立川・立飛の歴史と見どころ 飛ばなくなった会社は、なぜ「飛」の字を手放さないのか

立川の立飛エリアを、飛行機を作った会社と工場の側から歩くルポ紀行。月島から立川へ移った石川島飛行機製作所、赤とんぼと隼、57時間飛び続けた長距離機、洗濯機から宇宙ロケット部品まで作った戦後、そして砂浜やモール、アリーナが並ぶいままで、社名に残る一字の謎を追う。

戦闘機の隼を2,494機作った会社が、いま、砂浜を持っている。

海は無い。場所は東京の西、立川である。かつて飛行機を大量に作っていたその会社は、いま一機も飛行機を作っていない。代わりに、砂と、モールと、アリーナを持っている。

立川の人は、ときどき自分の町を「何もない」と言う。中央線の大きな駅のひとつにすぎない、と。だが立川駅から多摩モノレールで北へ二駅、4分。立飛という駅で降りると、目の前に巨大な商業施設とアリーナがあり、その隣に砂浜がある。海がなくても、砂は運べる。

立飛。たちひ、と読む。初めてこの字を見た人の何割かは、りっぴ、と読むのではないか。私はその何割かに入る自信がある。読み方はさておき、私が引っかかったのは二文字目だった。この土地の持ち主である会社が最後の飛行機を組み上げてから、70年あまりがたつ。最後の工場を閉じてからでも、10年を超えた。それなのに、社名にも、駅名にも、「飛」の字がいまも残っている。飛ばなくなった会社は、なぜ「飛」の字を手放さないのか。その問いを持って、私は改札を出る。

立飛駅と立飛エリア、ひとつの会社の土地の真ん中

手がかりは、意外なほど近くにあった。立飛ホールディングスという会社の沿革に、こう書かれている。1998年11月、多摩都市モノレールが部分開業し、会社の立川製造所の敷地の中に立飛駅と高松駅がつくられた。

駅が、ひとつの会社の敷地の中に建った。にわかには信じにくいが、会社の規模を知ると納得がいく。立飛グループは、立川市の面積のおよそ25分の1にあたる約98万平方メートルの土地を持っている。会社自身が、立飛駅を「所有地のほぼ中央」にある駅だと書いている。駅を降りた瞬間から、私はひとつの会社の庭先に立っている。ずいぶん広い庭である。

駅の名の由来は、モノレールの会社のほうがはっきり書いている。多摩モノレールの駅案内によれば、立川飛行場の跡地に接していることから、駅名は立飛駅となった。同じ案内は、2015年12月10日に駅のそばでららぽーと立川立飛が開業したことも記している。立飛駅と隣の高松駅の間には、モノレールの車両基地へ向かう分岐がある。会社の駅案内は、高松駅に車両基地へ向かう分岐点がある、と書く。空の道の車両が夜に眠る場所もまた、この一帯にある。

土地の決まりも、駅ができる前後で動いた。1995年5月、モノレールの軌道のまわりの一部が市街化調整区域から市街化区域へ指定替えされ、2004年6月には製造所の全域が市街化区域になり、準工業地域に指定された。市街化調整区域というのは、原則として街を広げない土地のことだ。駅が来て、街になる許しがあとから追いかけてきた。

会社はそれより前から、工場の土地を貸す仕事に軸足を移していた。沿革によれば、1985年10月に栄地区に貸しビルを建て、1987年6月には自動車整備工場を閉じ、製造と販売の部門をすべてやめて、製造所の古い建物を高層化し、不動産の賃貸を強めていく。飛行機の会社の看板の下で、仕事の中身は静かに入れ替わっていった。

モノレールの軌道の下には、東大通線という道路が通っている。沿革によれば、この道はもともと会社の構内の真ん中を通る軌道下の道で、2006年3月に公道として開通した。同じ時期に、敷地の呼び名も「立川製造所」から「東地区」「西地区」へ変わった。製造所という言葉が、地図から消えた日である。

では、その製造所で、何が作られていたのか。話は東京湾のほとりから始まる。

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月島で生まれ、立川へ引っ越した工場

沿革の最初の行には、1924年11月、飛行機の設計、製作、販売を目的として株式会社石川島飛行機製作所が設立され、いまの東京都中央区月島に工場を新しく建てた、とある。立川から遠く離れた都心の町で、この会社の飛行機づくりは始まった。

立飛駅のそばに建つアリーナ立川立飛。白い外壁に、館名の文字が並ぶ
立飛駅のそばに建つアリーナ立川立飛。白い外壁に、館名の文字が並ぶ
写真: Bject / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons

それから6年後の1930年3月、会社は月島の工場を閉じ、工場を立川へ移す。

なぜ立川だったのか。沿革は理由を書かない。ただ、立川市図書館の資料が引く市の説明によれば、立川にはその8年前の1922年に、すでに飛行場が開かれていた。作った飛行機をそのまま飛ばせる滑走路が、工場の隣にある。それだけで、問いの半分には答えが出る。残りの半分、土地の値段や軍との関係の重みは、手元の資料からは読み取れない。

