立川から多摩川を渡って歩く日野散歩のルポ。立川の岸に「日野の渡し」の碑が立つ理由、都内でただ一つ残る本陣建物の日野宿本陣、土方歳三の生家と石田散薬、重要文化財として日本一大きい不動明王像と「立川河原」の記憶が残る高幡不動尊、昭和の団地と動物園まで、新選組のふるさと日野を公式資料でたどる。
立川市錦町の下水処理場の角に、小さな記念碑がある。刻まれているのは「日野の渡し」。立川市の散歩コースの案内によれば、建てたのは立川観光協会を中心とした人々で、昭和61年(1986)10月のことだという。
妙な話だ、と私は思った。ここは立川である。碑が立っているのも立川の岸だ。なぜ、隣の町の名前を冠した渡し場を、立川の人がわざわざ記念したのか。自分の家の玄関に、隣家の表札を掛けるようなものではないか。
そしてもう一つ。多摩川の向こう岸は、新選組の副長、土方歳三が生まれた土地である。京都で名を轟かせた剣客の集団が、なぜ多摩の農村から出てきたのか。立川から橋を一本渡れば、その答えが転がっているかもしれない。そう思って、私は川を渡ることにした。
立川から日野散歩へ、多摩川を渡る二本の橋
立川から日野へ歩いて渡るなら、橋は二本ある。
一本は日野橋だ。立川市の案内によれば、アメリカの会社で長く働いた経験を持つ増田淳が、自動車が多く通ることを見込んで鉄の桁橋として設計し、大正15年(1926)に完成した。東京都の建設局の広報は、同じ年の8月に竣工したと書いている。90年あまり、甲州街道の車を通してきた古い橋は、いま架け替えの工事が進んでいる。
もう一本は立日橋である。読みは「たっぴばし」。立川と日野の頭文字をつないだ、実に役所らしい名前だ。東京都の広報によれば平成元年(1989)に開通し、橋の上空を多摩都市モノレールが走る。道路とモノレールが一つの橋を分け合っている。
二本の橋の間で、多摩川は広い河原を抱えてゆったりと流れる。河口から数えて40キロほど。立川の川沿いの標識が示すとおり、ここはもう海から遠い。風の強い日には、川面に白い筋が立つ。
日野橋を渡りきると、そこは日野市日野。甲州道中の宿場、日野宿のあった土地だ。だが、私が最初に気になったのは、橋ができる前のことだった。大正の終わりまで、人はどうやってこの川を渡っていたのか。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
日野の渡し、立川の岸に立つ「日野」の碑
答えは渡し船である。

写真: MosaMint / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
立川市の散歩コースの案内はこう書く。日野橋を通る都道256号線は、かつては国道20号線の一部で、もとは新宿と甲府を結ぶ旧甲州街道、五街道の一つだった。道は柴崎体育館の東側を通り、錦町の下水処理場の南西で多摩川に出た。大正時代までここには橋がなく、冬の渇水期は仮の橋を架け、夏の増水期は渡し船を使った。この渡し場が「日野の渡し」である。
日野の郷土資料をもとにした百科事典の記述は、もう少し詳しい。江戸時代の初め、甲州街道は多摩川の低地を通り、いまの日野市万願寺のあたりで川を渡っていた。だが川の氾濫で街道が分断されたため、道は河岸段丘の上へ移された。それに合わせて貞享元年(1684)、それまで対岸の柴崎村、つまりいまの立川市へ農作業に通うために使われていた渡しが、甲州街道の正式な渡しと定められたという。
謎の半分が、ここで解ける。渡しの名前が「日野」なのは、経営していたのが日野宿だったからだ。渡しは有料で、渡し賃は宿場の収入にもなった。冬の渇水期には土橋、3月から10月までは船。文政7年(1824)からは一年中、船で渡すようになったと伝わる。
日野の側から見れば、この渡しは宿場の大事な稼ぎ口だった。立川の側から見れば、江戸へ、甲府へと続く大通りの、こちら側の岸だった。柴崎村の人が対岸の田畑へ通うための小さな渡しが、そのまま国の大動脈の一部に格上げされたのである。玄関先の勝手口が、ある日いきなり正門になったようなものだ。
明治22年(1889)に甲武鉄道、いまの中央線が開通すると、渡しの通行は減りはじめた。大正に入って自動車が走るようになると、橋のないことが問題になる。馬を運ぶ船を2艘並べ、その上に横長の板を敷き並べて、自動車を載せて対岸へ運んだ、と伝えられている。船の上で傾く自動車を、川の真ん中で誰かが押さえていたはずだ。好きでやった芸当ではあるまい。
