立川の鉄道さんぽ 200メートル遠回りする「短絡線」と、横田へ燃料を運ぶ列車

立川の鉄道を、電車好きの目で歩く。遠回りなのに「短絡線」と呼ばれる青梅短絡線の正体、砂利と石灰石の貨物線、横田基地へ燃料を運ぶ「米タン」、西国立にあった立川機関区とチョコ電の昭和、電車が見える場所と見学の作法まで、JR・市・国の資料でたどる立川の鉄道ルポ。

立川駅の西の端に、近道という名の回り道がある。

名前は青梅短絡線。中央線の東京方面から来て青梅線へ入る電車の多くが、この線路を通って西立川駅へ向かう。短絡とは、本来なら近道のことだ。ところがオンライン百科事典のウィキペディアには、この線は本線より約200メートル遠回りだと、平然と書いてある。

私は最初、誤植だと思った。近道を名乗る遠回り。人間なら、道に迷った言い訳としてよく使う手口である。

調べていくと、立川の線路には、ほかにも妙なものが走っていた。週に何度か、鶴見の海辺から米軍横田基地へ、ジェット機の燃料を積んだ貨物列車が立川駅を通り抜けていく。駅の南の外れには、かつて蒸気機関車のねぐらがあった。多摩でいちばん人が乗り降りする駅は、通勤客の知らないところで、ずいぶん忙しい二重生活を送っている。

なぜ短絡線は遠回りなのか。その答えは、もう地図から消えた一本の鉄道の中にあった。

青梅短絡線とは何か──立川駅の西で、線路は一度こじれる

まず、立川駅の線路の形から見ておきたい。

青梅短絡線の単線の線路(2009年撮影)。左手の低い位置に別の線路が並び、奥へ曲がっていく。
青梅短絡線の単線の線路(2009年撮影)。左手の低い位置に別の線路が並び、奥へ曲がっていく。
写真: Osekkai at Japanese Wikipedia / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

鉄道の百科事典によれば、立川駅は島式のホームが4面、線路が8本あり、そのほかに貨物線や留置線、引上線が4本ある。JRの中央線、青梅線、南武線の3路線が乗り入れ、中央線のホームは2面4線。南武線の7・8番線は6両編成の分しか長さがなく、中央線へは出入りできない。同じ駅にありながら、南武線のホームだけ、少し離れた島に住んでいる。

この駅から青梅線へ向かう電車は、1・2番線と4〜6番線から出る。同じ項の説明では、4〜6番線を出た電車は、西立川駅の手前まで青梅線の本線とは別の「青梅短絡線」を通る。単線で、ここを上り方向に走る定期の旅客列車は無い。そして例の一文が続く。約200メートルの遠回りとなる。

なぜ、わざわざ遠回りの線路が要るのか。理由は、平面で交わらないためだ。中央線の下り線と南武線の電車が、中央線の線路を横切らずに青梅線へ入れるよう、立川駅から西立川駅まで連絡線が設けられたのだという。踏切で待つのが嫌で歩道橋を渡る人を思い出してほしい。歩く距離は延びるが、誰とも出会い頭にぶつからない。青梅短絡線は、線路の歩道橋なのである。

線路の道筋も書き残されている。立川駅を出るとまもなく中央線から分かれ、南武線の方から延びてくる線路と合流し、土手を登る。右へ曲がって中央線の上をまたぎ、踏切を越えたあたりに、草の生えた空き地のような場所がある。そこはもともと、武蔵上ノ原駅という駅があった場所だという。線路はその先で住宅のすぐ横を走り、残堀川を渡って、青梅線の本線と合わさり西立川駅に着く。

廃駅。私はこの二文字で、ようやく謎の入口に立った。この線路は、最初から青梅線のために敷かれたものではなかったのだ。

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消えた五日市鉄道──短絡線は、もう一本の鉄道の置き土産だった

