石田村、土方歳三の生家と石田散薬
土方歳三は天保6年(1835)、武州多摩郡石田村、いまの日野市石田に生まれた。高幡不動尊の年譜によれば、土方隼人義諄の四男で、父は歳三が生まれる前に亡くなり、次兄の喜六夫妻の手で育てられた。都教委の冊子は、土方家が「大尽」と呼ばれる家だったと書く。大尽、つまり裕福な家だ。

写真: Asanagi / CC0 / Wikimedia Commons
生家の跡には、土方歳三資料館がある。運営しているのは歳三の兄の子孫だ。百科事典の記述によれば、資料館は平成6年(1994)5月11日、歳三の命日に開館した。入口の梁は、建て替えまで残っていた屋敷の大黒柱で、歳三が相撲の稽古で張り手をかましたと伝わる柱でもあるという。庭には、歳三が17、8歳のころに植えたと伝わる矢竹が、いまも茂っている。
資料館は毎日開いているわけではない。開館する日は限られていて、公式のサイトに開館日の暦が出る。訪ねる前に必ず確かめたほうがいい。歳三に会いに行って、閉じた門の前で引き返す。そういう旅人には、なりたくない。
資料館に伝わるものの中に、歳三の句集『豊玉発句集』がある。豊玉は歳三の俳号だ。百科事典によれば41句を収め、その中には「梅の花一輪咲てもうめはうめ」という句もある。梅の花は、一輪咲いても梅は梅。まったくそのとおりである。異論の余地がない。百科事典は、専門家が「ルールがなっていない下手な句」と評した句も含まれると、容赦なく書き添えている。鬼の副長と恐れられた男が、句の世界では採点の厳しい先生に叱られている。私はこの句が少し好きだ。
もう一つ、土方家の名物がある。家伝の薬、石田散薬だ。高幡不動尊の年譜は、歳三が丁稚奉公を経て、家伝の石田散薬を行商するかたわら、義兄・佐藤彦五郎の家の道場で天然理心流の剣を学んだと書く。都教委の冊子も、歳三が石田散薬の販売などをしながら、彦五郎の道場に通って稽古に励んだと伝える。
百科事典の石田散薬の項目は、なかなか読ませる。骨折や打ち身、捻挫、筋肉痛、切り傷に効くとされた薬で、原料は土方家の近くを流れる浅川に生える牛革草、つまりミゾソバ。刈り取りは土用の丑の日に限られた。服用は水ではなく、熱燗の日本酒で飲むことになっていたという。
打ち身の薬を熱燗で飲む。痛みが引くのは薬のおかげか、酒のおかげか。その疑問は昭和に入ってから国の調べに付されたらしい。百科事典によれば、昭和23年(1948)の薬事法改正に伴う許可の申請で、国から「無効無害」という結果が示され、土方家は製造をやめた。宝永年間から約250年続いた薬だったという。
無効無害。害はないが、効きもしない。だが私は、石田散薬の本当の効き目は別のところにあったのではないかと思う。行商で歩き回った若者は、多摩の村々の道場を知り、人を知り、剣の相手を見つけた。薬箱は、剣術修行の通行手形でもあったはずだ。
生家跡から歩いて少しのところに、石田寺がある。真言宗智山派の寺で、墓地には歳三の墓がある。百科事典によれば、寺のまわりには土方姓の家が多いという。表札を見ながら歩けば、なるほどと思うはずだ。高幡不動尊は、この石田寺が自らの末寺の一つだと書いている。
歳三は明治2年(1869)5月11日、箱館の戦いのさなかに流れ弾に倒れた。高幡不動尊の年譜はそう記す。石田村の大尽の末っ子は、多摩川を渡って京都へ上り、そこから会津へ、蝦夷地へと北へ向かい、二度と浅川のほとりには戻らなかった。
その菩提寺が、浅川の向こうの丘の麓にある。高幡不動尊だ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
高幡不動尊、立川河原の戦いと東京最古の御堂
高幡不動尊金剛寺は、古くから関東三大不動の一つに挙げられてきた真言宗智山派の別格本山である。寺の公式の案内によれば、草創は古文書では大宝年間(701)以前とも伝わるが、平安時代の初め、慈覚大師円仁が清和天皇の勅願によって、この地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建てたのが始まりだという。