大正15年、日野橋の開通とともに、渡しは役目を終えた。江戸の初めから数えて、270年あまりの歴史だったという。
そして碑の話に戻る。立川市の案内によれば、渡しが廃止され、日野橋が完成してからちょうど60年たった昭和61年に、立川観光協会を中心とした人々が、渡し場の近く、下水処理場の敷地の角に記念碑を建てた。
渡しは日野のものだった。だが、渡し場のこちら側の岸は立川にあった。対岸の名を背負った船を、立川の人々は270年あまり、毎日のように使ってきたのである。隣家の表札だと思ったものは、実は両家で共有していた門の名札だった。
この橋のたもとは、立川の夏の記憶の場所でもある。立川まつり国営昭和記念公園花火大会の主催者は、その始まりを、昭和29年(1954)に日野橋のほとりの多摩川の河原で開かれた第1回の立川納涼花火大会だと記している。昭和39年(1964)には、東京オリンピックの自転車競技が甲州街道を通ることになり、交通量の増加もあって、橋の幅を7.3メートルから10.5メートルへ広げる改修が昭和40年代にかけて行われたという。
あのころ、日野橋のたもとでは、河原に陣取った人々の頭上で、立川の夏の花火が開いていた。いま、その花火は昭和記念公園の原っぱで上がり、日野橋の隣では仮の橋が車を通している。橋のたもとの詳しい話は、この特集の根川と多摩川の記事にもある。
さて、橋を渡ろう。渡しの客たちが目指した宿場は、坂の上にある。
甲州道中日野宿と日野宿本陣、都内でただ一つ残った本陣
日野宿は、江戸日本橋から約10里、39.3キロの距離にあった。東京都教育委員会が文化財めぐりのために作った冊子にそう書いてある。宿場の周りには稲作の地帯が広がり、経済的に豊かだったという。
宿場町の真ん中、日野本町2丁目に、黒い瓦屋根の大きな屋敷が残っている。日野宿本陣だ。
日野市によれば、日野宿本陣は元治元年(1864)に完成した名主・佐藤彦五郎の屋敷で、都内で唯一現存する本陣建物として、東京都と日野市の文化財に指定されている。本陣とは、大名や幕府の役人など身分の高い人が泊まる宿のことだ。東京都の観光公式サイトは、これを江戸時代の高級旅館と言い換えている。いまで言えば、街道沿いの格式ある旅館ということになる。
ここで私は、ちょっとした食い違いに出くわした。同じ東京都の教育委員会の冊子は、この場所を「日野宿脇本陣跡」と呼んでいるのだ。本陣なのか、脇本陣なのか。脇本陣は、本陣を補う二番手の宿である。屋敷は一つなのに、資料によって看板が二通りある。
調べた範囲では、どちらの名前で呼ぶかの経緯までは確かめきれなかった。だが、少なくとも日野市は、この建物を本陣として守り、都内でただ一つ残った本陣の建物として扱っている。私は、建物のほうが名前よりも長生きしてしまった結果だろう、と勝手に想像している。役目が変わるたびに呼び名が増える。古い家にはよくあることだ。
この屋敷の主、佐藤彦五郎は、日野宿の問屋、つまり宿場の責任者を務め、日野本郷の名主でもあった。都教委の冊子によれば、彦五郎は幕末の治安の悪化の中で天然理心流に入門し、自宅に剣術の道場を開いた。その道場に、江戸の道場から近藤勇や沖田総司らが出稽古に訪れた。後に新選組を結成する剣士たちの交流は、ここから始まったという。
なぜ、宿場の名主が剣術を始めたのか。百科事典の記述は、嘉永2年(1849)正月に日野宿を焼いた大火のさなか、彦五郎が目の前で母親を盗人に斬殺され、武芸の必要を感じたと伝える。火事場の混乱は、宿場の人々に、自分の身は自分で守るほかないことを教えたのだろう。
日野市はこの本陣を、土方歳三、井上源三郎、近藤勇、沖田総司らが出会い、剣術の稽古に励んだ、新選組の原点ともいえる場所だと書く。つまり日野宿本陣は、旅館であり、名主の家であり、そして剣術の道場があった場所でもある。客を泊め、村を治め、若者が竹刀を振るう。ずいぶん忙しい家だ。
