立川の夜は、なぜ北口と南口で顔が違うのか。南口が開いた1930年、お座敷でうたわれた立川小唄、建物疎開の空き地に立った闇市、米兵相手の夜店通り、10館の映画館が並んだ映画の街、半世紀かかった南口の区画整理。市の年表と統計、図書館資料でたどる、立川の飲み屋街と横丁の来歴。立川さんぽ特集の一編。
夜の8時、立川駅の改札を出て、北へ曲がるか南へ曲がるかで、別の街に着く。
北口に出れば、広い歩行者デッキがビルの2階をつなぎ、大きな建物の灯りが夜空を四角く切り取っている。南口に降りれば、駅前の広場の先に細い路地が分かれ、小さな看板の灯りが低いところで揺れている。同じ駅の表と裏で、夜の顔がまるで違う。
立川の夜、と聞いて、思い浮かぶものは特にない、と言う人もいるだろう。新宿のように眠らない街でもなく、中央線の古い飲み屋街のように名の知れた横丁があるわけでもない。だが私は、その北と南の落差が気になった。同じ線路の両側で、なぜこうも夜の作りが違うのか。答えを探して、古い年表と、図書館の棚と、統計の表を開いてみることにした。
立川の夜は、なぜ北口と南口で顔が違うのか
まず、数字から始めたい。
東京都がまとめた令和2年(2020)の国勢調査による昼間人口の表を開くと、立川市の夜の人口、つまり常住人口は18万3581人。昼の人口は20万7832人ある。昼の人口を夜の人口で割った昼夜間人口比率は113.2パーセント。東京の26の市の中で、いちばん高い。
昼に、夜より2万4千人ほど多くの人がいる街。日が暮れると、それだけの人が立川から帰っていく。夜の立川は、昼の立川より少しだけ広い。
人が集まる理由は駅にある。JR東日本が公表している2024年度の各駅の乗車人員で、立川駅は1日平均15万4091人、JR東日本の全駅の中で14位に入っている。降りる人は数に入らないから、実際に駅を通る人はもっと多い。内訳を見ると、定期券で乗る人が8万286人、定期券を使わずに乗る人が7万3805人。半分近くが、通勤や通学の決まった道ではなく、その日の用事で立川駅から乗っている。この駅は、毎日通う人の駅であると同時に、たまたま来た人の駅でもある。
その15万人が、夕方になると、北と南に分かれて散っていく。一部はそのまま家路につき、一部は街に残る。残った人々を受け止める夜の器が、北と南でこれほど違うのはなぜか。
答えの半分は、駅に口がひとつしかなかった時代にさかのぼる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
立川駅は、北にしか口がなかった
立川市の散歩コース「近・現代を歩く」は、立川が多摩の交通と経済の中心として発展した理由のひとつに、明治22年(1889)に甲武鉄道、いまのJR中央線が開通したことを挙げている。そのあと明治27年に青梅鉄道、昭和4年(1929)に南武鉄道、昭和5年に五日市鉄道が乗り入れた。

写真: panotest001 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
市の年表の昭和5年(1930)の項には、短くこう書かれている。立川駅南口開設。
つまり、立川駅は開業から40年あまり、北にしか口がなかった。三井住友トラスト不動産がまとめた街の記録によれば、明治の終わりに東京府立第二中学校ができたものの、昭和の初めまで駅の南側には桑畑が広がっていた。北が表で、南は文字どおり裏だった。
その表側に、大正11年(1922)、飛行場がやって来る。同じ記録によれば、飛行場ができると人口が急に増え、家が建て込んだ。市の年表は、大正14年(1925)に立川で最初の映画館「立川キネマ」が開館したと記す。街の記録によれば北口の映画館で、南口側には「立川演芸館」も開いた。
南側の土地は、口が開く少し前から準備を始めていた。昭和3年(1928)から、地主たちによる耕地整理が行われ、区画の整った街並みになった。立川市教育委員会は1999年に『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達』という本を出し、資料調査と聞き書きでこの南口の耕地整理を記録している。立川市図書館の手引き「立川駅前の変遷を調べる」が、南口を調べるための本として最初に挙げているのがこれだ。
畑を整えた区画が、そのまま街の区画になった。桑畑を区切り直した線の上に、やがて軒が並ぶ。この区画が、のちに南口の夜の形を決めていく。
お座敷でうたわれた「立川小唄」
飛行場ができて急に大きくなった街には、宴の席も増えた。
