立川は海外とつながっていないのか。1959年、立川は米国カリフォルニア州サンバーナディノ市と、東京で最初の姉妹市を結んだ。補給基地の町どうしが結ばれた経緯、1962年から続く交換高校生、もう一つの姉妹都市・大町市、6,591人の外国籍の隣人と多文化共生まで、公式資料でたどる。
サンバーナディノ。舌を噛みそうな名前である。ロサンゼルスから東へ約100キロ、カリフォルニアの内陸にあるこの街が、立川の姉妹市だと知っている立川市民は、どれくらいいるのだろう。
私はしばらく、立川は海外とあまり縁のない街だと思い込んでいた。基地はとうに返され、空港は羽田と成田にある。駅前を行き交うのは、多摩の買い物客と勤め人だ。ところが市の資料をめくると、立川は1959年の暮れに、アメリカの一都市と正式に手を結んでいる。それは東京都で最初の姉妹市提携だった。全国でも27番目。日本で最初の姉妹都市が生まれてから、わずか4年後のことである。
では、立川はなぜ、海の向こうのサンバーナディノと結ばれたのか。ニューヨークでもサンフランシスコでもなく、日本ではほとんど名前を聞かない内陸の街と。その問いを手に、古い年表と、太平洋の向こうの市役所の記録を読んでみることにした。
立川の姉妹都市はどこか──1959年12月、東京で最初の姉妹市
立川市の「都市交流」の頁に並ぶ名前は、二つしかない。アメリカ合衆国サンバーナディノ市と、長野県大町市。立川の姉妹は、海の向こうに一人、山の向こうに一人である。
サンバーナディノとの提携の日付を、立川市は1959年(昭和34年)12月23日としている。市の年表は「姉妹市」という言葉を使う。姉妹都市ではなく、姉妹市。一字少ないだけで、少しだけ古風に聞こえる。
太平洋の向こう側の記録は、日付が少し違う。サンバーナディノ市の旧公式サイトの姉妹都市の頁は、市長と市議会が提携を議決した日として、1959年12月14日を挙げている。どちらが間違いというわけではなく、片方は議決の日、もう片方は提携の成った日として残されているのだろう。九日のずれは、太平洋の幅のようなものだと思っておく。
その頁には、もう一つ、立川の人が読むと少し胸を張りたくなる一文がある。「立川との姉妹提携は、私たちの関係のなかで最も古い」。サンバーナディノはその後、メキシコのメヒカリ、ニュージーランドのタウランガ、韓国の高陽、イスラエル、フィリピン、ロシア、中国、ナイジェリア、ルワンダの都市とも縁を結んでいく。その長い家系図のいちばん上に、立川の名前が書かれている。長姉、と言ってよい。
日本の姉妹都市の歴史から見ても、1959年は早い。長崎市の記録では、日本とアメリカの最初の姉妹都市は、1955年12月に提携した長崎市とミネソタ州セントポール市である。アメリカでは翌1956年、アイゼンハワー大統領のもとで姉妹都市の全国組織が生まれた。市民どうしが直接つきあうことで国と国の溝を埋めようという、戦後の大きな流れである。立川は、その流れが始まって4年のうちに、東京でいちばん先に乗った。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
なぜサンバーナディノだったのか──補給基地の町と、補給基地の町
立川市は、提携の理由をかなり率直に書いている。サンバーナディノ市にはノートン軍事基地があり、それが米軍立川基地と同じく補給基地であったこと。人口や産業に似たところが多く、交通の要衝であるなど、市の性格が似ていること。そして、サンバーナディノ市とその周辺には日系アメリカ人が多いこと。だから日米親善に意義があると認められた、と。

写真: Balthazar Korab / Public domain / Wikimedia Commons
要するに、似た者どうしの縁組みである。
サンバーナディノの側から見ると、似ている点はもっとはっきりする。ノートン空軍基地の博物館がまとめた歴史を読むと、この基地はもともと市営の飛行場で、1941年の夏に陸軍の操縦士の訓練基地になり、のちに補給と整備の大きな拠点になった。1966年からは第63軍事空輸航空団の本拠地として、世界中の部隊へ空から物資を運んだ。
