朝日新聞の格納庫から、全日空へ──神風号を指揮した男のその後
さて、記事の前半で名前を覚えておいてほしいと書いた、美土路昌一である。
百科事典によれば、美土路は太平洋戦争の末期に朝日新聞社の常務を辞めて郷里の岡山県津山に帰り、農業を始めた。敗戦後、朝日新聞社の航空部の次長だった中野勝義とともに、航空関係者の失業を救う組織「興民社」をつくって会長になる。占領下の日本では、飛行機に関わる仕事がすべて禁じられていたからだ。
昭和27年(1952)、国内の民間航空が再開されると、美土路は日本ヘリコプター輸送を設立して社長になった。昭和32年(1957)12月、この会社と極東航空が合併して全日空が発足すると、美土路はその初代社長に就いた。百科事典の東西定期航空会の項は、朝日新聞の航空部にいた美土路と中野が興民社を立ち上げ、それが母体となって日本ヘリコプター輸送が生まれ、のちの全日本空輸になった、と書いている。
整理すると、こうなる。立川飛行場に格納庫を構えた朝日新聞社の航空部。その航空部長を務め、立川から飛び立った神風号の訪欧飛行の指揮を執った人が、戦後、全日空の初代社長になった。いま羽田や成田で青い尾翼の旅客機に乗るとき、その会社の始まりに、立川の格納庫で飛行機を見上げていた人々の系譜が流れこんでいる。立川の空港の看板は東へ移ったが、人のつながりは、そう簡単には引っ越さなかった。
朝日新聞社には、神風号の前にも訪欧の記録があった。帝京大学の論文によれば、大正14年(1925)、朝日新聞社はフランスから買ったブレゲー19型の2機に「初風」「東風」と名付け、7月に日本を出発させた。2機はシベリアを経て欧州の都市を巡り、10月にローマに着いた。機体はそこで解体され、操縦士や機関士ら4人とともに汽船で翌年1月に帰国したという。帰りは船だった。12年後の神風号は、帰りも空を飛んだ。ここに、この12年間の日本の空の進歩がある。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
二人のその後と、神風号の行方
神風号の帰り道は、行きと同じ道を逆にたどった。昭和12年5月14日にロンドンを発ち、大阪を経て、21日に羽田へ着いた。帝京大学の論文は、その日の羽田は雨だったと書く。百科事典によれば、こうした長距離の飛行では帰りを船にすることが多かったが、このときは朝日新聞の幹部のあいだで往復とも飛ばすと決まっていたため、疲れて気乗りしないまま、二人は自分で操縦して帰ってきたという。英雄の帰国は、雨の羽田への出勤のようなものだったのかもしれない。
その後の二人の運命は、戦争と切り離せない。
飯沼は、昭和16年(1941)12月11日、フランス領インドシナのプノンペンで亡くなった。太平洋戦争が始まって3日後のことだ。百科事典によれば、飛行場で友軍機の事故に巻き込まれた死だったが、日本では「名誉の戦死」として事実と異なる死因が伝えられたという。29歳だった。平成元年(1989)4月、生まれ故郷の安曇野市豊科細萱に、飯沼飛行士記念館が開館している。立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』第11号の資料提供者の一覧には、この記念館の名が載っている。立川の市史は、安曇野の記念館と、いまもつながっている。
塚越は、昭和18年(1943)7月7日、朝日新聞社と陸軍の長距離機キ77に乗ってシンガポールを飛び立ち、ドイツをめざして、インド洋の上で消息を絶った。百科事典によれば、機体と乗員のその後は、いまも分かっていない。
神風号そのものにも、長い後日談がある。百科事典によれば、帰国後は朝日新聞社の通信機として使われ、昭和14年(1939)10月には台湾の沖に不時着した。引き揚げられて修復され、昭和15年(1940)には奈良の生駒山の「神風記念館」に展示された。戦後は米軍に焼却処分されたとされるが、朝日新聞の社旗が描かれたジュラルミンの破片が残っていた。2021年に保管していた人の遺族から三菱重工業に連絡があって寄贈され、2024年3月から同社の大江時計台航空史料室で常設展示されているという。立川を真夜中に飛び立った機体のかけらが、80年あまりたって人目に触れる場所に戻ってきた。
民間の空が消えた日、立川に残ったもの
昭和20年(1945)、戦争が終わる。帝京大学の論文によれば、同年11月18日、連合国軍総司令部は、日本の航空に関わる官庁、企業、団体を12月31日までにすべて解体するよう命じた。日本の民間の空は、いったん消えた。
その同じ秋、空を飛んでいたのは占領軍の飛行機だった。論文によれば、10月11日、アメリカ極東空軍が終戦連絡の飛行をすると総司令部が通達した。担当するアメリカの部隊は、すでに接収していた立川飛行場を基地に、C-47やC-46など合わせて12機で飛び、日本各地での旅客や郵便物の引き受けなどの業務は、大日本航空が引き続き担うよう命じられた。日本の民間の空が禁じられたとき、日本の空の便は、また立川から飛んでいたのである。
