立川駅の歴史を、甲武鉄道が開業した1889年から資料でたどる。人口1,920人の村の北の外れに置かれた停車場が、なぜ中央線・青梅線・南武線の集まる多摩最大の駅になったのか。水と引き替えに開いた北口、41年遅れた南口、駅ビルと自由通路、エキナカとモノレールまでを歩く立川さんぽ特集の一編。
1日に15万4,091人。JR東日本が公表している2024年度の立川駅の1日平均の乗車人員だ。降りる人は数えていない。乗る人だけで、この数になる。
この駅が開いた年、立川村に住んでいたのは1,920人だった。しかも駅は村の真ん中ではなく、北の外れに置かれた。村の中心は南の甲州街道沿いにあり、駅のまわりは畑と林だったという。
いま立川駅は、JR東日本の表の中で、多摩地域のどの駅よりも上にいる。村はずれの小さな停車場が、なぜ多摩でいちばん人の乗る駅になったのか。私はその問いを抱えて、改札の外へ出てみることにした。改札は五つある。どれから出ればいいのか、そこからもう迷っている。
立川駅の歴史は、村はずれの北口から始まった
立川市歴史民俗資料館がまとめた見学の手引「甲武鉄道の開通」は、始まりをこう記している。明治22年(1889)4月11日、新宿と立川のあいだに甲武鉄道、いまのJR中央線が開通し、立川駅も同時に開業した。同じ年の8月には八王子まで線路が延びた。そして年表の欄に、小さく一行が添えてある。改札口は北口のみ。
なぜ北だけなのか。三井住友トラスト不動産の地域史の記録「このまちアーカイブス」に、その答えらしきものが載っている。立川村は鉄道を熱心に呼び寄せたが、蒸気機関車に要る水を、村の大切な生活用水だった柴崎分水から出すことにはためらった。そこへ北隣の砂川村が用水を出すことになり、その引き替えに、駅の出入口は砂川村の方角、つまり北側に設けられたという。
水を出した村のほうへ、扉が向いた。駅の正面というものは、ずいぶん現実的な理由で決まるものらしい。
立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』も、行政の年表の中で、駅は砂川村側の線路の北側に開かれ、南口の開設は昭和5年だったと書いている。村の中心が南にあるのに、入口は北にしかない。南に住む人は、駅に行くたびに線路の向こう側へ回りこむことになる。
この村の名前も、もとは立川ではなかった。駅が開く8年前の明治14年(1881)まで、ここは柴崎村と呼ばれていた。『たちかわ物語』によれば、同じ北多摩郡にもうひとつ柴崎村、いまの調布市の柴崎があり、紛らわしいので立川村に改めたのだという。立川駅という名前は、同じ郡に同じ名前の村がもうひとつあったおかげで生まれたことになる。もし調布に柴崎村がなければ、私たちはいま柴崎駅で乗り換えていたかもしれない。
では、そもそもなぜ線路は村の中心を通らず、こんな外れを走ったのか。その理由は、線路の形そのものに刻まれている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
25キロの直線の、終わるところ
中央線に新宿から乗ると、列車は大きく左へ曲がって西を向き、あとはほとんど曲がらない。鉄道ニュースサイトの乗りものニュースは、東中野から立川まで約25キロにわたって直線が続くと書く。オールアバウトの鉄道ガイドは、北海道の室蘭本線、白老と沼ノ端のあいだの28.7キロに次ぐ直線区間といわれると紹介している。ホームの前後のカーブや高架化の工事で、いまは完全な直線ではないとも書き添えているが、地図で見ればやはり定規で引いたような線である。
なぜ真っすぐなのか。資料館の手引は、甲武鉄道ははじめ甲州街道、次に青梅街道に沿って敷こうと計画されたが、どちらも沿道の住民の強い反対にあって実現できなかったそうだ、と書く。そこで立川村や砂川村の人々が熱心に誘致運動を行い、その結果、武蔵野台地を真っすぐに走る今の線路が敷かれたのだという。
