立川駅周辺はこれからどう変わるのか。市が「ベッドタウン化の恐れ」と書いて策定に乗り出した未来ビジョン、ファーレ立川一帯で共同住宅を建てさせない地区計画の原案、未完成の空中デッキ、48年がかりだった南口の区画整理、中央線のグリーン車と南武線の高架化まで、立川駅のまちづくりの今と未来を公式資料でたどる。
多摩でいちばん乗る人の多い駅の街が、自分の未来を心配している。
立川市のホームページに、2026年9月に更新された一枚の頁がある。題は「立川駅周辺の未来ビジョン(仮称)」。そこには、市の文書としては珍しいほどはっきりした言葉が書かれていた。近年は、商業地域の便利さや容積率の高さを生かして、土地が共同住宅に変わる例が増えている。このままでは拠点としての働きを失い、区部中心部のベッドタウン化が進む恐れがある、と。
JR東日本の2024年度の数字で、立川駅の1日平均の乗車人員は15万4,091人。多摩の駅で、これより多い駅はない。東京都の令和2年国勢調査の報告では、立川市の昼夜間人口比率は115.4で、都の市部でいちばん高い。昼になると人が集まってくる、多摩の中心の街だ。その街が、なぜ「ベッドタウンになるかもしれない」と書くのか。
その問いを抱えて、私は駅の北口のデッキに立ち、市と都と国の資料を順にめくってみることにした。
立川駅周辺のこれから──市が書いた「危機感」と「期待」
立川駅周辺のこれからを知るには、まず市の頁を読むのが早い。結論から言えば、立川駅のまわりは、いま「次の計画を書きはじめた」段階にある。市は、地域と共有できる拠点の将来像と、それを実現する具体的な方策をまとめた「立川駅周辺の未来ビジョン(仮称)」を策定すると決めた。2025年10月23日にシンポジウムを開き、2026年6月24日にワーキンググループの準備会を置き、第1回のワーキンググループは2026年10月28日に立川商工会議所の会議室で開かれる予定だ。
頁の前半は、立川がどうやってここまで来たかを振り返っている。1986年に国が定めた第4次首都圏基本計画で、立川は「業務核都市」になった。2001年に都が定めた都市づくりビジョンでは「核都市」。都心に集まりすぎた業務と商業の機能を分けるために、国と都が立川を選び、育ててきた。2017年の都の「都市づくりのグランドデザイン」でも、立川駅周辺は業務・商業・産業の機能が集まる中核的な拠点とされ、多摩イノベーション交流ゾーンの一翼を担う地域とされている。
そのうえで、市は二つのことを書く。一つは、基地の跡地という広い未利用地を使ったまちづくりが一段落したこと。もう一つが、冒頭の危機感である。土地がマンションに変わっていけば、駅前は便利な住宅地になる。住む人にとっては悪くない話だが、多摩の拠点としては、昼に人が集まる理由が少しずつ痩せていく。
市はさらに、時代そのものが変わったとも書く。人口が増える時代の量の拡大ではなく、心の豊かさや暮らしの質を重んじる成熟社会へ移った。脱炭素や暑さへの対策といった気候変動への備え、人を中心にした豊かな都市の暮らしが求められている、と。ビルを建てれば人が来る時代の計画では、もう足りないということだろう。
危機感の隣には、期待も書かれている。首都圏全体を見渡せば、立川は、東京駅や羽田空港といった国を代表する交通の結節点と、富士山、高尾山、奥多摩方面の豊かな自然や観光地との、ちょうど中間点にある。その位置を生かした「ゲートウェイ機能」を取り入れ、立川駅周辺に関わる人々の幸福を追求することで、拠点づくりの「新しい正解」を見出せるのではないか、と。役所の文書で「新しい正解」という言葉に出会うとは思わなかった。少し照れくさいが、悪くない言葉だ。
では、いま心配されている駅前は、そもそも誰がどんな夢を描いてつくったものなのか。答えは、昭和の終わりの一枚の計画にあった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
