立川の散歩なら根川緑道から多摩川へ。立川駅南口から約15分、昭和47年に埋め立てられた根川の上につくられた緑道の水はどこから来るのか、市名の「川」は多摩川なのかを、桜堤、詩歌の道、根川貝殻坂橋、日野の渡し、花火の始まり、冬の富士を望む河川敷まで歩いてたどる。
立つ川、と書いて、立川と読む。その川がどの川なのか、立川市は「分からない」と公式に書いている。
そもそも、立川という地名を聞いて水を思い浮かべる人は少ない。駅前の大きな商業ビル、モノレール、昭和記念公園の芝生。この街の顔は、どちらかといえば乾いている。
だが地図を南へずらしていくと、街は段丘の崖でいったん途切れ、その下に細い緑の帯が現れる。さらに南へ下ると、多摩川の広い河川敷にぶつかる。立川市の公式資料は、市域の南側を多摩川が流れ、多摩川の段丘崖に緑の多い傾斜地があるほかは、地形はおおむね平坦だと書いている。平らな台地の街が、南の端でだけ、水に向かって段を降りていく。
私が歩いてみたかったのは、その段の下である。根川緑道。かつて川だった場所に、いまは緑道があり、その緑道には水が流れている。川が埋められたのなら、いま流れているこの水は、いったいどこから来ているのか。
そしてもうひとつが、冒頭の名前の件である。この街の名前には、最初から川が入っている。それなのに、どの川なのかを誰も言えない。
立川市の公式サイトは、市名の由来についてあっさり白状している。市教育委員会の『立川の地名』には、いくつもの説が紹介されている。国府の前を東西に流れる多摩川を「日の経(たて)の川」と呼んだという、たてかわ説。多摩川の早い瀬に由来する、湍川(たぎちかわ)説。普済寺に館(たち)があったという館川説。立川氏が住んでいたからという立川氏説。そして市は、こう書き添える。いずれの説も確証に欠け、正しいことは分かっていない。
自分の名前の由来を、自分で「分からない」と言い切る市である。私はこの潔さが嫌いではない。ならば、歩いて確かめるしかない。水の出どころと、名前の中の川。二つの問いを抱えて、私は駅の南口を出る。
立川駅南口から、根川緑道の入口へ(立川の散歩の起点)
根川緑道へは、JR立川駅の南口から歩いて約15分。多摩モノレールの柴崎体育館駅からなら、降りて約1分だと市は案内している。

写真: 根川孝太郎 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
緑道は、立川公園という広い公園の背骨にあたる。立川公園は柴崎町と錦町にまたがる広域の総合公園で、延長約1.3kmの根川緑道を軸に、周りに体育館や野球場、陸上競技場が点在する。公園という言葉から想像する、柵で囲まれた四角い敷地ではない。細長く、街の縁に沿って伸びる、水の通り道だ。
緑道の最上流部は、残堀川が奥多摩バイパスにぶつかるあたりから始まる、と市のページは書く。そこから下流へ、親水階段のある池、水辺に張り出した四阿、子どもが安心して遊べる水の広場が続く。緑道は平成4年度から平成8年度にかけて整備され、全体が4つのゾーンに分けられ、それぞれのテーマで水と緑の景観がつくられた。
その一方で、崖線から流れ込む湧水や、古木になったソメイヨシノの並木は、そのまま保全された。新しくつくったものと、残したもの。その二つが、細い緑道の中で並んでいる。どれが新しく、どれが古いのか。それを見分けながら歩くのが、この道のいちばんの楽しみ方だ。地図を読むのが得意でない私には、もうひとつありがたいことがある。川に沿った一本道は、迷いようがない。水が黙って先を歩いてくれる。
柴崎市民体育館の北には、平成29年4月に「ガニガラ広場」が開園した。立川崖線の緑と湧水、柴崎用水路を生かした広場だ。昔、この辺りには蟹がたくさんいたので「がにがら」と呼ばれていた。それが広場の愛称になった。いまはもう蟹はいない、と市はあっさり書いている。名前だけが、生き物より長く残った。
散歩好きの人がこの緑道を歩いて書いたレポートには、整備された水路を見て「今では自然の川にしか見えない」という一文がある。そう見えるように、30年をかけてつくり込まれてきたのだ。では、その自然に見える川は、もとはどんな川だったのか。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
根川という川の来歴
根川とは、どういう川だったのか。立川市の散歩コースの案内が、その来歴を短く、しかし正確に語っている。
根川は、もともと段丘の下の湧き水を集めて流れる川だった。上流には拝島からの九ヶ村用水が流れ込み、下流は青柳で府中用水に入り、立川でも農業用水として使われた。崖の下からにじみ出た水が集まり、田を潤して、また別の用水へ渡されていく。根の川、という名前の響きが、その性格によく似合う。