一方の立川基地も、空の物流の街だった。市史編さん室の広報紙『たちかわ物語』は、1956年(昭和31年)からは、羽田空港で扱っていた軍の輸送も立川基地のターミナルで受け入れるようになった、と書く。極東の空の荷物が、立川を通って行き来していたのである。補給基地の街と補給基地の街。片方は砂漠に近い乾いた盆地、片方は武蔵野の台地。気候以外はたしかによく似ている。
人口もいまだに似ている。英語版の百科事典が引く2020年のアメリカの国勢調査では、サンバーナディノ市の人口は22万2,101人。立川市の人口は、2026年1月1日現在で18万7,440人。「人口・産業等の類似点」という60年以上前の理由が、数字の上ではまだ生きている。
基地の名前にも、小さな物語がある。サンバーナディノ市の旧公式サイトの歴史の頁によれば、この基地は1950年、レランド・F・ノートンという地元生まれの若者の名をとって改称された。1921年にサンバーナディノで生まれ、地元の高校とカレッジに通い、1944年5月27日、フランスのアミアン上空で戦死した人である。故郷の空港に、故郷の青年の名が付いた。立川の基地には、そういう人の名前は付かなかった。
もう一つの理由、日系アメリカ人の多さについては、市の頁はそれ以上を語らない。英語版の百科事典は、サンバーナディノの中心街の東、セコム公園のあたりに、かつて日系人の住む地区があったと書いている。海の向こうに、日本の名字をもつ人々が暮らす街がある。それが、基地の街どうしの縁組みに、もう一つの意味を足したのだろう。
では、この縁組みを結んだのは、どんな人たちだったのか。立川市の資料は、そこを書いていない。答えは、太平洋の向こうにあった。南カリフォルニアの姉妹都市協会が2014年にサンバーナディノで開いた会合の報告に、こうある。1959年に立川との姉妹都市を結んだのは、ルイスとセルマ・プレスの夫妻である、と。
この名前は、60年後にもう一度出てくる。
1959年の冬、立川で起きていたこと
1959年という年を、立川の側からもう一度眺めてみる。この年は、立川にとって穏やかな一年ではなかった。
この特集の基地の歴史の回で書いたとおり、立川基地の拡張に反対する砂川の闘争は、この年に二つの判決を迎えている。3月30日、東京地方裁判所は、基地に入ったとして起訴された人々を無罪とした。いわゆる伊達判決である。そして12月16日、最高裁判所の大法廷がその判決を破棄した。
サンバーナディノ市議会が提携を議決したのは、その2日前の12月14日。立川市が姉妹市の提携の日とするのは、その1週間後の12月23日である。
基地をめぐって最高裁が判決を出したその月に、基地の街どうしの縁組みが成った。対立と交流が、同じ月の暦に並んでいる。暮らしというものは、たいていこういう二枚重ねでできているのだと思う。
同じ12月の立川には、もう一人、海の向こうから客が来ていた。『たちかわ物語』の第21号は、日系アメリカ人として初めて連邦の下院議員になったダニエル・K・イノウエが、昭和34年12月に立川基地に降り立ったとみられる、と書いている。日系人の多い街との縁組みと、日系人の議員の来訪。偶然かどうかは分からない。ただ、1959年の冬の立川の空は、思いのほかアメリカと近かった。
基地の時代、日本人とアメリカ人の交わりは、フェンスの内と外にまたがっていた。同じ広報紙は、立川基地が現在の市域のおよそ6分の1に及び、日本人を含めて数万人の軍人・軍属が働いていたと記す。基地で働く日本人は立川基地だけで約1万2千人にのぼった、と書く記事もある。基地が日本人にも開かれる友好祭があり、基地のゲートの前の小学校には、クリスマスに子どもたちが基地までプレゼントをもらいに行った記録が残る。一方で、同じ学校の資料には、米兵との間で起きた問題の記録もある。光と影の両方を抱えたまま、立川はアメリカと隣り合っていた。
そして、そのフェンスの外側で、市民どうしの約束を結んだ。基地の兵士ではなく、高校生を行き来させるという約束を。
数字で読む立川の姉妹市
- 1959 ── 提携の年。東京で最初、全国で27番目。立川は、東京の姉妹都市の長女である。
- 1962 ── 交換高校生が始まった年。東京オリンピックより2年早く、立川の高校生は太平洋を渡っていた。
