映画の街と呼ばれた立川の夜
三井住友トラスト不動産の街の記録によれば、1960年代、立川には北口と南口を合わせて10館の映画館があり、「映画の街」と呼ばれた。大正14年の立川キネマから数えて、40年ほどで10館。飛行場と基地の街は、映画の街でもあった。

写真: Razgrad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
その10館の名前を、街の記録は一つずつ書き留めている。北口に、シネマ立川、立川セントラル、立川松竹、立川中央。南口に、立川名画座、立川日活、立川大映、東映立川南座、立川東宝、そして立川新東宝、またの名を立川錦座。読み上げるだけで、映画会社の看板が駅の両側に並んでいた時代の空気が立ちのぼる。名前を見て「ああ、あった」と声の出る人も、まだ立川には少なくないはずだ。
数えてみて、私は少し驚いた。北口に4館、南口に6館。売上では北に大きく水をあけられていた南口が、映画館の数では北口に勝っていたのだ。裏口と呼ばれた側の路地に、スクリーンの光がいちばん多く集まっていた。
最終の上映がはねれば、観客は北と南の路地へ散っていったはずだ。夜の飲み屋街と映画館は、たいてい同じ客を分け合う。南口の低い看板の灯りは、映画帰りの客の足もとも照らしていたのだろう。
しかし、その北口の映画館は、駅前の再開発で姿を消す。街の記録によれば、1992年に北口の3館が再開発のため閉館した。そして2年後の1994年、東京で初めてのシネマコンプレックスとして「シネマシティ」が開業した。2018年に立川を特集したテレビ東京の番組の紹介も、1994年にオープンした、東京で初めてのシネコンとしてこの映画館を挙げ、コンサートホール用のスピーカーを使う音へのこだわりを伝えている。
東京で最初のシネコンは、渋谷でも新宿でもなく、立川にできた。映画の街の名は、形を変えて引き継がれた。
あのころ、駅の北と南に10館、看板の数だけ映画会社の名前があった。いま、市内に4館23スクリーン。館の数は半分以下になったが、一つの館に平均5枚を超えるスクリーンがある。
旅人の寄り道クイズ
立川駅の南口が開いたのは、いつだろう。
- A 明治22年(1889)、甲武鉄道の開通と同時
- B 昭和5年(1930)、五日市鉄道が乗り入れた年
- C 昭和52年(1977)、基地が返還された年
答えは、この記事の終わり近くで。
映画館の灯りの次に、北口の夜を照らしたのは、デパートの窓だった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
デパートの灯りと、北口の再開発
北口の夜景の骨格は、デパートが作った。街の記録をたどると、北口のデパートの来歴はめまぐるしい。伊勢丹は1956年に開業し、1970年に移転、2001年に再び移転している。1961年には「立川銀座デパート」が開業し、1970年に「立川髙島屋」として改築された。中武デパートは1962年に開業し、1984年に「フロム中武」として生まれ変わった。丸井は1952年に南口で開業し、1970年に北口へ進出した。

写真: Dick Johnson from Tokyo, Japan / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
1970年という年が、何度も出てくる。この年、北口のデパートが一斉に動いた。南口で生まれた丸井が北口に渡ったのも、この年だ。人の流れは、はっきりと北へ向かっていた。
そして北口の夜を最後に大きく変えたのが、基地の跡地だった。1977年に米軍立川基地が全面返還されると、北口の北側の広い土地が街に戻った。1994年にファーレ立川がまちびらきし、1998年には多摩都市モノレールの立川北駅が開業する。街の記録によれば、1990年から2009年にかけての区画整理で、北口の駅前は作り直された。暗渠になった緑川の北側一帯は再開発されてファーレ立川になり、映画館3軒の跡地は、シネマシティの建物になった。
北口の夜が広く、明るく、新しいのは、そこが一度、空き地になったからだ。戦時中の建物疎開で、そして基地の返還で。北口は二度、街を一から作り直す機会を得た。
では、南口はどうだったのか。
南口の路地は、なぜ細いまま残ったのか
街の記録には、南口の苦労を伝える数字がある。戦後の南口は、駅前の広場も道路も狭かった。1972年度、駅前の商店街の売上は、北口がおよそ8割、南口がおよそ2割だった。
南口の区画整理事業は、1964年に都市計画が決まり、1966年に事業の認可を受けた。市の年表によれば、昭和49年(1974)に南口の区画整理の一部移転工事に着手している。街の記録によれば、事業が完了したのは2015年である。都市計画が決まってから51年。計画が決まった年に生まれた子どもは、完了の年には51歳になっていた。