転機は明治にやって来る。それまで砂川一番の付近で玉川上水に合流させていた残堀川が汚れてきたため、明治41年(1908)頃、新しく堀を掘って、富士見町の「滝の下」で根川に合流させた。湧き水の川に、別の川が流し込まれたのである。
大正時代になると、青年たちが根川の土手に植えた桜がみごとに咲くようになり、人々がボートを浮かべて、のどかな川辺の一日を楽しむようになった、と市は書く。湧き水の小さな川が、桜の名所に育ったわけだ。あのころの花見客は、桜を川の上から見上げていた。いまの緑道で水に親しむのは、水の広場で遊ぶ子どもたちである。ボートの櫂の代わりに、小さな手が水をすくう。
だが昭和47年(1972)、洪水対策として、残堀川は柴崎町4丁目で南東に曲げられ、直接多摩川に入れられた。そのため、下流の根川は埋め立てられた。
なぜ埋めたのか。市の案内はそこを詳しく語らず、ただ「このため」とだけ書く。川の命は、上流から流れ込む水の量で決まる。残堀川の水が多摩川へ直行するようになれば、下流の根川は川でいられなくなる。その事情が、この短い接続詞に畳み込まれている。大正の青年が桜を植えた川は、昭和47年、静かに土の下へ入った。
話はそこで終わらなかった。せせらぎを残したいという人々の願いによって、平成9年(1997)、「アクアパークモデル事業」として、かつての根川の上に新しく緑道と、自然に近い水路1.4kmがつくられた。市の散歩コースの案内は、その水路に毎分1.7トンの下水処理水を流し、魚や虫、鳥も暮らすようになったと書いている。
埋められた川の上に、もう一度、川をつくる。湧き水ではなく、街の暮らしから出た水を、きれいにして流す。失ったものを、そのままの形では取り戻せない。だから別の形で取り戻す。立川という街のその手つきは、どこか実際的で、潔い。
ところが、その水の出どころも、また変わった。市の公園緑地課によれば、根川緑道のせせらぎの水は下水道の流域編入事業によって供給が止まるため、令和5年4月から10月末にかけて、霧の広場の周辺で、水を循環式に切り替える水質浄化施設の工事が行われた。湧き水から残堀川の水へ、下水処理水へ、そして同じ水をめぐらせる仕組みへ。この細い川は、百年あまりのあいだに、水の素性を三度も四度も変えてきたことになる。それでも水面は、いつも同じように光っている。
これで、ひとつめの問いには半分答えが出た。いま緑道を流れる水は、湧き水でも残堀川の水でもなく、同じ水を浄化しながらめぐらせたものだ。だが、もとの湧き水はどこへ行ったのか。その手がかりは、桜堤の先、緑道の片側に続く崖にある。
根川のサクラ堤と、詩歌の道
春の根川緑道は、桜の道になる。立川市緑化推進協議会が選んだ「立川市緑の十二景」の2番目が、この「根川のサクラ堤」だ。テーマは「原風景」。見どころは、川面いっぱいに咲くみごとな桜と記されている。
大正の青年たちが植えた桜の、その末裔が、いまも川面に枝を伸ばしている。古木となったソメイヨシノの並木は、緑道の整備のときにも現状のまま残された。春には多くの人でにぎわう、と市は書く。桜の季節にここを訪ねた人の投稿には「過度に期待して行っても後悔しない名所でした」という一文がある。名所というものはたいてい「期待しすぎないで」と注意書きがつく。期待しすぎてよいと太鼓判を押される桜は、珍しい。
10月のいま、桜の葉は色を変え、少しずつ落ちはじめている。春の騒がしさが去ったあとの桜並木は、枝ぶりの骨格がよく見える。百年近い時間を経た幹のうねりは、花の季節よりも、むしろ葉の落ちる季節に目に入る。
緑道を歩くと、ところどころに石碑が立っている。「詩歌の道」である。市の文化財係の案内によれば、詩歌の道は文化環境整備の一環として、根川緑道を中心につくられ、立川にゆかりの深い作家の句碑、歌碑、詩碑が、全長約2.4kmにわたって建てられている。
刻まれた言葉には、多摩川がよく出てくる。若山牧水の歌碑には「多摩川の浅き流れに石なげて あそべば濡るるわが袂かな」。和田山蘭の歌碑は「時雨かと戸を開けて見れば しぐれならず星空さえて 多摩川の音」。高村光太郎の詩碑には、立川の友達から届いた葱をうたった詩が刻まれている。三多摩平野をかけめぐる風の申し子、冬の精鋭、と光太郎は葱を呼んだ。そのうえ「ちきしやう、造形なんて影がうすいぞ」とまで書いている。彫刻家に、自分の仕事が負けたと言わせた葱である。立川の葱は、詩碑に刻まれるほど強かった。
雨の音だと思って戸を開けたら、星空で、聞こえていたのは川の音だった。山蘭の歌を読んで、私はこの辺りの夜の静けさを想像する。川の音が雨と聞き分けられないほど近く、大きく聞こえた時代があったのだ。あのころは、戸を開ければ川の音がした。いま緑道を歩いても、多摩川の音はほとんど届かない。そのあいだに挟まっているのは、百年ぶんの屋根と道路である。
緑道の片側は、立川崖線と呼ばれる段丘の崖である。緑の十二景は、富士見町の東京都農林総合研究センター周辺の立川崖線を3番目に選び、崖線に残る武蔵野の雑木林と、崖線の一部から見られる湧水を見どころに挙げている。根川はもともと、この崖の下の湧き水を集めた川だった。崖と川は、ひとつの地形の表と裏なのだ。