築160年を超えた建物は、守るのにも手がかかる。日野市は「日野宿本陣を未来に残すプロジェクト」としてふるさと納税のクラウドファンディングを行い、141人から総額2,609,000円の支援が集まったと報告している。寄付は建造物の調査に使われ、令和6年1月以降に地盤の調査や劣化の診断に着手したという。幕末の若者たちが汗を流した床を、令和の人々が少しずつお金を出し合って支えている。
数字で読む日野
- 39.3 ── 江戸日本橋から日野宿までのキロ数(約10里)。いまなら中央線で、居眠りをしているうちに着く。
- 1864 ── 日野宿本陣が完成した年(元治元年)。池田屋事件と同じ年で、京都が燃えていたころ、日野では家が建っていた。
- 2m85.8cm ── 高幡不動尊の不動明王坐像の像高。座ったままで、たいていのバスケットボール選手より大きい。
- 41 ── 土方歳三の句集『豊玉発句集』に収められた句の数と伝わる。剣だけでなく、句も詠む人だった。
- 270 ── 日野の渡しが続いたとされる年数のおよそ。橋一本に職を奪われるまで、ずいぶん長く働いた。
- 189,583 ── 日野市の人口(令和8年9月1日現在)。立川市の188,093人(同10月1日現在)より、少しだけ多い。
旅人の寄り道クイズ
高幡不動尊の本尊、国の重要文化財の木造不動明王坐像の像高はどれくらいだろう。
(A)約1メートル (B)約2.9メートル (C)約5メートル
答えは記事の終わり近くで明かす。
新選組はなぜ日野から生まれたのか
冒頭の問いに戻ろう。なぜ新選組は、多摩の農村から出てきたのか。
都教委の冊子は、いくつかの理由を挙げている。日野の一帯は幕府領や旗本領で、親幕的な気風があった。八王子千人同心の影響もあって剣術が盛んだった。宿場の周りの稲作地帯は経済的に豊かだった。日野市の新選組のふるさと歴史館も、日野は幕府直轄地で、多摩の穀倉とも呼ばれた豊かな農村であり、剣術も盛んだったと書く。
つまり、こういうことだ。幕府に親しみを持つ土地柄があり、剣を習う習慣があり、それを支えるだけの米とお金があった。剣術の道場は、豊かな村の若者たちの社交場でもあったのだろう。
井上源三郎は、日野宿北原、いまの日野本町の八王子千人同心の家に生まれ、千人同心を継いだ兄の松五郎とともに早くから天然理心流に入門した。都教委の冊子は、井上家と親戚関係にある沖田総司も、日野宿で過ごした時期があったとしている。
文久3年(1863)、近藤勇らは、将軍徳川家茂の上洛を警護するために幕府が組織した浪士組に加わって京都へ上る。都教委の冊子によれば、上洛した当初、近藤たちには会津藩からの手当がなく、その活動は日野宿の佐藤彦五郎や、小野路村(いまの町田市)の小島鹿之助などからの支援によって続けられた。
京都の剣客集団は、多摩の名主たちの仕送りで暮らしていたのである。華々しい池田屋事件の陰に、日野からの為替があった。そう思うと、新選組の印象が少し変わる。都会で一旗揚げようとする息子に、実家が米と金を送り続ける。どこの家にもある話の、ずいぶん大がかりな版だ。
その縁は、手紙の形で残った。都教委の冊子は、新選組にゆかりの書状や遺品の多くが多摩地区に残されている理由を、隊士たちが多摩の支援者に書状を綴り、自分たちの想いや活躍を伝えていたためだと説明している。百科事典には、土方が京都から上田村の親戚に書き送った手紙に「委細は彦五郎さんに聞いてくれ」と書いたものが残る、という話も載っている。詳しいことは義兄に聞け。筆まめなのか、面倒くさがりなのか、判断に迷う一文だ。
慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った近藤たちは、甲陽鎮撫隊として甲府へ向かう。高幡不動尊がまとめた年譜には、その途中、日野の佐藤家で休憩し、日野の農兵「春日隊」を編成して同行した、とある。新選組のふるさと歴史館は、彦五郎が柏尾(勝沼)の戦いで自ら一軍を率い、新選組とともに新政府軍と戦ったことがあると書く。宿場の名主は、最後には自分も街道を西へ歩いたのだ。
幕府に親しい土地、剣を習う村、豊かな田、そして支える名主。日野は新選組の出身地であると同時に、新選組の仕送り元であり、留守宅でもあった。
では、その中心にいた若者は、どんな家に生まれたのか。本陣を出て、浅川のほうへ歩いてみる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
1
2