写真: Nao Kitano from Kanagawa, Japan / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons

写真: tomohisa suna / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
境内に入ると、まず仁王門をくぐる。室町時代の門で、国の重要文化財だ。寺の案内によれば、もとは二階建ての楼門として計画されながら途中で計画が変わり、近年まで外観は一層に見えていた。昭和34年の解体修理で楼門として復原されたという。400年あまりかけて、ようやく最初の設計どおりの姿になった門である。気の長い話だ。
その奥に不動堂がある。建武2年(1335)8月4日の夜の大風で山中の堂が倒れたため、中興の儀海上人が康永元年(1342)に麓へ移して建てた。寺はこれを「東京都最古の文化財建造物」と案内している。東京でいちばん古い文化財の建物が、新宿でも浅草でもなく、日野にある。立川から川を一本越えた先に、だ。
本尊の不動明王坐像は、いまは奥殿に安置されている。寺の案内によれば、像高は2メートル85.8センチ。国の重要文化財に指定されている木造の不動明王坐像としては日本一の大きさで、三尊あわせた総重量は1100キロを超えるという。寺はまた、足利の時代の高幡不動が「汗かき不動」と呼ばれ、鎌倉公方をはじめとする戦国の武将たちの崇敬を集めたと書く。仏像が汗をかく。戦の多い時代には、それだけ心配事も多かったのだろう。
境内の案内図をたどっていくと、一つの墓標の説明に目が留まった。「上杉憲顕の墳」。寺の案内によれば、享徳4年(1455)正月、上杉憲顕は足利成氏の軍と「立川河原」で戦って深手を負い、高幡寺に入って自刃した。その自然石が墓標だという。
立川河原。立川の名が、室町時代の戦の場として、日野の寺の境内に刻まれている。戦の詳しい場所を地図の上で確かめることはできなかったが、少なくとも寺の記憶の中で、立川の河原と高幡の山は一本の線でつながっている。日野橋ができるずっと前から、両岸の土地は、良くも悪くも同じ出来事を共有していた。
そして高幡不動尊は、土方歳三の菩提寺でもある。寺の案内によれば、境内には近藤勇と土方歳三の両雄の碑と、土方歳三の銅像が立ち、大日堂には歳三の位牌と新選組隊士を慰霊する大位牌がある。百科事典によれば、殉節両雄之碑の建立には佐藤彦五郎も関わったという。明治になって「賊軍」の側に立った若者たちを、地元の名主が石に刻んで残した。仕送りは、彼らが死んだあとも続いていたのである。
五重塔は塔高39.8メートル、総高45メートル。寺の案内によれば、満5年の歳月をかけて完成した、平安初期の様式を模した塔だ。6月には境内の奥の山であじさいが咲き、9月には彼岸花が咲く。山内には四国八十八ケ所を模した巡拝路もある。全部を回ると、ちょっとした山歩きになる。石田散薬を熱燗で飲みたくなるくらいには、足にくる。
境内の茶屋には、日野市と八王子市の桑の葉を使ったうどんや茶もあると寺は案内している。桑の葉。かつて日野の台地にも桑畑が広がっていたことを思えば、あながち唐突な名物でもない。
昭和の日野、民家の駅舎と団地と柵のない動物園
日野のもう一つの顔は、昭和にある。
中央線の日野駅は、明治23年(1890)に開業した。百科事典によれば、地元有志の寄付で甲武鉄道の駅として開設されたという。国立公文書館に残る明治22年の公文書の題名は「甲武鉄道会社線路ノ内立川八王子間ニ日野停車場ヲ置ク」。日野駅は、すでに走っていた立川と八王子の間に、あとから割り込む形で置かれた駅だったのである。立川駅の開業から1年足らず。立川の隣の駅は、地元の人がお金を出して呼び寄せた駅だった。
いまの駅舎は昭和12年(1937)の移転のときに建てられた。百科事典は、この地が「多摩の米蔵」と呼ばれた日野の中でも「八丁田圃」と呼ばれる稲作地帯だったため、田園風景との調和を考えて民芸調の入母屋造りの駅舎にしたと伝える。中央線の駅で、農家のような屋根をかぶった駅舎。立川の巨大な駅ビルから一駅で、この落差である。