その間に、南口にも新しい建物が建った。1999年には駅ビルの「グランデュオ立川」と「サザン」が、2005年には「アレアレアビル」が開業した。2022年には、駅南口に東京都と立川市の合同施設が完成している。
北と南を物理的につないだのは、駅そのものだった。市の年表によれば、昭和55年(1980)に立川駅の仮駅舎の工事が始まり、同じ年に立川駅南口の再開発計画が策定された。そして昭和57年(1982)、立川駅舎、立川駅ビル、立川駅南北自由通路が完成した。南北自由通路は、その名のとおり、電車に乗らない人も駅の北と南を通り抜けられる通路だ。北口の夜と南口の夜は、駅の中の一本の道で隣どうしになった。1998年には多摩都市モノレールが開業し、駅の北に立川北駅、南に立川南駅ができた。北と南は、空の上でもつながった。
それでも、南口の路地はすべて消えはしなかった。耕地整理で整えられた昭和初期の小さな区画は、大きな再開発の波を北口ほどには受けなかった。都市論の記事は、錦町の旧二業地には小さな飲み屋が数軒残るだけで、かつての花街の雰囲気は薄れていると書く。一方で、駅から錦町にかけての一帯が、戦前以来の土地の性格をいまに残しているとも書いている。
北口は空き地から作り直された街で、南口は畑の区画の上に少しずつ積み重なってきた街だ。夜に南口の路地を歩くと、看板の低さに気づく。大きなビルの灯りではなく、軒先の灯りが道を照らしている。それは、作り直されなかった街の灯りである。
いまの立川の夜、横丁と飲み歩き
いまの立川の夜にも、いくつかの顔がある。
北口の東側、かつて夜店通りと呼ばれたあたりには、小さな店が肩を寄せ合う横丁がある。都市論の記事によれば、その横丁は、夜店通りの時代を懐かしむ意味も込めて作られたという。戦後の夜の記憶を、新しい横丁が引き取っている。
立川の商店街が共同で主催する飲み歩きの催し「立川バル街」は、公式サイトによれば2026年で14回目を数えた。前売りのチケットで、北口の周辺を中心に54の店を食べ歩き、飲み歩きできる。夕方5時から始まる3日間だ。知らない店の扉を開ける口実を、商店街が自分たちで用意している。闇市の時代から、この街の夜を灯してきたのは、役所の計画ではなく小さな店の人たちだった。その手つきは、14回目のチケットにもちゃんと残っている。
一方で、飲食店の案内サイトには、立川駅の周辺で夜遅くまで営業する居酒屋は意外と少なく、0時以降に入れる店は貴重だ、と書いたものもある。昼の人口が夜の人口より多い街らしい話だ。立川の夜は、どうやら長くはない。そのかわり、宵の口が濃い。
夏には、夜空そのものが主役になる日がある。「立川まつり 国営昭和記念公園花火大会」は、実行委員会の公式サイトによれば夜7時15分から8時15分までの1時間、花火の情報サイトによれば5000発の花火を打ち上げる。かつての飛行場の跡地の公園の空に、夏の一晩だけ大きな灯りがともる。
そして、どの夜にも言えることがある。立川の夜は、飲まなくても歩ける。デッキの上から北口の灯りを眺め、映画を一本見て、南口の路地の看板を眺めて帰る。それだけで、この街の二つの夜の違いは、十分に体でわかる。飲むなら、ほどほどに。終電の時刻と、翌朝の体調は、牧水の歌碑ほどには待ってくれない。
北口と南口、二つの夜の答え
最初の問いに戻ろう。立川の夜は、なぜ北口と南口でこれほど顔が違うのか。
答えの半分は、駅の口の歴史にあった。立川駅は40年あまり北にしか口がなく、街は北を表にして育った。南口が開いた1930年、南側の土地はすでに耕地整理で小さな区画に分けられていた。その区画の上に、料亭と花街の灯りがともった。
もう半分は、空き地の歴史にあった。北口は、戦時中の建物疎開で空き地になり、そこに闇市が立った。夜店通りに米兵相手の灯りがともり、映画館が並び、デパートが集まった。そして基地の返還で、北口はもう一度、広い土地を手に入れた。二度作り直された北口は広く新しくなり、半世紀かけて少しずつ整えられた南口には、路地と低い看板が残った。
どちらが良いという話ではない。北口の広いデッキは、毎日15万人を受け止めるために必要だった。南口の細い路地は、畑の区画と昭和の宴の記憶を、いまに運んでいる。同じ駅の表と裏で、この街は二通りの夜の作り方を試してきた。
立川の夜には、思い浮かぶものが特にない、と最初に書いた。だが、その夜をたどってみると、お座敷の小唄があり、闇市の広場があり、英語の看板があり、キャバレーの建物から生まれた学校があり、東京で最初のシネコンがあった。思い浮かばなかったのは、たぶん、まだ誰もこの街の夜をひと続きの話として語っていなかったからだ。
