立川飛行場と神風号 午前2時にロンドンへ発ち、羽田へ帰った国産機と空の都

1937年4月6日の午前2時12分、朝日新聞社の神風号は立川飛行場からロンドンへ飛び立ち、94時間17分56秒で着いた。帰りに降りたのは羽田だった。汽車の5倍の運賃だった立川―大阪の定期便、乗客の顔ぶれ、飛行場が選ばれた理由、全日空の初代社長と神風号の縁まで、空の都の民間航空を市史と一次資料でたどる。

午前2時12分4秒。日付が変わってまだ2時間あまりの立川飛行場から、一機の飛行機が離陸した。昭和12年(1937)4月6日、朝日新聞社の神風号である。行き先はロンドン。4日目の午後、機体はロンドンのクロイドン飛行場に降り、日本の国産機が東京とロンドンのあいだの世界記録をつくった。

この話を、立川に住む人はどれくらい知っているだろう。もう少し意地の悪い問いもある。神風号は立川から飛び立った。では、ヨーロッパを回って帰ってきたとき、どこに降りたのか。答えは立川ではない。羽田である。

なぜ立川から発ち、なぜ立川へ戻らなかったのか。そして、なぜ真夜中だったのか。そこには、立川が日本の空の玄関だった数年間と、その玄関が東へ引っ越していった事情が詰まっている。飛行場の原っぱに集まった人々と、その空を飛んだ二人の男を、資料の中で追ってみることにした。

神風号と立川飛行場──1937年4月6日、午前2時12分の離陸

神風号の飛行には、はっきりした目的があった。百科事典によれば、朝日新聞社は、昭和12年5月12日にロンドンで行われる英国王ジョージ6世の戴冠式を祝う名目で、ヨーロッパとアジアを結ぶ連絡飛行を計画した。当時、日本とヨーロッパを結ぶ定期の航空路はなかった。しかも東京からロンドンへ向かう飛行は向かい風になる。パリと東京のあいだを100時間で飛ぼうとしたフランスの挑戦も、失敗を繰り返していた。

朝日新聞社の神風号(三菱キ15の試作2号機)。全金属製の低翼単葉機の姿
朝日新聞社の神風号(三菱キ15の試作2号機)。全金属製の低翼単葉機の姿
写真: SDASM Archives / Public domain / Wikimedia Commons

機体は、三菱が陸軍のために開発していた偵察機、キ15の試作2号機だった。朝日新聞社が陸軍に払い下げを頼み、了承を得た。速度だけを重んじて設計された、全金属製の低翼の単葉機である。機体にはJ-BAAIの登録記号が付いた。

最初の出発は4月2日に試みられたが、悪天候で引き返している。仕切り直しの4月6日、神風号は午前2時12分4秒に立川を離陸した。飯沼正明操縦士の生涯を記した百科事典の記事によれば、離陸したあと村山貯水池の上空で祝賀の飛行をし、午前2時55分に御前崎、3時8分に紀伊半島を通過した。立川を出た機体が、まず北の狭山丘陵の湖の上を回って挨拶していったことになる。夜明け前の挨拶に、湖のほうも驚いたにちがいない。

百科事典の飯沼正明の項によれば、経由地は11か所。台北、ハノイ、ビエンチャン、カルカッタ、ジョドプール、カラチ、バスラ、バグダッド、アテネ、ローマ、パリ。安曇野市の紹介によれば、飛んだ距離は15,357キロ、かかった時間は94時間17分56秒、給油や仮眠をのぞいた実際の飛行時間は51時間19分23秒、平均時速は300キロだった。ロンドンへの到着の日付は、資料によって4月9日とも10日とも書かれている。百科事典は現地時間の4月9日午後とし、帝京大学の研究者の論文も、4日目の4月9日午後3時にクロイドン飛行場に着いたと書く。

百科事典によれば、クロイドン飛行場や、その前に寄ったパリのル・ブルジェ空港は、人の波であふれた。二人はフランス政府からレジオンドヌール勲章を受けた。イギリスの航空誌は、日本人の飛行士が乗った純日本製の機体と発動機による長距離の記録に、驚きとともに賛辞を送ったと伝えられている。