湧き水は、いまも崖のあちこちで見つかる。市の散歩コースが「古村を歩く」の終点近くに置く立川市歴史民俗資料館には、段丘の崖から湧き出る水を集めた池がある。昭和60年(1985)12月1日に開館したこの資料館の土地は、富士見町に住んでいた井上重雄の屋敷の一部で、市の文化財保護審議会の会長だった井上が、資料館を建ててほしいと願って市に寄贈したものだという。400年以上その家が住んできた土地を掘ると、平安時代の集落の跡、台の下遺跡が出てきた。湧き水のそばに人が住むのは、千年前も同じだったのだ。
すぐ近くの東京都農林総合研究センターも、崖の上の古株である。明治33年(1900)に東京府農事試験場として中野町に設立され、大正9年から13年にかけて立川へ移ってきた。緑の十二景が立川崖線の見どころに選んだのは、この研究センターの周りの崖である。
崖を水が登ることもあった。江戸時代の元文2年(1737)、玉川上水の松中橋付近から柴崎分水が引かれた。台地の上の柴崎村では飲み水に、台地の下では田の水に、さらに延べ11台の水車にも使われた。富士見町2丁目の交差点で、本流と支流が7対3の割合に分けられる。支流はもとからあった家々に水を配るため、土地のわずかな高低差を読んで、北から南へ、ところによっては逆に南から北へと流れた。いまも支流が開いた水路で流れ、玉石積みの法面の景観が残る箇所は市の史跡として守られている。平坦だと言われる台地の上で、江戸の人はわずかな起伏を読み、水に道を教えていたのだ。
崖には、忘れてはならない記憶もある。市の散歩コースによれば、山中坂には段丘の崖を利用した防空壕があった。もとは市役所の公文書を避難させるために掘られたものが、戦争が激しくなると近所の人々の避難場所になった。昭和20年(1945)4月4日の未明、そこへ爆弾が命中し、避難していた42人が亡くなった。うち32人は子どもだった。いま山中坂には、その人々を弔う地蔵堂がある。崖は水を生み、人を守ろうとし、守りきれなかった。その全部が、この段丘に刻まれている。
崖線の湧き水がつくった川は、根川だけではない。市の散歩コースは、JR西国立駅から歩き出して、根川緑道より先に矢川緑地保全地域へ寄る。錦町5丁目の市立第七小学校の西に、かつて「井戸端」と呼ばれた、湧き水がたくさん出る場所があった。そこが矢川の源流だったという。昭和初期の耕地整理で、矢川には今も見られる玉石の護岸がつくられた。やがて都市化が進むと井戸端からの水脈は断たれ、水源は羽衣町3丁目の矢川弁財天の付近へ移った。それでも水源の近くの流れはいまもきれいで、植物も昆虫も豊かだと市は書く。東京都はこの流域を矢川緑地保全地域として整え、市街化の波間に残された自然として守っている。
水脈が断たれれば、湧き水は別の場所から出る。根川が埋められ、別の水で生き返ったように、矢川は水源の位置を変えて生き延びた。崖の下の水は、人の都合に合わせて姿を変えながら、それでも消えずにいる。
同じ散歩コースには、柴崎町4丁目の沢稲荷という小さな稲荷社も入っている。「沢」はこの辺りの古い地名で、住宅にはさまれた細い路地の先、小高い塚の上に祀られている。長いあいだ水田の神様として信仰を集め、いまも2月の初午の日には、近所の人たちが五色の幟を立ててお供えを上げるという。塚はその形から、6〜7世紀頃の円墳ではないかと考えられている。水田の神が、千数百年前の墓かもしれない塚の上にいる。稲荷の神にしては、ずいぶん由緒のある台座に座っていることになる。水と田と祈りが、ひとつの小さな高みに重なっている。
緑道からそう遠くない柴崎町には、古い立川がある。弘仁2年(811)に信州の諏訪大社から勧請されたと伝わる諏訪神社。南北朝時代の文和2年(1353)、この地の武士団・立川氏が一族の菩提寺として開いた普済寺。市の散歩コースは、こうした寺社のある一帯を旧柴崎村の中心として紹介し、市のウォーキングマップも根川緑道と普済寺を同じコースに入れている。崖の上に暮らしがあり、崖の下に田があった。根川緑道を歩くことは、その古い村の足元を歩くことでもある。
旅人の寄り道クイズ
柴崎市民体育館の北にある「ガニガラ広場」。この愛称の由来は、次のうちどれか。
- A 昔この辺りに蟹がたくさんいて、「がにがら」と呼ばれていた
- B 崖を意味する土地の古い言葉
- C 広場をつくった工事の会社の名前
答えは、記事の終わり近く、「訪ねる前に」の直前で明かす。その前に、緑道の終点まで歩いてしまおう。終点には、吊っていない吊り橋が待っている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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