立川に移った会社は、ここから一気に大きくなる。そして、その大きさは、ある数字に表れることになる。

赤とんぼと隼、そして57時間飛び続けた飛行機

1934年12月、会社は軍の練習機「九五式一型練習機」を作る。通称は赤とんぼ。沿革には、製作した累計が2,398機と記されている。練習機とは、操縦を学ぶための飛行機だ。空を目指す人のための2,398機が、この町の工場から出ていった。

1936年7月、会社は立川飛行機株式会社と名を改める。工場のある土地の名を、社名に掲げたのだ。1943年には、中島飛行機からの転換生産として、一式戦闘機の二型・三型「隼」を作った。累計は2,494機。他社が設計した機体を、立川の工場で作っていた。オンライン百科事典ウィキペディアによれば、会社はほかにも、アメリカのロッキード社の旅客機をライセンス生産した「ロ式輸送機」や、偵察機、練習機を手がけている。設計を自前で持ち、他社の設計も引き受け、外国の機体まで作る。工場は、時代の注文をそのまま映す鏡だった。

この会社の工場からは、変わった飛行機も生まれている。英語版の百科事典などの資料によれば、キ77と呼ばれる長距離機は、朝日新聞社を後援者として、東京の大学の航空研究所が設計を担い、立川飛行機が製作を受け持った。1944年7月、その機体は満州の上空に設けた三角形のコースを19周し、57時間あまりかけて16,435kmを飛んだとされる。国際的に公認された記録ではない。それでも、ひとつの機体が2日半、同じ三角形をぐるぐる回り続けたという光景には、可笑しみと執念が同居している。陸上の400mトラックなら、4万周を超える距離である。降りてきた乗員が最初に何を口にしたのか、資料はそこまで教えてくれない。

100周年に寄せた会社のメッセージは、かつて約50機種、1万機弱の飛行機を製造し、在籍の総人員が4万2千余を数えた時期もあった、と振り返る。

そして1945年9月。沿革の記述は短い。終戦によって事業を閉じ、会社の施設は連合国軍最高司令官総司令部、つまりGHQに接収された。事業を閉じたときの在籍者は42,332名。

4万人を超える人が、ひとつの会社で働いていた。いまの立川市の人口、18万7千人あまりの2割を超える数である。その多くは、この町か、この町の近くで暮らしていたはずだ。朝、同じ方向へ歩いていく人の群れ。昼の休み。夕方の帰り道。飛行機の町は、飛行機を作る人の町でもあった。その人々が、ある日を境に仕事を失った。数字は、その日の重さを何も語らない。だから、なおさら重い。

だが、仕事を失った人々は、そこで終わらなかった。このあたりで一度、数字だけを並べてから、その人々の行き先を追ってみる。

数字で読む立飛

  • 1924 — 創業の年。生まれは月島、5歳で立川へ引っ越した。
  • 2,398 — 赤とんぼの製作累計(機)。その名は、いまも別の看板に残っている。
  • 16,435 — キ77が周回して飛んだとされる距離(km)。地球をおよそ0.4周、ただし同じ三角形の上で。
  • 42,332 — 終戦時の在籍者(人)。いまのアリーナ立川立飛の最大収容3,000人で割ると、満員14回分あまり。
  • 約98万 — いまグループが持つ土地(平方メートル)。立川市のおよそ25分の1が、ひとつの会社の地面である。
  • 935 — 砂浜とショッピングモールの番地。両者は、ほとんど同じ住所に住んでいる。

飛行機を作れなくなった会社に、4万人分の仕事の代わりは見つかったのか。戦後の沿革は、そこから始まる。

飛行機の技術者たちは、自動車へ向かった

立川飛行機の物語は、会社の沿革の外にも枝を伸ばしている。

百科事典によれば、敗戦の2年後の1947年、立川飛行機の元社員たちが、たま電気自動車という会社を興した。自動車の専門誌のウェブ記事も同じ流れを伝えている。立川飛行機の試作工場長として軍用の試作機の開発に取り組んだ外山保と、技師の田中次郎が中心となって東京電気自動車を設立し、会社はたま電気自動車、たま自動車、プリンス自動車工業と名を変えていった。記事は、立飛ホールディングスが修復して公開した2機の軽飛行機が、前身である立川飛行機の航空機技術という関係で、スカイラインやグロリアにつながっている、と書く。百科事典は、プリンス自動車が1966年に日産自動車に吸収されたことまで記している。

同じ記事には、もう一人の名がある。初代カローラなどの主査として活躍した長谷川龍雄も、高高度防空戦闘機の設計主務を務めた立川飛行機の出身者だという。立川の飛行機工場の図面台の前に座っていた人たちが、戦後、日本の自動車の歴史の中心にいた。