私が見たいのは、その4日前の立川だ。午前2時の飛行場には、何があったのだろう。Wikimedia Commonsに残る当時の写真の一枚には、夜の暗がりの中、「KAMIKAZE」の文字が入った機体の脇に、帽子とコートの男たちが立っている。写真の説明には、天候が回復し、飯沼飛行士が出発の準備をする、とある。早朝便に乗るたびに寝坊を恐れる私には、真夜中の2時に地球の反対側へ発つ心持ちは、ちょっと想像がつかない。

その機体を動かしていたのは、24歳の青年と、36歳の機関士だった。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

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飯沼正明と塚越賢爾──教室の窓から空を見た少年と、英国人の母をもつ機関士

操縦士の飯沼正明は、大正元年(1912)8月2日、長野県の豊科細萱、いまの安曇野市に生まれた。百科事典によれば、大正13年(1924)、一人の飛行士が岐阜の各務原から松本へ飛ぶ途中、村の上空で旋回するのを、小学校の教室から見た。それが飛行機への憧れの始まりだったという。教室の窓の外を見ていた少年が、13年後に地球を半周した。授業中によそ見をしていた子どもを叱る前に、少し考えたほうがいいかもしれない。

飯沼は昭和6年(1931)10月に所沢陸軍飛行学校を卒業し、翌年10月に朝日新聞社に入った。昭和10年(1935)4月、台湾で大地震が起きたとき、台湾と内地を結ぶ連絡飛行で、日本の長距離高速通信飛行の記録をつくっている。神風号のときは24歳。英語版の百科事典は、この飛行で飯沼が国民的な英雄になり、「日本のリンドバーグ」と讃えられたと書いている。

機関士の塚越賢爾は、明治33年(1900)に東京で生まれた。父は群馬出身の弁護士、母はイギリス人の看護婦だった。百科事典によれば、塚越は朝日新聞社の航空部の機関士として長く働き、神風号の関連行事ではいつも飯沼を前に立てて、自分は影に徹したという。飯沼は彼を「塚越さん」と呼んで慕い、研究家で勉強家で、乗務員の機関士としてはおそらく日本一だろうと讃えた、と同じ記事は書く。混血であることは、生前は公にされていなかったらしい。

塚越には、こんな逸話も残っている。神風号の成功を祝って、日産自動車からダットサンの車が贈られた。ところが塚越は自動車の運転免許を持っていなかった。警察に相談に行くと、操縦士の免許を持っている塚越さんが自動車を運転できないはずがない、という理由で、あっさり免許が出たという。息子の回想では、その運転は危なっかしく、クラクションを鳴らしながら走ったそうだ。空の上で日本一と呼ばれた機関士も、地上の道ではただの新米だった。

「神風」の名は50万通あまりの中から選ばれた

機体の名前は公募で決めた。百科事典によれば、寄せられた応募は50数万通。その中から、東久邇宮稔彦王が「神風」を選んだ。朝日新聞の紙上では声援歌も公募され、当選作は日本コロムビアからレコードとして売り出された。機体の塗装の意匠は、画家の山路真護が手がけている。

雲の上を飛ぶ神風号。主脚に流線形の覆いを付けた機体を前から写した一枚
雲の上を飛ぶ神風号。主脚に流線形の覆いを付けた機体を前から写した一枚
写真: 作者不明 / Public domain / Wikimedia Commons

50万通という数字は、当時の熱気を物語る。一機の飛行機の名前に、50万人あまりが知恵を絞った。その熱は名前だけでは終わらない。百科事典の関連項目には、大相撲の力士、神風正一の四股名が神風号に由来すると書かれている。作曲家の大澤壽人は、この年、「神風協奏曲」の副題をもつピアノ協奏曲を書いた。立川を発った飛行機が、土俵と演奏会場にまで名前を残したことになる。

この飛行の旗を振った人物の名前も、ここで覚えておきたい。朝日新聞社の常務だった美土路昌一である。百科事典によれば、美土路は明治43年(1910)に日本で最初の飛行機の飛行を取材して空に関心をもち、昭和8年(1933)には航空部長を兼ねた。そして昭和12年、神風号の訪欧飛行の指揮を執った。この人の名前は、記事の後半でもう一度出てくる。