反対の理由について、乗りものニュースは、機関車の煙や振動で作物が育たなくなるという心配や、鉄道で旅が速くなれば宿場の商売が衰えるという心配があったという説を紹介している。街道筋の人々にとって、鉄道は客を奪う乗りものだった。人家や畑の少ない林野を選べば、線路は迷わず真っすぐ引ける。
ここに、謎の最初の手がかりがある。立川駅が村はずれにあるのは、村が遅れていたからではない。街道沿いの賑わう町が鉄道を嫌ったから、線路は人のいない台地を走り、その線路を、まだ賑わいの少なかった立川が自分から迎えにいった。手引は、甲州街道が村のはずれを通る農村にすぎなかった立川を、甲武鉄道が多摩地区の中心都市に発展させたと書いている。
断られた側の鉄道と、呼び寄せた側の村。立川の駅前の歴史は、その握手から始まっている。
25キロ真っすぐ走ってきた直線の、終わるところに、立川駅がある。
だが、線路が通っただけで町が栄えるなら、沿線の駅はみな同じように育ったはずだ。立川にはもうひとつ、別の力が働いていた。
牧水が見送った茶屋と、府立二中の誘致
駅ができると、駅前に人が集まった。このまちアーカイブスによれば、汽車を待つ客のための茶屋ができ、大きな桜の木もあった。明治39年(1906)には歌人の若山牧水が立川に立ち寄り、駅前の茶屋で人を見送る歌を詠んでいる。茶屋のあった場所はいまバスターミナルになり、その一角に牧水の歌碑が立っている。立川市図書館の資料案内も、牧水の歌碑を全国に訪ねた本の中に立川駅前の碑が紹介されていると記している。
村の人々は、駅という地の利を黙って眺めてはいなかった。資料館の手引は、行政機関や府立第二中学校、いまの都立立川高校などをさかんに誘致し、交通の便利さを積極的にまちづくりに生かした人々の努力を忘れてはならない、と書く。
府立第二中学校は明治34年(1901)、駅の南側に開校した。このまちアーカイブスによれば、東京府では第一中学校、いまの日比谷高校に次ぐ設置で、候補地には八王子町、府中町、青梅町も挙がっていた。立川村に決まった理由として挙げられているのは三つ。鉄道で通いやすいこと。校地の寄付があったこと。そして、繁華街がなく学業の環境がよいこと。
何もないことが、勝因だったのだ。いま駅前の雑踏の中でこの一文を読むと、少し笑ってしまう。120年前の立川は、静かさで選ばれた町だった。
明治27年(1894)には、青梅鉄道が立川と青梅のあいだを結んだ。立川市の年表にも、その年の項に青梅鉄道開通とある。立教大学の経済学の論文「青梅鉄道の設立と浅野総一郎」が、青梅の石灰石資源から説き起こしているように、この鉄道の背景には、セメントの原料になる石灰石を山から運び出すという目的があった。山の石を東京へ運ぶ道は、立川で中央線とつながる。二本目の線路が来たことで、立川はただの途中駅から、線と線が出会う駅になった。
明治39年(1906)、甲武鉄道は国に買い上げられて中央線となった。資料館の手引の年表によれば、大正元年(1912)12月には立川駅の駅舎が建て替えられている。開業から23年、停車場はようやく二代目の駅舎を得た。
それでも、明治の立川はまだ小さかった。町の形を一変させたのは、空からやって来たものだった。
飛行場と南口、三つの線が集まるまで
大正11年(1922)、駅の北側に立川飛行場が開設された。『たちかわ物語』は、明治22年に1,920人だった立川村の人口が、大正11年には5,303人、翌年には6,895人へと急増したと書く。一年で1,500人以上増えた計算になる。大正12年(1923)12月、立川村は町になった。

写真: Nyao148 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
昭和に入ると、線路はさらに増える。昭和4年(1929)には中央線の電化が立川まで届き、同じ年の12月には南武鉄道、いまのJR南武線が川崎から立川まで全通した。このまちアーカイブスによれば、南武鉄道はもともと多摩川の砂利を運ぶために計画された鉄道で、最初に申請したときの名前は「多摩川砂利鉄道」だった。のちには青梅の石灰石を川崎へ運ぶ役目も担った。翌昭和5年(1930)には五日市鉄道も立川に乗り入れた。
