立川の名物・名産品は何か。答えは生産量都内1位の東京うど。地下3メートルの「うど室」で育つ軟白栽培の仕組み、吉祥寺から伝わった来歴、旬と食べ方、お土産と買える場所、品評会、そして根株が夏を過ごす遠い高原まで、立川の白い名産を一次資料でたどるルポ。
立川の名物は、地下3メートルの暗がりで育つ。日の光を一度も浴びず、白く、まっすぐに。
立川の名物は何か、と聞かれて即答できる人は、たぶん多くない。立川に住んでいる人でさえ、少し考えこむだろう。私もそうだった。駅前の人の多さや、モノレールの走る空のほうが先に浮かぶ。名物の無い街。そう思いかけていた。
答えは、地面の下にあった。立川市は、東京うどの生産量が都内1位だと胸を張っている。しかもそのうどは、畑の上ではなく、地下3メートルの穴ぐらで仕上がる。
ところが、調べはじめてすぐに、私は妙な一文に行き当たった。立川の地下で芽を出すうどの根っこは、その多くが立川の畑で育ったものではないらしい。都内1位の野菜の根っこは、夏のあいだ、どこで何をしているのか。そして、なぜ、わざわざ遠くへ行くのか。その答えを追って、立川の白い野菜の来歴をたどってみることにした。
立川の名物・名産品は何か──答えは地下3メートルの「うど室」にある
立川の名産品は何か。いちばん確かな答えは、東京うどである。立川市の特産品の案内に並ぶのは、東京うどとブロッコリーの2品だけで、どちらにも「生産量都内1位」の見出しが付いている。うどは令和4年産で52トン、都内の収穫量の32.9%を立川が育てた。旬は12月中旬から4月。光の入らない地下の室で育てるので、白い。土産なら、東京うどを使ったパイやドレッシングが立川の推奨土産に認定されている。名物を聞かれて黙りこむ必要は、本当は無かったのだ。

写真: Kentin / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
まず、うどという野菜のことから始めたい。
東京都多摩府中保健所の食べもの暦によれば、うどはウコギ科の植物で、朝鮮人参やたらの芽の仲間にあたる。山芋やにら、わらびと同じ日本原産の野菜だ。山野に生える緑色の「山うど」と、白い色が特徴の「白うど」があり、東京うどは白うどの一種で、練馬ダイコンなどと並ぶ江戸東京野菜のひとつである。
白さには理由がある。立川市の説明は短い。光の入らない「室(むろ)」と呼ばれる地下3メートルの穴ぐらで育てることによる、白い色。一般的なうどは山野に自生し、緑色をしている。つまり東京うどは、日に焼けていないうどなのだ。
東京都の地域資源の紹介は、うど室の中をもう少し詳しく書いている。深さ約3メートルの穴蔵の中は、年間を通して18度から20度ほどに保たれ、冬場は電熱線などで暖めることもある。真冬の地上より、よほど過ごしやすい。私の冬の部屋より快適かもしれない、と考えて、少し情けなくなる。
ただし、居心地がいいのはうどにとってだけだ。同じ紹介は、生産者がうど室の中で酸欠になるのを防ぐため、ロウソクの炎などで酸素の有無を確かめながら作業する、と書いている。地下の畑に下りるのに、炭鉱のような用心が要る。野菜づくりの話を読んでいたはずが、急に坑道の話になった。
なぜ立川が穴ぐらに向いていたのか。立川市は、武蔵野で行われていた室での栽培が、立川の地質、つまり崩れにくい関東ローム層や温度、湿度を保ちやすい性質に合っていたため、立川で一番盛んになったと説明する。関東ローム層は、火山灰が降り積もってできた赤土だ。立川北部の砂川では、この土が水田に向かず、米づくりに苦労したと立川市の文化財解説は伝えている。その同じ土が、穴を掘るとなると今度は味方になる。崩れず、温度が逃げない。何を育てるかで、土の評価は裏返る。
では、この居心地のいい穴に、毎年冬になると運びこまれる根株は、どこから来るのか。それを知るには、少し遠回りが要る。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
平安の都から、江戸っ子の初物へ
立川市は、うど栽培の発祥は京都付近と推定され、平安京の貴族たちに珍重されたといわれている、と書く。その後、愛知から三重方面に広がった。
江戸に入ると、うどは庶民の楽しみになる。立川市によれば、東京うどは江戸時代(1600年代)以降に栽培が始まり、初ガツオなどのように初物を楽しむ江戸っ子の粋な楽しみのひとつだった。初ガツオと並べられる野菜は、そう多くないだろう。片や海から初夏を告げる魚、片や土の中から春を告げる白い茎。江戸の人々は、季節の先触れなら、どこから来てもありがたくいただいたらしい。