北口のデッキから見下ろすと、タクシーのライトが列を作り、モノレールの車両が灯りを連ねて頭上を過ぎていく。南へ降りれば、路地の先で、小さな看板がひとつ、またひとつと灯っている。
新宿から中央線で一本、川崎からは南武線で一本。金曜の仕事帰りに寄り道できる距離に、闇市の広場とお座敷の小唄と10館の映画館の記憶を重ねた夜がある。
寄り道クイズの答え
答えはB。立川市の年表によれば、立川駅の南口が開いたのは昭和5年(1930)。同じ年に五日市鉄道が立川まで乗り入れ、お座敷では立川小唄がうたわれはじめた。
訪ねる前に
- 都心と神奈川から: 立川駅へは、新宿からJR中央線で一本。東京都環境局の散策案内は、新宿から立川までを中央線で30分としている。神奈川からは、川崎駅と立川駅を結ぶJR南武線で、乗り換えなしで着く
- 立川駅北口: 北口を出ると歩行者デッキが周辺のビルとつながっている。ファーレ立川へは、JR立川駅北口から歩行者デッキで3分(ファーレ立川アートの公式サイトによる)。多摩都市モノレールの立川北駅もデッキでつながる。
- 立川駅南口: 南口を出ると、駅前から路地が分かれる。夜の路地歩きは、細い道で車や自転車に気をつけて。
- 若山牧水の歌碑と、立川の近代の跡をめぐるなら、立川市の散歩コース「近・現代を歩く」: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004891.html
- 立川駅の周辺の古い写真や記録を見たいなら、立川市中央図書館(立川市曙町2-36-2、ファーレ立川センタースクエアの2〜4階)で、手引き「立川駅前の変遷を調べる」が紹介する資料を探せる: https://www.library.tachikawa.tokyo.jp/images/upload/tachishira06_202007.pdf
- 立川バル街(開催の有無と日程、参加店は公式で確かめてほしい): https://tachikawa-bar.com/
- 立川まつり 国営昭和記念公園花火大会(日程と観覧の方法は公式で): https://hanabi.tokyo-tachikawa.org/
- 酒を飲むなら、ほどほどに。夜遅くまで開いている店は多くない。帰りの電車の時刻を先に確かめておくと安心だ。
- 組み合わせるなら: 夕方にファーレ立川の作品を眺めながら北口のデッキを歩き、日が暮れたら映画を一本。南口へ渡って路地を歩き、昼のうちに普済寺と諏訪神社の柴崎の古い町を歩いておくと、南口の土地の来歴がつながる。
夜の立川で、もうひとつの灯り
夜の立川を歩くと、思いのほか体が冷える。駅のデッキは風が通り、南口の路地は日が落ちると急に温度が下がる。映画館の椅子に2時間座ったあとなら、腰と背中も固まっている。
立川駅の北口から歩いて1分、東京都立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガ、ピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもあり、ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。
営業時間は8時から23時30分まで、年中無休で、どの曜日も同じだ。夜の立川の、少し遅い時間にも灯りがついている。仕事帰りに体を温めてから、北口の夜へ出ていくこともできる。
ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。
妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。
- オンザショア: https://ontheshore.jp/
- 料金: https://ontheshore.jp/price/
- 体験の予約: https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp
改札を出て北へ曲がるか、南へ曲がるか。立川の夜は、その一歩目で、もう物語が分かれている。
冒頭の写真: 夜の立川駅北口。歩行者デッキの上に白いアーチがかかる(2009年)(写真: Ludvig14 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons)
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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