立川は32年間、米軍基地の町だった。その文化は何を残したのか。コーラの空き瓶を返せという昭和20年の通達、風洞実験棟を改装した基地の映画館、子どもを海へ運んだ「海岸作戦」、米軍キャンプで米兵を笑わせた後のドリフのリーダー、ユーミンが歌ったランドリーゲート。市史と米国の公文書の調査でたどる、基地の町・立川の暮らしと文化。
1998年の秋まで、立川には「ランドリーゲート」という名前のバス停があった。洗濯の門。日本の路線バスの停留所に付ける名前としては、どう考えても変わっている。
その名は、いまは「富士見通り」に変わっている。ただ、名前だけは歌の中に残った。1978年、松任谷由実はアルバム『紅雀』に「LAUNDRY-GATEの想い出」という曲を入れた。題名は、実在した米軍立川基地のゲートのひとつだという。
立川は昭和20年(1945)から昭和52年(1977)まで、米軍基地の町だった。その32年の政治の話、滑走路と砂川の話は、この特集の別の一編がすでに歩いている。私が知りたいのは、もっと小さなことだ。基地の町で、人々は何を食べ、何を聴き、何に笑い、何を怖がったのか。ゲートが消えて半世紀近くたったいま、その文化はどこに残っているのか。そして、なぜこんなに見えにくいのか。
立川の基地の町の文化は、どこに残っているのか
先に、調べてわかったことを並べておく。立川に住む人でも、たぶん半分は知らない。
昭和20年、米軍は立川警察署を通じて、周辺の村に「コーラの空き瓶を拾ったら返すように」と通達した。通達には、手描きの瓶の絵が添えられていた。まだ誰もコーラを知らなかったからだ。基地の映画館は、日本陸軍が飛行機の空気の流れを調べた「風洞実験棟」を改装したものだった。昭和27年の夏には、基地のバスが立川の子どもたちを海まで運ぶ「海岸作戦」が実行された。のちにザ・ドリフターズのリーダーになる人は、若いころ、立川などの米軍キャンプでベースを弾き、ギャグで米兵を大笑いさせていた。そして立川基地は、一時期、日本と世界をつなぐ軍の空の玄関口でもあった。
どれも、駅前を歩いていても目には入らない。基地の町の文化は、看板や建物ではなく、通達の紙や歌の題名や、ある芸人の経歴の一行の中に、ばらばらに散らばっている。その散らばり方こそが、この町の基地の時代の性格なのかもしれない。順に拾っていく。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
コーラの瓶を返せ──昭和20年の通達と、豚の餌になったハム
立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』の19号は、役場の文書がどう作られてきたかを特集している。その中に、思わず声が出そうになる資料が載っていた。
戦後まもなく、米軍は、コーラの空き瓶を拾ったら米軍に返すよう、立川警察署を通じて周辺の自治体へ通達した。砂川村役場の通達と、立川警察署の通達。どちらも昭和20年のものだ。広報紙の解説はこう続く。まだコーラになじみのない時代、通達には手描きの瓶が図示されていた。
文字だけでは、何を返せばいいのか伝わらない。だから役場の職員が、瓶の形を手で描き写した。当時の役場には、コピー機もパソコンもない。広報紙によれば、この時代の謄写印刷では、絵や図があると、元の文書に似せて自分で描き写すしかなかった。見たこともない飲み物の、見たこともない瓶の輪郭を、役場の誰かが鉄筆でなぞったのだろう。多摩の村役場の机で、飲んだこともない飲み物の瓶が、真剣な線で描かれていた。
基地は、見たことのないものを町に流し込んだ。その流れ方は、ときに妙な経路をたどった。
令和7年(2025)10月、地域情報のテレビ番組で、立川市長と、昭和5年(1930)生まれの二人の市史編さん委員が、立川の昭和100年を語り合った。広報紙の21号がそのやりとりを紙面に残している。戦後の暮らしを尋ねられた一人は、こんな話をしている。
農産業の業者が家の庭を借りて、米軍が残した残飯を毎日トラックで運んできた。それを豚の餌として売るのだ。その中に、ソーセージやハム、バター、チーズといった、当時は見たこともない食べ物が、どっさり出てきた。
ハムもチーズも知らなかった少年の目の前で、それが豚の餌として積まれていく。私は、この話を二度読んだ。戦後の立川で、アメリカの食べ物にいちばん早く慣れ親しんだのは、もしかすると人間ではなく豚だった。
同じ番組で、もう一つ語られたことがある。戦後は、戦前よりも作物の盗難がひどく、畑もずいぶんやられた。そこで青年団の団員が「ナイトウォッチ」と称して夜回りをした。MP、つまり米軍の憲兵隊はMPで巡回し、青年団は青年団で、野菜や果物を守るために夜道を歩いた。夜回りの名前が、英語になっている。基地の言葉は、こういうところから町に入り込んだ。