ところで、うどには気の毒な言い回しがある。図体ばかり大きくて役に立たないもののたとえとして、昔から「うどの大木」と言われてきた。その不名誉なたとえを背負ったまま、うどは地下3メートルに潜り、贈答品になった。東京都の紹介によれば、東京うどは味の評価が高く、贈答用に用いられるほか、高級料亭でも使われている。出世という言葉は、こういうときのためにある。
では、その出世した白いうどは、どの道を通って立川へたどり着いたのか。出発点は、意外な街だった。
吉祥寺から立川へ、蚕のあとにやって来た
東京都の紹介は、東京西部のうど栽培は江戸時代後期に、旧吉祥寺村(いまの武蔵野市吉祥寺)で始まったと言われている、と書く。農林水産省の郷土料理の紹介はもう少し細かく、1830年代の江戸時代後期以降、武蔵野八幡宮の周辺でうどの栽培が始まったとしている。いまの吉祥寺の賑わいを思うと、少し可笑しい。行列のできる街の前歴は、うど畑だった。
もっとも、始まりの時期は資料によって少しずつ違う。東京都の地域資源の紹介は江戸時代後期、農林水産省は1830年代以降、東京都が江戸東京野菜を紹介した別の資料は、幕末期に吉祥寺で栽培方法が始まったといわれている、と書く。どれも「といわれている」で結ばれている。うどの来歴そのものが、少し地下に潜っているようだ。
戦後には、穴蔵で育てる方法の研究が進む。農林水産省によれば、1948年(昭和23年)から穴蔵でうどを栽培する軟化うどの研究がされ、その後、軟化法は北多摩地区に広まった。立川市は、武蔵野、小平、国分寺を経て、立川に栽培技術が伝わったと書く。地図の上で東から西へ、技術が町から町へ渡っていった。
立川でうどの生産が始まったのは、養蚕が衰退した昭和20年代からで、本格的な生産は昭和30年代に入ってからだという。収益性が高く、冬場の農閑期の貴重な収入源として、栽培が盛んになった。
この一文を読んで、私は砂川のことを思い出した。砂川の阿豆佐味天神社には、幕末に常陸国から勧請した養蚕の神、蚕影神社が祀られている。遠い常陸国から守り神を迎えるほど、砂川では養蚕が盛んで、村の経済を支えてきたと立川市は書く。その養蚕が衰えたあとに、うどがやって来た。桑畑の上で絹を育てていた土地が、今度は地下で白い茎を育てはじめた。土地は同じで、育てるものだけが入れ替わる。
昭和20年代、桑の村に、うどがやって来た。30年代に本格的な生産が始まり、40年代には根株を栃木などの高原へ預けるようになる。最盛期には80軒以上の農家が、冬になると地下の室へ下りていた。夏に桑の葉を摘んでいた村が、冬には暗い穴の中で白い茎を育てる村になった。冬場の農閑期の貴重な収入源、と市は書く。畑の仕事が止まる冬を、地下で働いて越したのである。祖父母の家の畑に「むろ」があった、という立川の人は、いまも少なくないのではないか。その数がいまどうなっているかは、もう少し先で数える。
こうして立川に根づいたうどには、もう一つ、外からは見えない性質がある。眠るのだ。
眠るうどを起こす──品種「都」とジベレリン
東京都農林総合研究センターが2017年に出した研究報告を読むと、うど室の暗がりの中で何が起きているのかが、少しわかってくる。報告によれば、室で軟化栽培される東京のうどは、白さとみずみずしさを特長とするブランド野菜の地位を確立し、北多摩地域を中心に年間約300トンが生産されている。ただし生産量はピーク時の10分の1以下まで減っているという。
うどの品種は、大きく二つに分かれる。休眠の深い「春ウド」と、休眠の浅い「寒ウド」だ。味や形は春ウドのほうが優れ、都内の主要品種「都(みやこ)」をはじめ、軟化栽培用の品種はほとんどが春ウドだという。
その春ウドが、なかなか起きない。報告によれば、春ウドは晩秋以降に休眠し、畑で冬の寒さに当たってようやく目を覚ます。2月ごろまでは眠っているので、根株を室に伏せ込んでも、茎は伸びない。そこで生産者は、低温やジベレリンという植物ホルモンで休眠を破り、12月下旬から2月の生産をしている。
うどにも寝起きの悪さがある。暖かい穴ぐらに入れてやっても、眠いうちは伸びない。私は少し、うどに親しみを覚えた。冬の朝の布団から出られない理由を、植物の側から説明してもらった気分である。
報告は、うどの一般的な収穫期は3月から5月だが、早く育てる促成栽培や遅らせる抑制栽培によって作期が広がり、都内では年末から夏まで出荷されると書く。いちばん手薄になるのは10月から12月中旬で、この時期の市場の平均単価は507円と、ほかの時期の1.2倍になるという。眠りの深いうどを、いちばん高く売れる季節に起こすこと。それが、生産者と研究者が向き合ってきた課題だった。