山からは石灰石が、川からは砂利が、立川を目指して集まってくる。石と砂利は、セメントになり、コンクリートになり、東京の街になった。立川駅は、首都をつくる材料の通り道の結び目だったことになる。
そして昭和5年3月、ついに南口が開いた。開業から41年目のことである。資料館の手引によれば、2年後の昭和7年(1932)には駅の地下道も通じた。南の住民にとって、41年の回り道がようやく終わった。
旅人の寄り道クイズ
立川駅に南口ができたのは、開業から何年後だったか。
- A 1年後
- B 11年後
- C 41年後
答えは、この記事の終わり近くで。
南口ができると、駅の南の風景も変わった。『たちかわ物語』によれば、昭和2年(1927)ごろから駅の南側で耕地整理が行われ、碁盤の目のような道路や排水路が整えられた。南口が開くと、南口大通りに沿って商店街ができ、郵便局や銀行も開かれた。いま南口を歩くと道がまっすぐ交わっているのは、畑の区画を整えたときの線を、そのまま町が受け継いだからだ。
立川市の年表は、南武鉄道が全通したのと同じ昭和4年の項に、日本航空輸送が立川と大阪のあいだで日本最初の定期航空を始めたことも記している。地上では三つの鉄道が集まり、空には大阪行きの定期便が飛んでいた。陸と空の両方の玄関を、同じ年にそろえた町は、当時の日本にそう多くなかったはずだ。
昭和15年(1940)12月、立川町は市になった。『たちかわ物語』によれば、その年の末の人口は3万4,693人、軍需工場で働く人が急増した昭和19年には5万1,126人に達した。同じ昭和19年、青梅電気鉄道と南武鉄道、五日市鉄道は国に買い上げられ、国鉄の青梅線、南武線、五日市線になった。別々の会社が引いてきた線路が、ひとつの持ち主のもとにまとまった。
同じ年、このまちアーカイブスによれば、北口の駅前などで空襲に備えて建物を取り壊す建物疎開が行われた。立川市の年表は、昭和20年(1945)に市が13回の空襲を受け、大きな被害を受けたと記す。飛行場と軍需工場を抱えた町の駅は、その代償も引き受けることになった。
駅前の水と、映画館の灯り
人が増えると、駅前の弱いところも見えてくる。このまちアーカイブスによれば、大正14年(1925)には、駅前の浸水への手当てを求める声が町議会で上がっている。北口のあたりは、雨が降ると水が引かなかったらしい。排水路の工事に手がついたのは昭和18年(1943)ごろで、完成しないまま終戦を迎え、できあがったのは昭和22年(1947)だった。2年後、その水路は緑川と名づけられ、昭和29年(1954)にコンクリートの護岸に改められた。
水と引き替えに開いた北口は、今度は水に悩まされた。駅の歴史は、どうやら水と縁が切れない。いま北口から北へ延びる緑川通りの名前は、この排水路の記憶をとどめている。立川市の年表には、昭和63年(1988)に緑川通りの修景の工事が始まったことも記されている。
同じ大正14年、北口には立川で最初の映画館、立川キネマが開いた。立川市の年表にもその名がある。このまちアーカイブスによれば、南口にも同じ年に立川演芸館が開館し、1960年代には、市内に映画館が10館あった。駅を降りた人が、そのまま暗闇へ吸いこまれていく町。立川の駅前は、早くから夜の明かりを持っていた。
昭和30年代の終わりから40年代の立川駅前を、少し思い浮かべてみる。北口には伊勢丹、南口には丸井、寄合百貨店の立川銀座デパートと中武デパート。その間に、市内10館の映画館の看板が並ぶ。バスは5社の路線が駅に集まり、北の村からも南の多摩川べりからも人を運んできた。百貨店で買い物をして、帰りに映画を一本。そういう休日を過ごした人は、きっと少なくなかったはずだ。いまの若い人が駅ビルとエキナカで一日を過ごすのと、店の顔ぶれはまるで違う。それでも、人が「立川へ行く」と言うときの気分は、案外あのころと地続きなのかもしれない。
数字で読む立川駅