昭和に描かれた「多摩の心」の青写真
立川駅北口の土地区画整理事業の記録誌は、事業の背景をこう書きはじめる。1976年11月、立川市は国の第三次首都圏基本計画で「核都市」に位置づけられた。その翌年の11月、北口駅前に近い北西部にあった米軍立川基地、約570ヘクタールが全面返還された。1979年には、返された土地を国営公園と広域防災基地、そして市街地の整備にあてることが決まった。市の別の資料によれば、このとき国の審議会が決めた処理の大綱は、立川飛行場の跡地約460ヘクタールを、地元の自治体が使う地区219ヘクタール、国や政府関係機関が使う地区約130ヘクタール、そして当面は使い道を決めずにおく「留保地」約111ヘクタールに分けた。とりあえず決めないでおく、という区分が公式にあるのが面白い。その留保地も、2003年に「原則留保」から「原則利用、計画的有効活用」へ方針が大きく変わり、駅の北の土地は少しずつ街になっていった。市が「未利用地の開発も一段落」と書くのは、この長い物語の終わりのことだ。
これを受けて東京都は、1982年10月に「多摩都心立川(T・T・T)計画」を発表した、と記録誌は書く。多摩都心。T・T・T。昭和の行政は、ときどき驚くほど景気のいい名前をつける。市も同じ年に「立川都市基盤整備計画」をつくり、1984年に立川駅北口と基地跡地の地区の実施計画を発表した。
あのころの北口駅前を、市は写真で残している。白黒の写真のなかで、駅前広場は地面の上にあり、バスと乗用車が広場をぐるりと回っている。人は横断歩道を渡って広場を横切る。いまのように、二階の高さを歩いて店から店へ移る人の姿は、まだない。
記録誌は、区画整理の前の北口の様子も書き残している。区域のほぼ真ん中を東西に走る緑川通りの南側は、市街化の進んだ中心の商業地だった。駅前広場に面した側には大きな商業施設が建ち、その裏手には小さな飲食店が密集していた。表通りに大きなビル、裏通りに小さな店。いまも立川の北口を歩くと、その二重の構えはどこかに残っている。一方、緑川通りの北側には、国立立川病院の看護婦寮などのほかに基地から返された国有地があり、市街化が抑えられてきた。駅から歩いて数分の場所に、まだ街になりきらない土地が広がっていたのである。
北口の駅前は、1989年7月に区画整理の都市計画が決まり、1990年1月に事業が認可された。施行したのは立川市で、区域は約5.7ヘクタール。記録誌によれば、モノレールの計画が地区を南北に縦断することもあって、この地区は、業務核都市と多摩の心をつくるための「要の地区」とされた。土地を出しあって道と広場をつくる区画整理で、区域全体の平均の減歩率は約34%。換地処分の公告は2004年11月1日で、事業の期間は2009年3月までに及んだ。
南口は、もっと長い。立川駅南口の土地区画整理事業は、1964年8月に都市計画が決まり、1966年2月に事業が認可された。区域は約28.2ヘクタール。換地処分の公告の日は、2014年10月1日である。認可から48年。事業が始まった年に生まれた子どもが、48歳になってようやく終わった。
市が残す1990年の南口の写真では、駅前から南へまっすぐ延びる細い通りの両側に、低い屋根が肩を寄せあっている。2005年の写真では、同じ通りの真上をモノレールの軌道が渡り、駅前にはデッキが架かり、高いビルが並んでいる。15年で景色はここまで変わる。それでも書類の上で事業が閉じるまでには、さらに9年かかった。
駅前の景色は、こうして半世紀がかりでつくられてきた。そしていま、その駅前の一角で、新しい線が引かれようとしている。
マンションを建てさせない6.7ヘクタール
2026年9月29日、立川市は「ファーレ立川関連地区地区計画」の都市計画の原案を縦覧にかけた。縦覧は10月13日まで、意見書は10月20日まで受け付ける。