日野の台地は、かつて桑畑だった。百科事典によれば、昭和10年ごろから大企業の工場の進出が相次ぎ、昭和30年代からは宅地の開発が進んだ。昭和33年(1958)に入居が始まった多摩平団地は、団地の先駆け的な存在だったという。
同じ昭和33年の5月5日、日野の丘陵に東京都多摩動物公園が開園した。東京動物園協会の公式の案内によれば、ここは柵がないことを観覧の基本とした日本で最初の動物園で、開園の日は無料で開放され、推定25万人が訪れた。
その年表が面白い。開園の翌年、昭和34年には「交通の不便と園内整備不足で入園者減少」。同じ年、チンパンジーが缶ジュースのテレビCMに出演して人気を得た。昭和36年には開園3周年を迎え、高幡不動尊まで動物のパレードを行っている。昭和39年(1964)、ライオン園が開園し、世界で初めてのバスによるライオンのサファリ式観覧、ライオンバスが始まった。同じ年に京王の多摩動物公園駅が開通し、年間の入場者は開園以来初めて100万人を超えた。
客が減ると、チンパンジーがテレビに出る。それでも足りなければ、動物たちが寺の参道を歩く。最後は駅ができて、ようやく客が来る。昭和の動物園は、ずいぶん体を張っていた。
あのころの日野には、田んぼの中の民家のような駅があり、桑畑の跡に団地が建ち、丘の上ではライオンの間をバスが走りはじめていた。いまの日野には、その駅舎がまだ残り、団地の跡は新しい街になり、ライオンバスの子孫が同じ丘を走っている。
昭和38年(1963)11月3日、日野町は市制を施行して日野市になった。同じ年、川の向こうでは、砂川町が立川市と合併して、いまの立川市の形ができている。多摩川をはさんだ二つの町は、同じ年に、いまの姿になったのである。
多摩川のこちらと向こう
日野と立川の縁を、もう少し数えてみる。
明治の初め、日野も立川も神奈川県だった。百科事典の日野市の年表は、明治4年(1871)の廃藩置県で日野宿が神奈川県に編入され、明治26年(1893)に三多摩が東京府に移されたと記す。立川も同じ道をたどった。二つの町は、そろって神奈川県から東京へ引っ越してきた同期生である。
人口では、いまや日野のほうがわずかに多い。日野市の発表で189,583人、立川市の発表で188,093人。基準の日付は1か月違うが、差は1,500人ほどだ。立川の人間としては、胸の奥が少しざわつく。だが、日野の人は毎朝、モノレールや中央線で立川へ通ってきてくれる。高幡不動尊の案内によれば、高幡不動駅から立川南駅まではモノレールで4駅、10分だ。
立川から見れば、日野は川向こうの静かな町だった。日野から見れば、立川は渡しの向こうの、毎日行き来する岸だった。日野の渡しの碑が立川の岸に立っているのは、その長い往来に、立川の人々がきちんと礼を言った跡なのだと、私は思う。
新選組の名前しか知らない人にこそ、この川を渡ってほしい。新宿から中央線で来ても、川崎から南武線で来ても、立川で降りれば、日野は橋一本の向こうだ。週末の一日で、渡しの岸から副長の菩提寺まで歩ける。
新選組の若者たちも、この川を何度も渡ったはずだ。江戸の試衛館から日野へ出稽古に来るなら、甲州街道を歩き、柴崎村の岸から日野の渡しに乗るのがいちばんの近道になる。歳三の号の「豊玉」は、豊かな玉川、つまり多摩川の意味だとする説明もある。
もしそうなら、鬼の副長は、自分の名前にこの川を入れていたことになる。立川と日野のあいだを流れる、あの広い川を。
寄り道クイズの答え
答えは(B)約2.9メートル。高幡不動尊の案内によれば、不動明王坐像の像高は2メートル85.8センチ。国の重要文化財に指定されている木造の不動明王坐像としては日本一の大きさで、三尊の総重量は1100キロを超える。いまは奥殿に安置されている。
訪ねる前に
- 行き方(中央線): JR立川駅から中央線で隣の日野駅へ。東京都の観光公式サイトは、日野宿本陣を日野駅から徒歩7分と案内している(日野市日野本町2-15-9)。