基地のゲートと3.5トンのキャンディー──昭和の立川飛行場の前で
市史編さんの広報紙『たちかわ物語』第20号によれば、昭和20年9月3日に立川へ進駐した米軍は、飛行場と隣の工場を接収し、9月5日に立川基地を置いた。軍需品の工場は生産を禁じられ、職を失った労働者の多くが故郷へ帰った。そのかわり、基地から流れ出た物資が立川駅のまわりのヤミ市をにぎわせ、基地に勤める米兵は、ゲートの周辺、曙町、高松町、富士見町の商店街の大事な客になった。立川基地が極東随一の輸送基地になると、修理工、料理人、ハウスメイド、運転手と、基地の内外に仕事が生まれた。昭和25年(1950)には、「軍都」と呼ばれた昭和19年の6万人を上回って、立川の人口は過去最多を更新したという。

写真: 国土地理院 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
広報紙の第15号は、そのころの写真を何枚も載せている。昭和25年(1950)の立川駅のクリスマスの飾りには、サンタクロースと輸送機が並んでいた。いまの西地下道の南側の出口あたりから駅を写した一枚には、外国人向けの土産物の店、Souvenir Storeが写っている。こうした店は北口だけでなく、線路をまたいだ南口にも広がっていた。昭和27年(1952)ごろ、基地のメインゲートが面していた曙町二丁目の交差点には、米兵向けの英語の看板が並んでいた。
いちばん賑やかな写真は、子どもたちの記録だ。昭和28年(1953)、基地の東地区で開かれた子どものためのクリスマスパーティーは、この年で5回目を数え、前の年に続いて2万人を超える子どもの参加が見込まれていた。軍楽隊の演奏、都立立川高校の生徒の聖歌隊による讃美歌、市立第三小学校や市内の幼稚園の子どもの踊り、基地の将兵の子が通う米人小学校の劇、プロの軽業師のアクロバット。基地の中のチャリティーの収益で、3.5トンものキャンディーの山が用意され、最後に現れたサンタクロースが子どもたちに配ったという。昭和20年代の終わりに立川で子ども時代を過ごした人なら、もしかすると、その山の一粒を覚えているかもしれない。
飛行機の音も、町の一部だった。百科事典によれば、1950年代から60年代にかけての基地の最盛期には月におよそ2,300回の発着と、月およそ2万人の空輸があった。立川の空は、戦前とは別の意味で、もう一度「空の都」になっていた。
その空は、少しずつ静かになっていく。昭和44年(1969)10月、米軍は立川での飛行の停止を発表し、昭和47年(1972)には基地の一部が返され、物資を運んだ鉄道の引き込み線が廃止された。昭和52年(1977)11月30日、基地は全面返還された。
あのころと、いまを並べてみる。
- あのころ: 飛行場の正門、のちの米軍基地のメインゲートがあった区画。いま: 市制50周年の事業で整えられた広場「憩いの場」。アートの街ファーレ立川の玄関口のようになっている(『たちかわ物語』第15号)。
- あのころ: 飛行場からあふれた雨水を多摩川へ流すため、戦時中に掘られ、昭和22年(1947)に水を通し、昭和24年(1949)に「緑川」と名付けられた排水路。いま: 昭和35年(1960)から蓋がかけられ、駐車場や駐輪場、公園、道路になっている。
- あのころ: 中央線から飛行場の東側へ、戦前は飛行機工場、戦後は米軍のための物資を運んだ引き込み線。いま: その跡が栄緑地になっている。
- あのころ: 夜はとても暗く、地元の人でも近づくのに勇気がいった原っぱ。いま: 多摩モノレールがサンサンロードの上を走る。
市の資料「立川飛行場のあゆみ」には、英語の看板を掲げた緑川沿いの商店の写真が載っている。若い人には、立川の駅前に英語の看板が並んでいたこと自体が新鮮だろう。年配の人には、その看板の文字の色まで思い出せる人がいるかもしれない。どちらにとっても、その場所はいま、毎日歩いている道の下か、すぐ脇にある。
ここで思い出したいのは、市史の広報紙のあの一文だ。夜はとても暗く、地元の人でも近づくのに勇気がいる場所だった。その暗い原っぱに、大正の終わりから昭和の初めにかけて、新聞社の格納庫が建ち、飛行学校の若者が集まり、汽車の5倍の運賃を払って大阪へ飛ぶ物好きな乗客がやってきた。外国の飛行家が降り、町は小唄を作った。そして昭和12年の春、まだ暗い午前2時に、一機の国産機がロンドンへ発った。
立川は、ときに「何もない街」と言われる。だが、この国の旅客機の歴史をさかのぼると、その最初の数年間の玄関に、立川の原っぱがある。全日空の初代社長の物語をさかのぼっても、神風号の離陸の夜に行き着く。立川の人が羽田で搭乗口へ急ぐとき、少しくらい胸を張ってもいい。その空の旅の一番古い記憶は、自分の街の北口のすぐ先にあるのだから。