- 約100キロ ── ロサンゼルスからサンバーナディノまでの距離。姉妹委員会の頁の言い方では「ロサンゼルスの東方約100km」。カリフォルニアと聞いて海辺を思い浮かべた人には悪いが、海の見えない内陸の街である。
- 195と204 ── 2018年度までに立川から派遣された高校生の累計。市の二つの頁で数字が違う。数え直したくなるが、200人前後の若者が海を渡ったことに変わりはない。
- 23 ── 大町市の面積が立川市の何倍か。もう一人の姉妹は、体格がずいぶん大きい。
- 6,591 ── 2026年1月1日現在、立川で暮らす外国籍の住民の数。姉妹市の外にも、世界はとっくに住んでいる。
タチ・キッズとサン・キッズ──1962年から続く交換高校生
提携の翌年、1960年1月20日、立川市姉妹市委員会が生まれた。1995年に立川・サンバーナディノ姉妹市委員会と名を改め、いまに続く。目的は、文化や経済の交流を通じた両市民の親善と理解、そして世界平和への貢献である。目的が大きいのは、戦後の姉妹都市の常だ。
提携した当初、交流は子どもたちの絵や作文の交換から始まった、と市の頁は書く。紙の上の交流は、1962年に人の交流に変わる。委員会が、立川の高校生をサンバーナディノへ派遣しはじめたのである。
仕組みは、いまの言葉で言えば、相互のホームステイだ。市の頁によれば、例年6月下旬から7月下旬までの約1か月、サンバーナディノの高校生が立川の里親の家に滞在し、市内の中学・高校や公共施設を見学する。入れ替わるように7月下旬から8月下旬まで、立川の高校生がサンバーナディノの家庭で暮らす。対象は立川に1年以上住む高校生で、募集は若干名。渡航費は委員会が全額を負担する。
サンバーナディノの側では、この子どもたちに愛称がある。サンバーナディノ・バレー・カレッジが2019年に載せた記事では、立川へ行くサンバーナディノの高校生は「タチ・キッズ」と呼ばれる。そして7月に彼らが帰国するとき、一緒に海を渡ってくる立川の高校生は「サン・キッズ」。立川の子は「サン」、サンバーナディノの子は「タチ」。互いの街の頭の二文字を、名札のように胸に付けている。こういう名前の付け方が、私はとても好きだ。
同じ記事は、60年のあいだに数百人の高校生が太平洋を両方向に渡り、ひと月を一緒に暮らすうちに多くが受け入れ先の家族を好きになり、生涯の友になる、と書いている。選考に携わる委員の一人は、1992年に自分の娘が日本へ行って以来、毎年夏に両国の生徒が考えを交わすのを見てきたという。
立川の側にも、帰国した若者を受け止める仕組みがある。総務省の資料によれば、派遣された高校生は帰国後、OBとOGでつくる青年クラブの会員になり、翌年以降に派遣される後輩を支える。送り出された者が、次を送り出す。60年続く交流は、たいていこういう地味な循環で回っている。
交流は、困ったときの助け合いにもなった。同じ資料の記すところでは、2003年にサンバーナディノ郡で大きな山火事が起きたとき、立川・サンバーナディノ姉妹市委員会が義援金を集めた。2011年の東日本大震災のときには、今度はサンバーナディノ姉妹市委員会が中心になって義援金を集めた。2019年、立川の委員会は、総務省の第13回自治体国際交流表彰の受賞団体に選ばれている。
サンバーナディノの委員会も、交流の費用を自分たちで稼いできた。2014年の会合の報告には、毎年のゴルフ大会、不用品のバザー、洗車、花火の販売で資金を集めていると書かれている。アメリカの高校生が車を洗ったお金で、立川の高校生がアメリカの台所で朝ごはんを食べる。国際交流の現場は、案外こういう手ざわりでできている。
では、その200人前後の「サン・キッズ」は、その後どんな大人になったのか。一人だけ、驚くような行き先がある。
旅人の寄り道クイズ
1971年に立川からサンバーナディノへ派遣された交換高校生の一人は、のちに国際機関のトップに選ばれた。どこの長になったのか。
(A)アメリカ航空宇宙局(NASA)(B)国際司法裁判所(C)国際オリンピック委員会
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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