立川の人が自分の町を自慢しにくいと感じているなら、この一行を覚えておくといい。日本を代表する乗用車の源流のいくつかは、立川の飛行機工場から流れ出している。空を飛べなくなった技術は、地上を走ることを選んだのだ。

では、立川に残った会社のほうは、何を作ったのか。

洗濯機から宇宙まで、飛ばない会社の半世紀

戦後の沿革を読んでいくと、ひとつの会社が、作るものを次々と変えながら生き延びていく姿が浮かび上がる。

1949年、企業再建整備法にもとづいて、立川飛行機の現物出資による第二会社が生まれる。沿革によれば、最初はタチヒ工業という名で、のちに新立川航空機と名を変える会社だ。1952年には、この会社の手で、戦後国産第一号機とされるR-52型軽飛行機が完成した。翌年にはR-53型、その翌年にはR-HM型。飛行機づくりの火は、細々とではあれ、まだ消えていなかった。もっとも百科事典によれば、3機はいずれも量産には至らなかった。

だが同時に、第二会社の側は、飛行機とはまるで別のものも作り始める。1955年、昭和30年の1月には、タチヒ電気洗濯機の生産が始まった。隼を2,494機作った会社の流れをくむ技術者たちが、次に挑んだ相手は、家庭の洗濯物だったのである。昭和の家の洗面所で「タチヒ」と書かれた洗濯機を見たことのある人がいたら、その人は、戦闘機工場の末裔が回るのを見ていたことになる。いまの若い人には、立飛は砂浜とモールの名前でしかないだろう。ほかにも、工場用の暖房機、ジェットエンジンの部品、自動車用のエレベータ、二段式の駐車装置、宇宙ロケット用の部品。洗濯機から宇宙まで。品目の幅だけ見れば、ほとんど何でも屋だ。

ものづくりの火は、思いのほか長く燃え続けた。沿革によれば、第二会社の流れをくむ部門は、1949年に接収を免れた江ノ島工場などの設備で板金製品の製造を始め、2007年3月には立川工場の製造部門をその江ノ島工場へ集めた。同じ年の12月、江ノ島工場は品質マネジメントの規格ISO9001と、航空宇宙の品質マネジメント規格JISQ9100の認証を受けている。飛行機を作らなくなってから半世紀たっても、この会社のどこかには、航空宇宙の品質を名乗る工場があったのだ。その江ノ島工場の事業が終わったのは、2013年3月である。立川飛行機の流れをくむものづくりは、平成も半ばを過ぎるまで続いていた。

一方、もとの立川飛行機は、1955年5月に会社を続ける決議をし、立飛企業株式会社と名を改めた。沿革は、このときから施設の賃貸が主な事業になったと記している。立飛という二文字は、ここで社名として現れる。立川の「立」と、飛行機の「飛」。私にはそう読める。百科事典も、社名は立川飛行機の略だと書いている。

立飛企業のその後の沿革も、なかなか味わい深い。1961年10月に東京証券取引所の市場第二部に上場し、川崎工場を新しく建てて、第二会社の製品を売る役を担った。1964年11月にはタチヒリペアーセンターを開き、自動車の整備とガソリンスタンドの営業を始めている。飛行機を作っていた会社が、今度は町の自動車に給油をする。技術者たちが自動車へ向かった話と、どこかで響き合う一行だ。ガソリンスタンドは1984年10月に閉じ、自動車整備工場も1987年にやめた、と沿革は続く。

沿革には、もうひとつ見逃せない行がある。1956年11月、第二会社は石川島播磨重工業、いまのIHIと、技術と経営の両面で提携した。会社の最初の名は、石川島飛行機製作所だった。30年あまりの回り道を経て、その名の片方が、提携の相手として戻ってきたことになる。偶然か、必然か。沿革は事実を並べるだけで、答えない。

接収されていた土地は、時間をかけて会社に戻ってきた。1973年6月に立川工場、いまの南地区が返還される。1976年5月には立川製造所、いまの東地区と西地区が返還され、倉庫や自動車置場として貸し出された。そして1977年11月、接収されていた全資産の返還が完了する。1945年から数えて32年。ひとりの人が生まれてから働き盛りになるまでの時間を、工場の土地は他人の手の中で過ごした。

戻ってきた土地は、二つの会社に分かれて持たれていた。片方は土地を貸し、片方はものを作る。二つがひとつに戻るのは、ずっとあとのことだ。2011年8月、二つの会社の社長が経営陣による買収、いわゆるMBOを行った。沿革は、その目的を、2社に分断した所有不動産の一体開発による地域経済への貢献だと書いている。翌2012年1月に東京証券取引所の市場第二部での上場をやめ、4月には立飛ホールディングスを親会社とする形にまとまった。

分かれていた土地の持ち主が、ひとつの意思を持った。すると、駅前の景色が動き始める。

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