品種「都」は、3月に伏せ込む普通の栽培で1株あたり900グラム前後と収量が多く、上物の割合も9割ほどと安定している。研究では、2008年に滋賀県の生産者から手に入れた寒ウド「湖北系2」と「都」をかけ合わせ、眠りの浅い子どもの系統をつくった。湖北系2はほとんど休眠しないが、茎は細く、1株200グラム前後しか採れない。眠りの深い優等生と、寝つきのいい小柄な品種。その間の子に、東京のうどの次の世代が託されている。
東京都の農林水産の研究の成果を伝える資料によれば、この研究はその後、有望な系統を2つに絞りこみ、現地での試験に進んでいる。あわせて、重労働の根株養成や株割りの作業を要らなくする培養苗の生産体系や、新しい品種を守るためのDNAの目印の開発も進められているという。地下3メートルの仕事は、実験室にもつながっていた。
同じ報告には、うどの花についての観察もある。うどの花は雄性先熟、つまり先に雄しべが熟し、あとから雌しべが熟す性質を持ち、雌の時期の開花7日目が交配に向いているという。うどの花を髪に見立てたキャラクターが立川にいることは後で紹介するが、その花がこんなに律儀な時間割で咲いているとは知らなかった。
眠りを起こし、白く伸ばし、地上へ運び出す。そうして育ったうどは、いま立川でどれほどの量になっているのか。数字は、思ったより正直だった。
15軒、52トン、都内1位という数字
立川市が東京都の農作物生産状況調査報告書から引いた表によれば、令和4年産のうどの収穫量で、立川市は都内1位。作付面積463アール、収穫量52トン、都内収穫量に占める割合は32.9%だ。2位は国分寺市の36トン、3位は小平市の21トン。かつて技術が渡ってきた小平、国分寺、立川という順路を、いまの順位がちょうど逆からなぞっている。
ただ、立川市は景気のいい数字だけを並べてはいない。現在うどの生産に取り組むのは15軒。最盛期には80軒以上の農家で500トン以上を生産していたが、他産地の台頭や後継者の問題などがあり、生産量は年々落ち込んでいるという。2006年4月に立川を特集したテレビ番組の紹介ページは、東京うどを立川の5位に挙げ、立川は日本有数のうどの産地で、30軒ほどの農家が栽培していると書いていた。それからおよそ20年で、その数も半分になったことになる。80軒が15軒に。500トンが52トンに。それでも都内1位である。東京でうどを育てること自体が、それだけ珍しくなったということでもある。
52トンという量を、私はうまく想像できない。だが、それがすべて地下3メートルの暗がりから運び出されたものだと考えると、数字に重さが出てくる。誰かがロウソクの火で酸素を確かめながら穴に下り、白い茎を一本ずつ地上へ連れ出している。
立川市は平成18年度、市の特産品を広めるための事業で、「立川こまち」という短めのうどをブランド化した。東京うどを短い規格にしたもので、持ち運びに便利で、求めやすくなっていると市は書く。確かに、長いうどを抱えて電車に乗るのは、少し勇気が要りそうだ。網棚に載せれば忘れそうだし、膝に抱えれば隣の人の顔にかかる。実に現実的な工夫である。
東京都の紹介によれば、立川市うど生産組合は、日の光を通しにくく品質を保ちやすい包装袋も独自に開発した。地下で光を避けて育ったうどは、店先に出てからも光を避ける。白さを守る手間は、収穫したあとも続く。
生産組合の顔ぶれも、数字で見える。立川市によれば、立川市うど生産組合は、うどを生産する農業者でつくる団体で、令和6年4月の時点で会員は15名。市内での直売のほか、農業祭では立川産のうどを使った加工品を売り、立川こまちを宣伝している。15軒の農家と15名の会員。一軒一軒の顔が、そのまま組合の名簿になっている。
数字で読む東京うど
- 3 — メートル。うど室の深さ。人の背丈の倍近い穴に、毎冬もぐる人がいる。
- 18〜20 — 度。うど室の中の温度。真冬でも、地下は上着の要らない陽気である。
- 1 — か月ほど。伏せ込んだ根株から伸びた芽が、出荷できる長さになるまで。地下の成長は早い。
- 52 — トン。令和4年産の立川の収穫量。都内のうどの約3分の1が立川産になる。
- 15 — 軒。いま立川でうどを育てる農家。最盛期は80軒以上あった。
- 32 — 点。令和6年度の立川市うど品評会の出品数。うち5点は、短い立川こまち。
旅人の寄り道クイズ
立川市が平成18年度にブランド化した「立川こまち」は、東京うどの何を変えたものだろう。(A)色(B)長さ(C)産地。答えは最後に明かす。
数字の話はここまでにして、そろそろ台所に入ろう。地下で守られてきた白さは、包丁を入れたとたんに試される。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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