立川市の市史編さん室が出している広報紙「たちかわ物語」の第7号に、「立川小唄」の話がある。昭和5年(1930)、南口が開いたのと同じ年に作られた歌だ。郷土史家の考察を引いて、広報紙はこう書く。立川小唄は当時の文化的な機運に乗って企画され、作詞家に詞を頼んだうえ、立川の知識人の後援や、公募による意見も取り入れた。お座敷で踊りとともにうたわれ、宴会などでも広く親しまれた。
街の歌を、公募の意見を聞いて作る。昭和の初めの立川の人々は、自分たちの街を歌にしたかったのだ。そして、その歌がうたわれた場所が、お座敷だった。
住宅情報サイトに載った都市論の記事は、戦前の駅周辺には飛行場や飛行機工場の関係者を主な客とする料亭が10軒ほどあり、南口側の錦町は昭和3年ごろに二業地に指定され、羽衣町にも花街ができた、と書いている。空の都の夜は、料亭の座敷の灯りでできていた。
立川小唄の存在を後の世に伝えるために建てられた記念碑が、いまも残っている。広報紙によれば、場所はかつての立川飛行場の正門前、多摩信用金庫の本店のそばである。その本店は2020年に移り、旧本店の建物は2023年に別の施設に生まれ変わったと街の記録は伝える。歌の碑だけが、飛行場の正門だった場所の前で、昭和5年の宴の席を覚えている。
座敷の灯りが消えたのは、戦争の終わりが近づいたころだ。
建物疎開の空き地に、闇市が立った
立川市図書館の手引き「立川空襲について調べる」は、『立川の建物疎開の記録』という本を紹介している。戦時中の建物疎開を、新聞記事や住民への聞き書きで検証した記録だ。三井住友トラスト不動産の街の記録によれば、昭和19年(1944)、空襲に備えて北口の駅前などで建物が取り壊された。そこに広い空き地が生まれた。
市の年表によれば、立川市は昭和20年(1945)に13回の空襲を受け、大きな被害を受けている。そして同じ年の9月、米軍が立川飛行場に進駐した。
関東都市学会の年報に載った闇市の研究は、戦後、日本各地の駅前の空き地に、闇市と呼ばれる多くの露店市が現れたと書く。配給と流通の仕組みが崩れ、取り締まりが弱まり、そして強制疎開の跡地のような、交通の便のよい空き地があった。立川の北口は、その条件をすべて満たしていた。
住宅情報サイトの都市論の記事によれば、軍の関連の仕事を失った人々の多くは故郷へ戻り、市の人口は一時半減して、街には失業者があふれた。米軍が進駐すると、駅北口の広場から高松通りにかけて露店が並び、闇市ができた。街の記録も、駅北口には露店やヤミ市が並んだと書いている。
空き地は、空襲に備えて作られた。その空き地に、空襲のあとを生きる人々が店を出した。北口の夜は、この広場から始まっている。
この時代の立川を、地元の側から書き残した本がある。立川市図書館の手引きは、南口の資料の中に、市内の人が書いた『立川―昭和20年から30年代―』と『立川―民間が拓いた戦後―』を挙げている。民間が拓いた戦後。題名がそのまま、この街の戦後の性格を言い当てている。役所の計画より先に、人々の商いが駅前の空き地を埋めていった。同じ手引きは、昭和の立川をカラー写真で残した写真集『立川の風景 昭和色アルバム』も紹介している。白黒の記憶ではなく、色のついた昭和の駅前が、図書館の棚で見られる。
夜店通りと、緑川沿いの英語の看板
立川市歴史民俗資料館の解説「立川飛行場のあゆみ」は、戦後の街の様子を一行で伝える。まちのあちこちには、英語の看板をかけたアメリカ兵相手の商店が目につくようになった。添えられた写真の説明は、英語の看板をかけた商店(緑川沿い)。
緑川は、北口の街の成り立ちに欠かせない川だ。街の記録によれば、戦前の立川では、大雨のたびに飛行場の雨水が駅前に集まって浸水していた。昭和18年ごろに排水路の工事が始まったが、完成しないまま終戦を迎える。米軍の協力もあって昭和22年(1947)に完成し、市の年表によれば昭和24年に緑川と名づけられた。浸水を防ぐために掘った水路の岸に、英語の看板が並んだ。
1950年に朝鮮戦争が始まると、街は米兵相手の商売で好景気になった。都市論の記事によれば、駅北口の東側は「夜店通り」と呼ばれ、米軍相手のカフェやビヤホールが多く集まった。街の記録は、昭和30年代から40年代の北口に、高松通りの商店街や、基地の正門から北西にのびるフインカム前商店会があり、後者には米兵向けのバーやキャバレーが多かったと書く。
同じ記事は、駅の周辺から高松町、曙町、富士見町、錦町、柴崎町にかけて、ホテルやビヤホール、バー、キャバレーが数多くできたと記している。その賑わいの裏で、市民への暴力や騒音が街の悩みになったことも、街の記録は伝えている。夜の灯りは、いつも同じ色をしていたわけではない。
曙町という名前と、消えた川の橋
