立川の地形と坂を、市史と国土地理院の標高で歩くルポ。最高地点の西砂町と多摩川べりの錦町で約55メートルの差、東西には坂がなく南北にだけ坂がある理由、立川段丘と青柳段丘、山中坂・馬場坂・貝殻坂、下流のほうが高い玉川上水、そして「立川断層」の崖の正体まで。
立川は平らな街だ、と誰もが言う。私もそう思っていた。駅の北口から昭和記念公園まで歩いても、坂らしい坂には出会わない。自転車の街と呼ばれるのも、そのせいだろう。
ところが、国土地理院の標高データで市内を町ごとに引いてみると、数字は少しも平らではなかった。市の北西の端、西砂町は標高120メートルを超える。多摩川に近い錦町や柴崎町の南の端では、70メートルを切る。立川という街は、北西から南東へ向かって、50メートルあまり傾いている。
もうひとつ、市の歴史を編む人たちが書いた妙な一文に出会った。立川では、東西に動くとき坂をほとんど感じないのに、南北に動くと、ある地点で急に坂が現れる、という。坂に、向きがあるのだ。
平らだと言われる街は、なぜ傾いているのか。そして、なぜ坂は南北にしか無いのか。その答えを探して、立川の足もとを歩いてみることにした。
立川の地形は本当に平らか──西砂町から錦町まで、約55メートルの傾き
まず、数字から始めたい。
立川市の市史編さん担当が出している広報紙『たちかわ物語』は、市内でいちばん標高が高いのは北西部の西砂町で、125メートル、そこから南東に向かってだんだんと低くなっていく、と書いている。地形は、多摩川に沿った低地と、一段高い武蔵野台地の二つからなる、とも。
確かめるために、国土地理院が公開している標高データで、いくつかの町の値を引いてみた。航空レーザーで測った1メートル四方の細かいデータだ。西砂町七丁目は119.6メートル。市役所のある泉町は94メートル。立川駅の南口を出てすぐの柴崎町三丁目は83.4メートル。駅の北口側、曙町二丁目も83.3メートルで、駅の南北はほぼ同じ高さに乗っている。そこから南へ下ると、柴崎町六丁目は70.8メートル、錦町六丁目は73.7メートル。
西砂町の125メートルから、多摩川べりの70メートルまで。差はおよそ55メートルになる。ビルなら18階ぶんほどの高さを、立川の人は毎日、気づかずに上り下りしている。
傾きの角度も出してみる。西砂町から錦町まで、地図の上でまっすぐ測ると7キロあまり。平均すれば、1キロ進んで7〜8メートル下る勾配だ。これがどれほどゆるいか。立川市の文化財の案内によれば、江戸の玉川上水は、羽村から四谷大木戸まで約43キロのあいだに、約92メートルの標高差を下る。1キロで2メートルあまり。つまり立川の土地は、江戸の水道より3倍以上も急に傾いている。江戸の土木技術者が聞いたら、驚くか、うらやむか。どちらだろう。
それでも、この傾きを体で感じる人は少ない。1キロ歩いて7メートル。目で見て坂と分かる傾きではない。ただ、自転車で北へ向かう道のペダルが、南へ下る道より少し重く感じられるとしたら、それは脚のせいだけではないのかもしれない。
この平らさは、立川の運命も決めた。立川市の散歩コースの案内は、大正の終わりに陸軍の飛行場がここに置かれた理由として、首都に近いこと、鉄道が通っていることと並べて、「広大で平坦な土地があること」を挙げている。55メートル傾いていても、滑走路を敷くには十分に平らだった。のちに「空の都」と呼ばれる街の出発点は、この地面の性質にあった。
では、坂はどこにあるのか。地図をもう一度見ると、答えは意外なほど一か所に集まっている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
立川段丘と青柳段丘──多摩川が置いていった、大きな階段
立川の坂のほとんどは、市の南の縁、多摩川に向かって土地が段になって落ちる場所にある。

写真: っ / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
市史の広報紙は、崖線を「低地と台地、あるいは標高の高い段丘と低い段丘とを分ける連続した崖」と説明している。段丘とは、川が長い時間をかけて土地を削り、そのたびに一段ずつ低いところへ流れを移していった跡だ。削り残された平らな面が、階段の踏み板のように並ぶ。
立川の階段には名前がある。埼玉県が公開している土地分類の調査は、青梅を頂点に扇のように広がる立川台地が、立川面、青柳面、拝島面などの河岸段丘からできている、と書く。いちばん広い踏み板が立川面で、立川駅も市役所も昭和記念公園も、この上に乗っている。その南の一段低い踏み板が青柳面。立川面と青柳面を分ける崖が、立川崖線である。
この特集の矢川とはけの記事で書いたとおり、立川崖線は青梅から調布の方まで続く長い崖で、立川のあたりでは15メートルほどの高さがある。同じ調査は、青柳段丘と拝島段丘ができたのは約2万年前、氷期の後半のもっとも寒い時期だったとする。海がいまよりずっと低く、川が深く土地を削った時代だ。立川の坂は、氷河時代の置き土産なのである。
では、踏み板そのものは何でできているのか。国の地震調査の報告書は、立川市の中心部で集めたボーリングの記録から、地表から約2メートルが風に運ばれて積もった火山灰の層、その下に厚さ約10メートルの立川礫層が、ほぼ同じ厚さで続いていると書いている。礫層とは、川が運んできた丸い石と砂の層だ。つまり立川の街は、厚さ10メートルの砂利の板の上に、2メートルの赤土の敷物を敷いて建っている。駅前のビル群も、元をたどれば多摩川の河原の石の上にある。
