている。書き手は里で汗を流している人たちだ。飾り気のない箇条書きなのに、読み出すと止まらない。
2026年の6月には、作業庭で麦の脱穀をしている。動力脱穀機を使い、唐箕で粒と殻をより分け、「くるり棒」で麦の穂先を叩いて粒を落とした。機械と昔の道具が、同じ庭に並んでいる。7月の初めには、お盆の盆棚に飾るための松明を、里で穫れた麦でつくっている。9月の下旬には、稲を刈って束ね、はざ掛けをし、その上から鳥よけの網を掛けた。ヒョウタンは、中身を腐らせて出すために、水に浸けて水を替え続ける。草刈りは、鎌を研ぎながら進める、と何度も書いてある。
なかでも気に入ったのは、8月の記録だ。真夏の作業の欄に、「正月飾り」用のシデ作り、そして「初午」用の五色の旗作り、とある。8月に正月の支度をしている。気が早いのではない。農事暦の一年は、それくらい前から段取りをしないと回らないのだ。暑さで正月の存在そのものを忘れかけていた私には、少々耳が痛い。
秋の里は、とりわけにぎやかになる。2026年の「こもれびの里展」の案内によれば、農家の主屋と外蔵に、古民家が公園へ移されるまでの変遷のパネルや、里に来る野鳥のスケッチ、わら細工、ハスの実飾り、そしてボランティアがつくった尺八が並ぶ。長屋門には、昔の農具や民具が置かれる。普段は公開していない内蔵と主屋を案内するガイドツアーもある。
その期間の土日には、水田の横の園路脇に「大のぼり」が揚がる。高さ16メートルの竿に揚げる祭礼の幟だ。長屋門の中には、約150年前の大のぼりの挟木と、そこに施された彫刻が展示されるという。関東地方整備局の資料は、これを「地元に残る大ノボリの復活」と書いている。16メートルといえば、5階建ての建物ほどの高さになる。かつて飛行機が低く降りてきた空に、いまは秋の幟が高く揚がる。
11月の「里の収穫祭」では、里で穫れた新米で餅をつき、里の小麦を石臼で挽いてふるい、昔の「縄ない機」で縄をなう。宝船が飾られ、和太鼓が鳴る。餅つきを体験した人には、きなこと胡麻の餅に、里の収穫物を分ける「宝分け」がつくそうだ。もらえるものの名前が、いちいちめでたい。
数字で読む こもれびの里と日本庭園
- 250 — 主屋の推定築年数。建ったとき、日本の空に飛行機が飛ぶ予定は、まだ何ひとつなかった。
- 1958 — 砂川町で上水道事業が始まった年。昭和30年代の里を再現するなら、蛇口はまだ新品である。
- 4 — 家の引っ越しにかかった年数。平成21年度から24年度まで。荷造りがいちばん大変なのは、人も家も同じらしい。
- 60 — 平成14年、開墾を始めたクラブ員の人数。一般公募の抽選である。抽選に当たって、もらえるのが開墾の権利だった。
- 2.4 — こもれびの里の広さ、ヘクタール。この中に田んぼも麦畑も炭焼き小屋も水車も入っている。
- 16 — 秋に揚がる大のぼりの竿の高さ、メートル。飛行場の跡地で、いちばん高く空に近いものかもしれない。
- 7 — 日本庭園の滝の落差、メートル。北の森から湧き出した水が、岩組を落ちて池に注ぐ。
- 約80 — 盆栽苑が持つ盆栽の鉢数。常時並ぶのは約50鉢で、残りは控えの選手である。
里を出て、南へ歩く。次は、同じ公園の中にある、まったく別の「昔」だ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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