いま立川と拝島のあいだを走る鉄道は、JR青梅線だけだ。ところが昭和のはじめ、この区間には線路がもう一本あった。五日市鉄道である。

百科事典によれば、五日市鉄道は北多摩郡立川町、いまの立川市と、西多摩の大久野村、いまの日の出町を結んでいた鉄道会社だった。大正の末に拝島から五日市の側で開業し、昭和5年(1930)7月、拝島と立川のあいだを延ばした。この区間では集落ごとに駅を設けたので、駅と駅の間が短かった。立川駅へは、西側で中央本線を乗り越えて、南側の南武鉄道の線路に直結する配線をとった。同じホームの南側を南武鉄道が、北側を五日市鉄道が使った。走ったのはガソリンカーである。

立川市の年表にも、昭和5年の項に「五日市鉄道が立川まで開通」とある。

翌昭和6年(1931)11月には、南武鉄道の貨物用の連絡線として、立川駅と青梅電気鉄道の西立川駅とを結ぶ2.1キロの線路が開業した。こちらは途中まで五日市鉄道と線路を共用していた。武蔵上ノ原駅から西立川駅へ、五日市鉄道の線路から分かれて青梅線へつながる線路である。

なぜ、私鉄どうしがここまで線路をつなぎたがったのか。百科事典の南武線の項に、浅野総一郎という名前が出てくる。セメントの浅野財閥の総帥である。浅野は青梅鉄道を傘下に収め、セメントの原料になる石灰石を、青梅から中央本線、山手線、東海道本線を経て川崎の工場まで運んでいた。川崎と立川を結ぶ南武鉄道を傘下にすれば、すべて自分の系列の路線で運べ、運ぶ距離も大幅に短くなる。五日市鉄道もまた、南武鉄道と立川駅で接続すれば、勝峰山で掘った石灰石を川崎の工場まで国の線を使わずに一貫して運べると考え、大正12年(1923)に許可を申請していた。

立川駅の西のこじれた線路は、石灰石をできるだけ安く海辺へ運びたいという、ひとりの実業家の算盤から生まれたのだ。

時代は戦争へ向かう。昭和15年(1940)、五日市鉄道は南武鉄道に合併し、同社の五日市線となった。昭和19年(1944)4月、南武鉄道と青梅電気鉄道は、石灰石とセメントを運ぶ重要な路線だとして国に買い上げられた。立川市の年表は、この年の項に「青梅、南武、五日市鉄道、日本国有鉄道に買収される」と書く。

そして同じ年の10月、立川と拝島のあいだの旧五日市鉄道の線路は、青梅線と並行するという理由で「不要不急線」として休止になった。事典によれば、外されたレールは福井県の金津駅と芦原駅のあいだに転用された。立川のレールは、海を渡りこそしなかったが、温泉の町まで旅をしたことになる。

ただし、すべてが消えたわけではない。立川駅から武蔵上ノ原駅までの線路は、南武鉄道が敷いた武蔵上ノ原駅から西立川駅までの連絡線とつながったまま、青梅線の渡り線として残された。これが、いまの青梅短絡線である。

謎の半分が解けた。短絡線が遠回りなのは、近道として設計されたのではなく、消えた鉄道の線路をそのまま使い続けているからだ。JRでは一時期「青梅第三線」とも呼ばれていたという。いまは「青梅短絡線」が正式の名前である。名前だけが近道になった。

砂利と石灰石の駅──立川駅は、貨物の乗換駅でもあった

青梅線の来歴をたどると、旅客より先に荷物がいる。

百科事典の青梅線の項は、この線がもともと石灰石を運ぶことを主な目的に建設されたため、かつては貨物列車が主役のダイヤが組まれていた、と書く。そして当時の乗客がこんな句で皮肉ったと紹介している。

「青梅線 ヒトより砂利が 偉く見え」

詠み人は分からない。だが、ホームで待たされながら、目の前を砂利を満載した貨車が悠々と通り過ぎていく光景だけは、ありありと浮かぶ。人間の通勤客が、砂利に道を譲っていた時代があったのだ。