- 行き方(モノレール): 立川北駅または立川南駅から多摩都市モノレールで多摩センター方面へ。立日橋で多摩川を渡り、甲州街道駅・万願寺駅・高幡不動駅へ。高幡不動尊は、立川南駅から高幡不動駅までを4駅10分、高幡不動駅から寺までを徒歩5分と案内している。
- 都心・神奈川から: 立川までは、新宿からJR中央線快速で30分台、川崎からはJR南武線で乗り換えなしの約1時間。
- 歩いて渡るなら: 立川駅南口から南へ、柴崎町・錦町を抜けて日野橋か立日橋を渡る。錦町の下水処理場の角に「日野の渡し」の記念碑がある。日野橋は架け替えの工事中で、令和7年5月から仮の橋に切り替わっている。
- 日野市立新選組のふるさと歴史館(日野市神明4丁目16番地の1): 開館は午前9時30分から午後5時まで、月曜休館。日野駅から徒歩15分(途中に長い登り坂)、またはバスで「日野七小入口」下車。「新選組のふるさと歴史館前」というバス停は、開館時間にバスが発着しないと市が注意を出している。日野宿本陣との共通観覧券もある。最新は公式で: https://www.city.hino.lg.jp/shinsenr/1022769/index.html
- 日野宿本陣を未来に残すプロジェクト(日野市): https://www.city.hino.lg.jp/shinsenr/1022776/1024008.html
- 土方歳三資料館(土方歳三の生家跡): 開館日が限られている。必ず公式の開館日の暦で確かめてから: https://www.hijikata-toshizo.jp/
- 高幡不動尊金剛寺(日野市高幡733): 京王線・多摩都市モノレールの高幡不動駅から徒歩5分。奥殿・大日堂は月曜休館。行事は公式で: https://www.takahatafudoson.or.jp/
- 日野市観光協会: https://shinsenhino.com/
- 組み合わせるなら: 行きは立川駅南口から根川緑道を歩いて日野橋へ、帰りは高幡不動駅からモノレールで立川へ。この特集の根川と多摩川の記事、多摩モノレールの記事と合わせると、多摩川の両岸を一日で回れる。
帰り道は、立川駅北口で
日野宿から石田村、高幡の山まで歩くと、足はそれなりに重くなる。巡拝路の坂を上り下りしたあとなら、なおさらだ。
モノレールで立川へ戻ったら、北口から徒歩1分のところにオンザショア立川店がある。住所は立川市曙町2-14-10、エトロワビル3階。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオで、常温のヨガやピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもある。ヨガだけで25種類以上のレッスンがそろう。
営業は8時から23時30分まで、年中無休。高幡不動尊を夕方に出ても間に合う。
はじめての人のヨガの体験レッスンは税込1,980円で、60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。散歩の帰りに、ほとんど手ぶらで寄れる。妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。
料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp から確かめられる。
熱燗で飲む薬の代わりに、温かいスタジオでゆっくり体を伸ばす。日野から立川へ、川を渡って帰ってきた一日の締めくくりとしては、悪くない。
冒頭の写真: 甲州道中日野宿に残る日野宿本陣。都内でただ一つ現存する本陣の建物とされる(写真: Asturio Cantabrio / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons)
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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