北口の繁華な一角を歩くと、町の名前が気になってくる。曙町、高松町、錦町。市の年表によれば、富士見、柴崎、錦、羽衣、曙、高松、緑の各町丁名が設定されたのは昭和17年(1942)、戦争のさなかだった。
夜の灯りがいちばん多い北口の一角の町名が、曙、つまり夜明けである。名づけた人々は、この町が夜にいちばん賑わうことになるとは、たぶん考えていなかった。宵っ張りの町に、夜明けの名札。洒落た偶然である。
米兵相手の店が並んだ緑川は、いまは見えない。街の記録によれば、緑川は昭和29年(1954)にコンクリートの護岸に改められたが、昭和30年代からは転落事故を防ぐためなどの理由で暗渠化が進み、いまの緑川通りなどになった。かつて川に架かっていた橋の名前は、交差点の名前「曙橋」に残っている。
川の上に通りができ、橋の名が交差点に残る。夜、緑川通りを歩いても、足もとを水が流れていることを示すものは、ほとんど目に入らない。英語の看板が映っていた川面は、いまは舗装の下にある。
通りの名前にも、時代の層がある。街の記録によれば、昭和30年代から40年代に高松通りの商店街があった通りは、1984年に東京都が通称道路名を定めた「立川通り」の一部になった。基地の正門から北西へのびていたフインカム前商店会の通りを、立川市はいま「南北道路」と呼んでいる。米兵がバーやキャバレーへ向かった道は、名前を変え、いまは昼も夜も車が行き交う。
数字で読む 立川の夜
- 1930 — 立川駅に南口が開いた年。それまで40年あまり、立川駅は北しか向いていなかった。
- 113.2 — 立川市の昼夜間人口比率(2020年)。東京の26市で1位。日が暮れると、2万4千人ほどが帰り支度を始める。
- 15万4091 — 立川駅の1日平均乗車人員(2024年度)。降りた人は数に入っていない。
- 10 — 1960年代に北口と南口を合わせて並んでいた映画館の数。
- 8対2 — 1972年度の駅前商店街の売上の、北口と南口の割合。南口は長く肩身が狭かった。
- 51 — 南口の区画整理が都市計画で決まってから、事業が完了するまでの年数。
キャバレーの建物が、学校になった
この時代の立川には、ひとつ、とびきり立川らしい話がある。
都市論の記事によれば、曙町には米軍相手の店として知られた「立川パラダイス」があった。旧陸軍の倉庫の跡で、いまの自衛隊の敷地のあたりだという。パラダイスは数年で店を閉じ、その建物を使って立川専門学校が設立された。
立川市の散歩コース「近・現代を歩く」には、その学校の側の記録がある。昭和22年(1947)、立川専門学校として、いまの市立二中の南側に創立された。初代の学校長は市内の人で、私財を投じて設立した。戦後の多摩地域の人材の育成に大きく貢献し、のちに都立の短期大学になった。
キャバレーの建物で、学生が学ぶ。夜の店が、昼の学校になる。戦後の立川は、建物の使いみちを、夜から昼へ、ずいぶん大胆に掛け替えた。
基地の街の夜は、隣の町の選択にも影を落としている。昭和30年(1955)に衆議院に出された質問主意書は、北多摩郡国立町の文教地区が、昭和27年(1952)1月の建設大臣の告示によって指定されたと記している。都市論の記事は、下宿屋がホテルに変わったことへの反対運動から、国立が文教都市を掲げるようになったと書く。立川の夜が明るくなるほど、隣町は静かな夜を選んだ。どちらも、自分の街の形を自分たちで決めようとしていた。
そして、立川の駅前には、もうひとつ、夜を思わせる碑がある。散歩コースが立川駅の次に挙げるのが、若山牧水の歌碑だ。「立川の驛の古茶屋さくら樹の もみぢのかげに見送りし子よ」。牧水は明治39年、早稲田大学在学中に友人と奥多摩へ旅したとき、立川駅で降りて茶屋で休み、この歌を詠んだ。碑は昭和25年(1950)、市制10周年を記念して有志が建てたという。碑面の文字は牧水の妻の筆で、夫人は戦後、建築家で歌人だった息子とともに立川に移り住んでいた、と散歩コースは書く。その息子の名は、旅人という。旅の歌人の息子が旅人と名づけられ、母とともにこの駅の街に暮らした。散歩コースは牧水を、旅と酒を愛したことで知られる、と紹介している。
旅と酒の人の歌を、市制10周年の記念に選ぶ。戦争が終わって5年目の駅前に、である。この街の人々の好みは、どうやら筋が通っている。
だが、立川の夜の灯りで、いちばん大きかったのは酒場の灯りではなかった。スクリーンの光である。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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