写真: RuinDig/Yuki Uchida / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
対象は、立川駅の北約200メートル、曙町二丁目の約6.7ヘクタール。基地跡地の関連地区の再開発で、業務と商業の施設が一体に整えられた街区、つまりパブリックアートの街として知られるファーレ立川と、その隣の街区である。原案の理由書は、この地区がサンサンロードの供用開始のあと「立川駅北口の顔」に育ったと書き、これまで集まった都市の機能を維持し、守ることで、中核的な拠点にふさわしい街を形づくる、と目的を述べる。
中身を読むと、目的の意味がはっきりする。地区を、サンサンロード沿道地区、ファーレ中央地区、東大通りと緑川通りの沿道地区の三つに分け、そのすべてで、一戸建ての住宅、長屋、店舗や事務所を兼ねる住宅、共同住宅・寄宿舎・下宿などを建ててはならない、と定める。決定の時点ですでにある建物には、床面積を増やさない範囲で例外がある。ほかに、道路の境界から建物の壁面を3メートル、または1メートル下げることも決める。
つまり、駅から200メートルの一等地に、マンションを建てさせない。冒頭の「ベッドタウン化の恐れ」に対する、市の具体的な答えの一つがこれだ。都市計画マスタープランも、立川駅周辺について、業務・商業機能の立地を阻害しないよう住宅の立地や規模を誘導すると書いている。
市の都市計画マスタープランは、2026年3月に改定されたばかりだ。その拠点別の方針で、立川駅周辺の主な取り組みとして並ぶのは、駅周辺の適切な土地利用の誘導に向けた検討、立川駅北口東側地区のまちづくり、エリアマネジメントの推進、駅周辺の都市計画道路と街区の幹線道路の整備、そして道路の無電柱化である。南口については、南口大通り線の沿道で、市の景観計画や地区計画の制度を使って良好な街並みを守り、つくると書く。北口では機能を守る線を引き、南口では街並みを守る線を引く。駅の両側で、守るものが少しずつ違う。
これはまだ原案である。縦覧と意見書の手続き、都市計画審議会などを経て、はじめて決まる。それでも、この6.7ヘクタールは、多摩の中心で「住む」より「集まる」を選ぼうとする街の意思表示に見える。住みたい人には少しつれない話だが、駅前の一等地くらいは、昼に人が集まる場所として取っておきたい。そういうことなのだろう。
数字で読む立川駅周辺のこれから
- 15万4,091人──2024年度の立川駅の1日平均の乗車人員(JR東日本)。多摩の駅でいちばん多い。
- 115.4──令和2年国勢調査の立川市の昼夜間人口比率。都の市部で一位。昼の立川は、夜の立川より15%ほど人が多い。
- 6.7ヘクタール──共同住宅などを建てさせない地区計画の原案の面積。東京ドームのおよそ1.4個分(私の計算)。そこに住める人の数は、原案どおりなら増えない。
- 48年──南口の区画整理の、事業認可から換地処分までの年月。気の長い仕事を称える賞があれば、立川駅南口は有力候補になる。
- 約34%──北口の区画整理の平均の減歩率。地主たちは、土地の3分の1ほどを出しあって、いまの駅前広場と道をつくった。
- 155人──2025年10月の立川駅周辺エリアまちづくりシンポジウムの参加者。平日の夜7時から9時の会だった。
旅人の寄り道クイズ
立川駅南口の土地区画整理事業は、事業の認可から、事業を締めくくる換地処分の公告まで、何年かかったか。
(A)8年 (B)28年 (C)48年
答えは、記事の終わり近くで明かす。
地上の駅前は、半世紀をかけて組み替えられた。では、その上に張りめぐらされた空中の歩道は、もう完成しているのだろうか。市の資料を読むと、意外な答えが返ってくる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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