新宿から中央線で一本、川崎からなら南武線で一本。週末に北口を出て北へ300メートルほど歩けば、夜は誰も近づかなかった原っぱの入口に、明るい昼間のまま立てる。
寄り道クイズの答え
答えは(B)の羽田飛行場。安曇野市の紹介によれば、神風号は昭和12年(1937)5月21日に羽田飛行場に帰還した。帝京大学の論文は、14日にロンドンを発ち、21日に大阪を経て午後、雨の羽田に帰着したと書く。民間の航空は昭和8年(1933)に立川から羽田へ移っていたので、帰る先の東京の空の玄関は、もう羽田だった。
訪ねる前に
- 飛行場の跡を歩く: 立川飛行場の跡地の中央部は国営昭和記念公園になっている。JR立川駅北口からあけぼの口まで徒歩約10分、多摩都市モノレール立川北駅から約8分(公園の公式アクセス案内による)。あけぼの口から入ってすぐの「みどりの文化ゾーン」は無料区域。入園料・開園時間・休園日は公式で確かめてほしい: https://www.showakinen-koen.jp/
- 正門のあった場所: 『たちかわ物語』第15号によれば、飛行場の正門は立川駅から北へおよそ300メートルの所にあった。北口を出て北へ歩けば、夜も近づけなかった原っぱが、いまの街並みのどこにあたるのかを体で確かめられる。
- 資料を見る: 立川市歴史民俗資料館(立川市富士見町3-12-34)。開館日と時間、展示の内容は市の施設案内で確かめてほしい: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisetsu/1008065/1008098.html
- 市の資料「立川飛行場のあゆみ」(PDF・年表とミス・ビードル号の写真が載る): https://www.city.tachikawa.lg.jp/_res/projects/default_project/page/001/004/905/7tatikawahikoujou.pdf
- 組み合わせて回るなら: 昭和記念公園の散策と、この特集の「立飛」「GREEN SPRINGS」「立川防災館と広域防災基地」の記事の題材は、いずれも飛行場の跡の上にある。飛行場のそばで生まれたと伝わる祠は「航空神社」の記事で書いた。
- 都心と神奈川から: 新宿からはJR中央線快速で立川まで乗り換えなし(30分台)。神奈川からは、川崎からJR南武線で乗り換えなし(立川まで約1時間)。時刻と所要時間はJR東日本の公式で確かめてほしい。
- 遠くまで足を延ばすなら: 飯沼正明の生家の跡には、長野県安曇野市豊科の飯沼飛行士記念館がある(安曇野市の紹介: https://www.city.azumino.nagano.jp/site/yukari/2333.html )。開館日などは安曇野市の案内で確かめてほしい。
空の都の北口で、深く息を吸う
昭和記念公園を歩き、飛行場の正門があったあたりを通って駅へ戻ると、北口の人の流れに出る。100年前、夜は誰も近づかなかった原っぱの入口が、いまは立川でいちばん人の多い場所の一つになっている。
その北口から徒歩1分、立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガやピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもあり、ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。
営業は8時から23時30分まで。年中無休で、曜日による違いはない。公園を一周したあとの夕方にも、朝の散歩の前にも寄れる。さすがに午前2時には開いていないので、神風号の真似はできない。
ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。身ひとつで寄れる。妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。
料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp で確かめられる。
暗い原っぱから飛び立った白い機体のことを思いながら、北口の空を一度見上げてから、階段を上がる。
冒頭の写真: 1937年4月6日、夜の暗がりで出発の準備をする神風号。機体にKAMIKAZEの文字(写真: 作者不明 / Public domain / Wikimedia Commons)
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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