青柳面には、立川面とは違う顔がある。『たちかわ物語』14号によれば、縄文時代中期の大きなムラの跡、大和田遺跡は、立川面より一段低い青柳面の上にあった。崖の下には湧き水が出る。人は、まず水に近い低い踏み板を選んだのだ。
段の高さは、場所によってずいぶん違う。羽衣町のあたりを歩いた地元の人のブログには、立川面と青柳面の段差が2メートルほどしかない、と書かれている。地理院の標高でも、羽衣町一丁目は81.4メートル、三丁目は77.1メートルで、たしかに差はゆるやかだ。一方、柴崎町や富士見町では、崖ははっきりと高い。同じ一本の崖線が、西では壁になり、東では段差になる。
ちなみに、北の砂川には、もう一本の有名な崖が始まっている。世田谷の成城や二子玉川の緑の崖として知られる国分寺崖線だ。武蔵野市や調布市の資料は、この崖線が立川市から始まると書く。立川は、南の立川崖線と、北東へ延びる国分寺崖線の、二本の崖の始まりを抱えた街でもある。この話は国分寺の記事に詳しく書いたので、ここでは一行にとどめる。
東西には坂がなく、南北にだけ坂がある──立川の坂の名前と由来
ここで、冒頭の妙な一文に戻る。

写真: 根川緑道 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
市史の広報紙は、縄文土器の話の書き出しで、読者にこう問いかけている。日常の生活で道路を東西方向に動くときは坂をほとんど感じないのに、南北方向には、ある地点で比較的大きな高低差、つまり坂があることを感じていますか、と。理由は、多摩川がつくった河岸段丘の崖線が、ほぼ東西に走っているからだ。
坂に向きがあるのは、崖に向きがあるからだった。崖線と平行に歩けば、ずっと同じ踏み板の上にいる。崖線を横切った瞬間だけ、段を上り下りする。だから立川の坂は、ほとんどが南北に延び、新奥多摩街道や根川のあたりで、まとめて現れる。
例外もきちんと書いてある。同じ広報紙は脚注で、若葉町と幸町に住む人は当てはまりません、東の方に国分寺崖線が北西から南東へ走っているので、と断っている。市の歴史を書く人が、町名を挙げて読者に断りを入れている。誠実な脚注である。
その南北の坂には、名前を持つものが少なくない。
いちばん知られているのは、富士見町の山中坂だろう。崖に沿った坂で、太平洋戦争の空襲で多くの人が亡くなった防空壕があった場所だ。その話は空襲の記事に書いたので、ここでは坂の名を挙げるだけにする。
山中坂の近くには、馬場坂がある。立川の地域情報紙の記事によれば、残堀川に架かる馬場坂下橋を渡った先で道が二手に分かれ、右が馬場坂、左が横丁坂だという。同じ紙の別の記事は、立川はおおむね平らで自転車が便利だが、新奥多摩街道から北へ向かうときは坂を上らなければならず、山中坂、馬場坂といろいろあるものの、選択を間違うと上り切れずに押すことになる、と書いている。変速機のない自転車なら、モノレールの下の道を通るのがおすすめで、東へ行くほど坂はゆるやかになる、とも。地元の人の、身をもって知った助言だ。
坂の名は、橋の名前にも残っている。立川市の橋の長寿命化計画には、残堀川に架かる「山中坂下橋」(昭和44年)と「馬場坂下橋」(昭和45年)が並んでいる。坂の下にある橋だから、坂下橋。名づけた人の迷いのなさが、少しうらやましい。
東の端には、貝殻坂がある。根川緑道の終点に架かる根川貝殻坂橋は、市の散歩コースの案内によれば、近くにある貝殻坂から名づけられた。坂の名の由来そのものは、確かめられる資料に行き当たらなかった。
坂の名前は、もっと古い地名の層にも潜んでいる。2号の『たちかわ物語』は、教育委員会が昭和63年にまとめた『立川の地名』をもとに、江戸時代の柴崎村の地名を地図に落としている。そこには「坂上」「坂下」「井戸坂」「まま下」「はけ」「滝の上」「滝の下」「滝坪」「台の下」といった名前が並ぶ。「まま」も「はけ」も、崖を指す古い言葉だ。「滝」の字が多いのは、崖から水が落ちていた名残だろう。立川の人は、坂ができるより前から、崖と水に名前をつけて暮らしていた。
数字で読む立川の坂
- 125 — 市内でいちばん高い西砂町の標高(メートル)。富士山のちょうど30分の1ほど。登頂の実感は、ない。
- 55 — 西砂町と多摩川べりの低いところの、おおよその標高差(メートル)。ビルなら18階ぶん。毎日少しずつ、上り下りしている。
- 7〜8 — 1キロ進むごとに下る、立川の土地の平均的な勾配(メートル)。江戸の玉川上水の3倍以上。上水より急な街である。
- 10 — 市の中心部の地下にある立川礫層の厚さ(約メートル)。駅前のビルは、多摩川の昔の河原の石に乗っている。
- 2万 — 青柳段丘ができたころ(年前)。坂の歴史は、街の歴史よりだいぶ長い。
- 4.5 — 市の中心部に残る、西側が低い崖の高さ(約メートル)。誰がつくったのかは、まだ決まっていない。
旅人の寄り道クイズ
立川市の資料によれば、市内の道を歩いて坂をほとんど感じないのは、どの向きに動くときか。
(A)東西に動くとき (B)南北に動くとき (C)どの向きでも同じ
答えは、この記事の終わり近くで。
最後の数字、4.5メートルの崖の話は、この先で書く。その前に、川が坂を上るという、もっと不思議な場所に寄っていきたい。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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