- 1,920人 — 開業の年の立川村の人口。いまの立川駅は、1日にこの村の約80個分の人を乗せている。
- 41年 — 北口しかなかった年月。南に住む人は、半世紀近く線路の向こうへ回りこんでいた。
- 約25キロ — 東中野から立川まで続く直線の長さ。曲がるのが苦手なのではない。曲がる理由がなかったのだ。
- 5つ — いまの改札の数。東、西、北、南、グランデュオ改札。開業の日は、北の1つだけだった。
- 15万4,091人 — 2024年度の1日平均の乗車人員。JR東日本の全駅で14位。
- 37.5キロ — 東京駅からの距離。特別快速で40分、と立川市は書いている。
数字が増えていくのは、ここまで見てきたとおりだ。では戦後、焼け跡と基地の街の中で、駅はどんな姿になっていったのか。
百貨店は、なぜ立川駅に集まったのか
戦後、駅の北の飛行場は米軍の基地になった。その話は別の機会にゆずって、ここでは駅前に起きたもうひとつの変化を追いたい。百貨店である。

写真: Sittaka / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
三越伊勢丹が2017年に出した発表資料に、こんな一文がある。伊勢丹立川店は、1947年(昭和22年)10月10日に、伊勢丹初の支店として立川駅の近くに開業した。新宿に本店を構える百貨店が、最初の支店の場所として選んだのが立川だった。戦争が終わって2年、焼け跡の残る時代のことである。立川の人が「うちの駅前には、伊勢丹の最初の支店があった」と言っても、それは自慢話ではなく、ただの社史の引用だ。
このまちアーカイブスの年表を追うと、駅前は百貨店の陣取り合戦の様相を呈していく。昭和27年(1952)、丸井が南口に立川店を開いた。昭和31年(1956)、伊勢丹立川店が北口で営業を始める。昭和36年(1961)には寄合百貨店の立川銀座デパートが、翌年には中武デパートが開業した。そして昭和45年(1970)の一年のうちに、丸井が2月に北口へ進出し、伊勢丹が9月に新築して移り、立川銀座デパートを改築した建物に立川髙島屋が開業した。一年で三つの店が動いた計算になる。駅前の地図を毎年描き直していた人がいたとすれば、その年はさぞ忙しかっただろう。
同じアーカイブスは、昭和47年度(1972)の駅前商店街の総売上のうち、南口がおよそ2割、北口がおよそ8割を占めていたとも書いている。41年遅れて開いた南口は、売上でもまだ北口の背中を追っていた。
では、なぜ百貨店は、多摩のほかの駅ではなく、立川に集まったのか。その手がかりは、鉄道ではなくバスにあった。『たちかわ物語』は、昭和32年(1957)ごろの立川駅を、5社のバス路線が近隣を結ぶターミナルだったと書く。そして、立川駅を起点にしたバス網は、それまで街道と鉄道が手薄だった南北方向の足となり、立川市の商業的な発展を支えたという。
中央線は東西にしか走らない。武蔵野の北や多摩川の南に住む人が、東西の線路に出てくるには、南北の足が要る。その足が、立川駅に集まっていた。東西の鉄道と南北のバスが十字に交わる場所。買い物に出るなら、そこがいちばん近い。百貨店がこの駅を選んだ理由は、地図の上で線を引いてみれば、案外すんなり見えてくる。
のちに、その南北の足はモノレールになって空へ上がる。平成13年(2001)、伊勢丹立川店は北口の再開発地区へ移って新しく店を開いた、とアーカイブスは記している。最初の支店は、駅の近くで何度も引っ越しを重ねながら、いまも駅前にいる。
だが、百貨店が並び、バスが集まっても、駅そのものはまだ昭和の古い駅舎のままだった。改札は北と南に分かれ、駅の北と南は、まだ線路の上ではつながっていなかった。駅が本当に姿を変えるのは、北の基地が去ってからである。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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