立川駅の年表にも、貨物の跡がいくつも残っている。大正5年(1916)には立川駅と多摩川原駅のあいだに貨物の支線が開業し、昭和21年(1946)に休止されて、実質的に廃止になった。大正9年(1920)には青梅鉄道が、立川駅から上古新田駅までの貨物の支線を開いている。多摩川の河原へ、台地の上の村へ。立川駅は、旅客の乗換駅である前に、荷物の乗換駅だった。

その立川駅で貨物の取り扱いが終わったのは、昭和55年(1980)4月1日である。南武線の西国立駅は昭和26年(1951)に貨物を扱いはじめ、昭和38年(1963)にやめた。青梅線の西立川駅の貨物の扱いは、昭和46年(1971)に終わっている。

青梅線を走った石灰石の列車は、平成10年(1998)8月13日を最後に運転を終えた。奥多摩駅から南武線の浜川崎駅へ向かうこの列車も、青梅短絡線を通っていた。浅野総一郎の算盤から生まれた線路は、彼の石灰石を、昭和が終わったあとまで運び続けたことになる。

では、いま短絡線を走る貨物列車は、何を運んでいるのか。

横田へ向かう燃料列車──立川駅をすり抜ける「米タン」

答えは、ジェット機の燃料である。

青梅線と青梅短絡線の百科事典の項によれば、在日米軍横田基地への航空機燃料を運ぶ専用の貨物列車が、安善駅と拝島駅のあいだを結んでいる。安善駅は横浜市鶴見区、鶴見線の駅だ。列車は鶴見線、南武線の支線、武蔵野線の貨物線、南武線を経て、立川駅から青梅短絡線を通り、青梅線の拝島駅へ向かう。タンク車を連ねたこの列車は、鉄道好きのあいだで「米タン」と呼ばれる。

交通の情報サイトは2020年の記事で、この列車を週2回程度の運行と書き、旅の情報サイトは、水曜と木曜を中心に週2回ほど走ると書いている。百科事典は、平成26年(2014)3月に経路の一部が変わってから運転の頻度が増えた時期もあったと記す。回数は時期によって変わるようだ。確かなのは、多摩でいちばんにぎやかな駅を、太平洋の向こうの空軍へ向かう燃料が、通勤客と同じ線路で通り抜けているということである。

拝島駅に着いたタンク車は、そこで電気機関車からディーゼル機関車に付け替えられる。基地へ続く線路は電化されていない単線だからだ。百科事典の拝島駅の項によれば、この横田基地線はJR貨物が管理し、玉川上水と五日市街道を橋と踏切で渡って、基地の入口のフェンスまで約500メートル、さらに基地の中まで続いている。旅の情報サイトによれば、その始まりは昭和12年(1937)、陸軍が、陸軍航空廠の施設だった熊川燃料倉庫への引込線を敷いたことにあるという。戦前の陸軍の線路を、いま米軍の燃料が走る。そしてその燃料は、必ず立川駅を通っていく。立川と横田は、線路の上でも親戚なのだ。

同じサイトは、取材先の話として、国際情勢が張りつめると運転の回数が増えるため、運行が少ないことは平和の証しとされている、と書いている。私はこの一文を読んで、しばらく画面の前で手を止めた。鉄道好きが見たがる珍しい列車は、走る回数が少ないほど世の中が穏やかだという。こんなに見られないことを喜ばれる列車も珍しい。

燃料の列車には、苦い記憶もある。立川市の年表は、昭和39年(1964)の項に「立川駅構内で無人のタンク車が暴走火災事故起きる」と記す。百科事典はこれを米軍のタンク車が暴走して駅に衝突し、爆発した事故だと書き、焼け跡に第一デパートが建てられたと続けている。立川駅の南口の街並みは、一度、燃料の火をくぐっているのだ。

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