数字で読む神風号

  • 2時12分4秒 ── 立川を離陸した時刻。午前である。始発電車より、ずっと早い。
  • 50数万 ── 通。機体の名前の応募数。一通ずつ目を通した係の人がいたなら、その仕事も記録に値する。
  • 15,357 ── キロ。立川からロンドンまでの飛行距離。地球一周(およそ4万キロ)の4割近くを、4日で飛んだ。
  • 94時間17分56秒 ── 出発から到着までの時間。そのうち実際に飛んでいたのは51時間19分23秒。残りは給油と仮眠である。
  • 11 ── か所。途中で降りた街の数。台北からパリまで、ほとんど毎日が乗り継ぎだった。
  • 24 ── 歳。操縦した飯沼正明の年齢。

旅人の寄り道クイズ

立川飛行場を発った神風号は、ヨーロッパを親善訪問したあと、空路で日本へ帰ってきた。最後に着陸した東京の飛行場はどこだっただろう。(A)立川飛行場(B)羽田飛行場(C)所沢飛行場。答えは最後に明かす。

神風号が飛び立ったころ、立川の飛行場はすでに陸軍の専用になっていた。だが、そのほんの数年前まで、ここは日本の民間の空の玄関だった。その時代の話を掘り起こしたい。

空の都・立川の民間航空──川越でも小平でもなく立川が選ばれた

そもそも、なぜ立川に飛行場ができたのか。市史編さんの広報紙『たちかわ物語』第15号によれば、大正10年(1921)、陸軍の航空第五大隊の敷地の候補には、立川のほかに川越(いまの埼玉県川越市)、小川(いまの小平市)、上溝(いまの神奈川県相模原市)が挙がっていた。その中から立川が選ばれ、翌大正11年(1922)に飛行場が建設された。

もし川越が選ばれていたら、空の都は小江戸と呼ばれる街の名で記憶されていたのかもしれない。小江戸に空の都。語呂は悪くないが、こればかりは譲れない。

工事には、当時としては珍しいトラクターも使われ、山林原野や桑畑が飛行場に変わった。市史の広報紙は、建設前の景色を伝える一文も載せている。飛行場の正門は立川駅から北へおよそ300メートルのところにあった。当時は砂川や所沢へ向かう街道があるほかは、ほとんどが原野と畑で、夜はとても暗く、地元の人でも近づくのに勇気がいる場所だった、と。いま、その一帯は立川でいちばん明るい駅前である。夜の北口で、勇気を出して歩いている人はいない。

飛行場は、すぐに民間の人々の場所にもなった。大正12年(1923)、関東大震災の影響で、朝日新聞社の航空部などが東京湾岸の洲崎から立川へ移ってきた。大正14年(1925)には御国航空研究所、のちの御国飛行学校が開校している。昭和5年(1930)の地図には、飛行場のまわりに日本航空輸送会社の格納庫、御国飛行学校、朝日新聞社の格納庫、日本飛行学校が並んでいる。市史の広報紙は、これを昭和8年までの軍民共用の時期の特徴だと書く。陸軍の飛行場の脇に、新聞社と航空会社と飛行学校が軒を連ねていた。

外国からも飛行機がやってきた。市の資料「立川飛行場のあゆみ」によれば、昭和2年(1927)9月、ソ連のANT-3が立川に飛来した。立川に来た最初の外国機である。そのあと外国機の飛来が相次ぎ、市史の広報紙は昭和4年(1929)に逓信省が立川を国際飛行場と定めたと書く。著名な外国人飛行家の来訪が相次ぎ、TACHIKAWAの名前は「空都」として世界的に知られるようになった、と市は書いている。

同じ「立川飛行場のあゆみ」には、一枚の写真が載っている。説明は、初めて太平洋横断飛行に成功したアメリカの「ミス・ビードル号」。昭和6年(1931)、パングボーンとハーンドンの二人が青森の淋代海岸から北太平洋を無着陸で渡り、アメリカのワシントン州に着いた機体だ。百科事典によれば、二人は日本に来た直後、軍事機密を守るための飛行禁止区域を知らずに飛び回って拘束されている。この写真がどこで撮られたのかを、私は資料からは確かめきれなかった。ただ、市が飛行場の歩みを語る頁にこの機体を選んだことに、空都と呼ばれた時代の誇りを感じる。