基地の物資は、食べ物だけではなかった。『たちかわ物語』の20号は、基地からの流出物資が立川駅周辺のヤミ市をにぎわせた、と書く。町の最初の戦後は、柵の内側からこぼれてくるものでできていた。
では、その柵の内側は、どのくらいの大きさだったのか。
市域の6分の1、「日本の中のアメリカ」
広報紙の21号は、令和5年度から市が進めている米国国立公文書館の調査の成果を特集している。その表紙の見出しが、なかなかいい。「よ うこ そ、『日本の中のアメリカ』へ」。

写真: 国土地理院 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
特集によれば、昭和20年に米軍の進駐が始まって以降、立川市域に接して、最大で四つの米軍施設があった。そのうち立川基地は、市域に占める面積がもっとも大きく、いまの市域のおよそ6分の1に及んだ。日本人を含めて数万人の軍人・軍属が勤務した。
6分の1。立川を6つに切り分けると、そのひと切れがまるごとアメリカだったことになる。
20号によれば、米軍は昭和20年9月3日に立川へ進駐し、9月5日には立川基地を設置した。飛行機工場が止まり、工場の労働者は職を失って故郷へ帰る者が続出した。だが、立川基地が極東地区随一の輸送基地になると、修理工、料理人、ハウスメイド、運転手と、基地の内外で多くの仕事が生まれ、人が集まってきた。昭和25年(1950)の統計では、人口が「軍都」の昭和19年に記録した6万人をついに上回った。
基地に勤める米軍の将兵は、ゲートの周り、曙町、高松町、富士見町の商店街の大事な客になった。20号には、昭和27年ごろの曙町二丁目交差点の写真が載っている。米軍立川基地のメインゲートが面していた交差点で、米兵向けの看板が並んでいる。15号は、基地の町に外国人向けの土産物店、Souvenir Storeができ、それが駅の北口だけでなく、線路をまたいだ南口にも広がっていたと書く。
基地の向こうから来るのは、物と客だけではなかった。行事も来た。
15号は、立川基地に米軍が進駐したことで、米軍機が盛んに行き交うようになった一方、周辺は米国文化の最前線にもなった、と書く。その例として載っているのが、1950年の立川駅のクリスマスの飾りの写真だ。駅を飾るサンタクロースと輸送機が、それを象徴している、と広報紙は添えている。サンタクロースが、トナカイではなく輸送機と並んでいる。いかにも空の町らしいクリスマスである。
広報紙の8号には、基地のメインゲートの目の前にあった市立第二小学校の資料の話がある。学校に残された資料には、米兵との間で起きた問題に関するものもあるが、他方で、クリスマス祭に生徒たちがプレゼントをもらいに米軍基地まで行ったという交流の記録も残っている。学校の目の前のゲートは、問題の入口であり、プレゼントの入口でもあった。
そして、私がいちばん好きな記録がこれだ。21号によれば、昭和27年(1952)の夏、立川市教育委員会と米軍の「共同作戦」で、立川基地のバスが立川市周辺の子どもたちを海まで連れていく「海岸作戦(Operation Seashore)」が実行された。写真は米国の公文書館に眠っていた。
軍隊は、何にでも作戦名をつける。子どもを海に連れていくことにも、つける。基地のバスに乗った多摩の子どもたちが、生まれて初めて海を見たのだとしたら、それは確かに、ひとつの作戦の成功だったと言っていい。
数字で読む 基地の町・立川
- 6分の1 — 立川基地が占めた、いまの立川市域の割合。ひと切れのケーキが、まるごとアメリカだった。
- 1945年9月5日 — 米軍が立川基地を設置した日。進駐からわずか2日。
- 6万 — 戦時中の昭和19年に記録した人口。基地の町になって5年後、昭和25年にこれを上回った。
- 約2300 — 最盛期の立川飛行場の1か月あたりの平均発着回数。昼も夜もならすと、ほぼ19分に1回。
- 1952 — 基地のバスが子どもたちを海へ運んだ「海岸作戦」の年。作戦名は物々しいが、行き先は海である。
- 1998 — 「ランドリーゲート」というバス停の名前が消えた年。基地の返還から21年、名前のほうが長生きした。
風洞で西部劇を観る──基地の映画館
基地の中の暮らしは、日本側の記録にはほとんど残っていない。21号は、その理由を説明している。日本側に残る米軍基地の写真の多くは、基地が日本人にも開放される友好祭や、市長や議員の表敬訪問といった、親善行事のときに撮られたものだった。米国側の記録には、ふだんの基地の様子が多く残っている。
その「ふだん」の写真の一枚が、基地の映画館だ。
広報紙によれば、立川基地劇場は、立川基地の滑走路の西側、いまの陸上自衛隊立川駐屯地の中央付近にあった。もとは、日本陸軍の航空技術研究所が、航空機の空力実験に使っていた「風洞実験棟」という建物で、それを米軍が改装して映画館にした。昭和29年(1954)4月の写真では、西部劇映画『草原の追跡(WAY OF A GAUCHO)』が上映されているようだ、と広報紙は書く。娯楽作品だけではない。パソコンもテレビもビデオもない時代、業務に関する資料映像を上映する「映画研修」も、この建物で行われたという。