町はこの賑わいを歌にした。市史の広報紙によれば、昭和5年(1930)には、飛行場でにぎわう立川の繁栄を祝う「立川小唄」が発表されている。飛行機の街の、ご当地ソングである。では、その空の便には、誰が、いくら払って乗っていたのか。

運賃は汽車の5倍──日本航空輸送と「興味本位」の乗客たち

民間の定期航空は、新聞社から始まった。帝京大学の研究紀要に載った日本の航空100年の論文によれば、朝日新聞社の東西定期航空会は大正12年(1923)1月に事業を始め、浜松を中継して東京と大阪の城東練兵場を結んだ。東京側の発着は洲崎、のちに立川である。始めのうちは貨物だけを運び、預かった貨物の運賃は無料だった。目的は商売よりも新聞の販売の後押しで、新しい輸送の手段として飛行機の可能性を試すことにもあったという。百科事典によれば、この会は6年間で4,009回飛び、延べ5,767時間の飛行記録を残した。

乗客を乗せる飛行機もやってくる。同じ論文によれば、ドルニエ・コメット、ドルニエ・メルクール、三菱MC-1といった新鋭機は、いずれも乗員2名、乗客4名だった。百科事典は、昭和3年(1928)8月に東西定期航空会がドルニエ・コメットで立川と大阪のあいだに定期の旅客輸送を始め、運賃は35円、同じ区間の特急列車の三等の運賃は7円だったと書く。空の旅は、汽車の5倍だった。

国も動いた。昭和3年(1928)10月20日、政府の後押しで、民間の航空輸送を一手に担う日本航空輸送株式会社が生まれる。設立には渋沢栄一や井上準之助といった財界の大物が力を貸した。東西定期航空会は翌年3月31日、この会社に吸収された。百科事典によれば、昭和4年(1929)4月1日、日本航空輸送の定期航空が始まるにあたって、立川の飛行場は「東京飛行場」の名を名乗った(この名前がやがて羽田へ移っていったことは、この特集の「航空神社」の記事で書いた)。

市の資料は、昭和4年7月に日本で最初の民間の定期旅客輸送が立川と大阪のあいだで始まったと記す。百科事典によれば、このとき開かれた東京と大阪の航路は、料金35円、平均の搭乗時間はおよそ3時間だった。会社は日本の空の独占を任された国策会社だったが、論文はその内実を率直に書いている。需要はごく低く、乗客は公務員や国策会社や軍の要員の出張が3分の1以上を占め、残りはほとんどが興味本位の搭乗だったといわれる、と。会社は経営難に陥り、総収入の9割を政府の補助金に頼るようになった。補助金は昭和3年から11年までの9年間で、国内線と国際線を合わせて1,644万円にのぼったという。

乗客の3分の2近くが、出張でも用事でもなく、乗ってみたくて乗っていた。汽車の5倍の運賃を払って、立川の原っぱから大阪へ3時間の見物に出かけた人々がいたのだ。私はこの「興味本位」という言葉が、どこか誇らしく思える。日本の旅客機の歴史は、好奇心に背中を押された人たちと一緒に、立川から始まった。

だが、立川の民間の空は長くは続かなかった。昭和6年(1931)8月、日本航空輸送などの旅客機は羽田へ移り、市の年表によれば昭和8年(1933)9月には民間航空そのものが羽田へ移転した。市史の広報紙は、羽田が完成して民間航空が移ると、立川飛行場は軍の専用になったと書く。神風号が飛び立った昭和12年には、ここはもう陸軍の飛行場だった。民間の空の玄関が東へ移ったあとで、民間の新聞社の機体が、ひさしぶりに古巣から飛び立ったのである。では、その新聞社の格納庫にいた人々は、その後どこへ向かったのか。答えは、いま私たちが羽田や成田で目にしている、ある航空会社の名前につながっている。

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