風洞とは、人工的に風を起こして、飛行機の模型がどう風を受けるかを調べる施設だ。日本の技術者たちが、飛行機の翼が風をどう受けるかを確かめるために風を吹かせていた建物で、戦後、アメリカの兵士たちが南米の草原を駆ける馬の映画を観た。風を測った部屋に、こんどはスクリーンの砂ぼこりが舞った。建物は、自分が何のために建てられたのかを、たぶん覚えていない。
立川の町に、のちに10館もの映画館が並び「映画の街」と呼ばれたことは、この特集の別の一編が書いている。柵の内側にも、映画館があった。町の映画館と基地の映画館で、同じ年に同じ西部劇がかかっていたかどうか。それはわからない。だが、柵の両側で、人々は同じように暗がりに座り、同じように光る幕を見上げていた。
旅人の寄り道クイズ
昭和20年、米軍が立川警察署を通じて周辺の村に「拾ったら米軍に返すように」と通達し、役場が絵まで描いて知らせたものは、次のどれか。
(A)落下傘の布 (B)コーラの空き瓶 (C)チューインガムの包み紙
答えは、最後のページで。
では、基地の娯楽は映画だけだったのか。そんなはずはない。基地には、ステージがあった。
米軍キャンプのステージで、のちのドリフのリーダーが笑わせた
戦後の日本の大衆音楽が、米軍のキャンプで育ったことはよく知られている。ジャズ、カントリー、ロカビリー。日本のバンドマンたちは、基地のクラブで米兵の前に立ち、英語の歌を演奏して腕を磨いた。
立川も、その舞台のひとつだった。私がそれを確かめられたのは、意外な人物の経歴からだった。
ウィキペディアにまとめられたいかりや長介の経歴によれば、彼は1959年、ミュージシャンを目指して上京し、ロカビリーバンドを経て、ジミー時田や寺内タケシが在籍したカントリー・ウエスタンのバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にベーシストとして加わった。そして、立川、横須賀、横田の米軍キャンプで演奏していた。
同じ百科事典のジミー時田の項目も、このバンドが1957年9月に結成され、当初は各地の米軍キャンプでの活動が中心だったと書く。いかりやの在籍は1959年から1962年。パートの欄には、ベースと並んで「コント」とある。
ここからが面白い。いかりやの項目によれば、米兵を相手に、バンドの中でギャグをやってみたら大受けした。ところがバンドの仲間からは、コミックバンドではないのにギャグばかりやる、と反感を買っていたという。ジミー時田の項目の言い方はもう少し穏やかで、仲間とともにコミック路線を推し進めていたが、リーダーの時田が難色を示した、とある。そして1962年、彼はバンドを抜け、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に加わる。
カントリーを聴きに来たはずの米兵を、ベース弾きのギャグが笑わせる。真面目なバンド仲間は眉をひそめる。それでも、ギャグは受ける。後年、日本中の茶の間を笑わせることになる人の笑いは、少なくともその一部が、英語のわからない日本のバンドマンと、日本語のわからない米兵のあいだで鍛えられていたことになる。言葉が通じないところで笑わせるには、間と動きしかない。立川のキャンプのステージは、その稽古場のひとつだった。
もちろん、いかりやがどの晩に立川のどのクラブに立ったのか、私にはわからない。そこまでは記録をたどれなかった。わかっているのは、基地の町の夜のステージが、のちの日本の笑いと音楽の、無名時代の仕事場だったということだけだ。
21世紀になっても、基地の町の音は、細く残っていた。ダンサーで、アーティスト集団「東京ゲゲゲイ」のリーダーである牧宗孝の経歴には、育った立川市にはかつてアメリカ空軍の立川基地があったことから、黒人が経営するヒップホップの店もあった、という一節がある。そういう店で踊るのは不良の遊びという風潮もあって、店に入ることはなかったが、それが中学生の彼がストリートダンスを意識するきっかけになったという。
入らなかった店が、人生の入口になる。基地が消えて何十年もたってから、柵のあった町で、ひとりの少年が踊りに出会った。基地の文化は、建物よりも長く、町の空気の中に残ったのかもしれない。
だが、キャンプのステージに立った芸人たちも、立川の滑走路から見れば、通り過ぎる旅人の一人にすぎなかった。この基地には、もっと大きな人の流れがあった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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