国道16号、ベースサイドストリートの1.6キロ
福生市の観光協会は、国道16号沿いの商店街をこう書いている。国道16号線に沿って並ぶ商店街は「ここは日本?」と思えるような異国情緒ゆたかな街並みがつづき。観光協会が自分の街に「ここは日本?」と疑問符を付けている。これも、なかなか見ない。

写真: osekkai / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
同じ観光協会の「横田基地ストーリー」によれば、横田基地前の国道16号沿いの商店街は、南北の総延長が1.6キロ。福生十景にも選ばれている。福生十景は、市制20周年を記念して平成3年1月に、市民の意見を参考に決められた景観地だ。石川酒造の観光案内は、この通りを「ベースサイドストリート(国道16号)」と呼び、アメリカンな雰囲気を味わえる、と書く。
どこから入ればいいか。百科事典によれば、牛浜駅の東側約600メートルの国道16号線沿いに基地があり、この付近にはかつての米軍人向けの米国風貸家「米軍ハウス」やミリタリーショップ、アメリカンフードといった店が並んでいる。福生駅の東口側は、基地の第2ゲート、いわゆるメインゲートの最寄りだという。片側にフェンスと基地の緑、片側に英語の看板。道幅の広い国道を、その境目に沿って南北に歩くのが、この街のいちばん素直な散歩になる。
この16号の道筋そのものにも、基地の歴史が刻まれている。福生市の年表は、昭和48年の関東空軍施設整理統合計画のあと、隣接の国道16号線拡幅による基地一部返還等が行われた、と書く。道を広げるために、基地が少しだけ土地を返した。フェンスがほんの少し後ろへ下がって、そのぶん国道が太った。散歩する人は、かつて基地だった帯の上を歩いていることになる。
関東空軍施設整理統合計画、いわゆる関東計画は、東京都の資料によれば昭和48年1月に日米で合意された、関東平野の米空軍施設を横田に集める計画だ。昭和49年11月には、在日米軍司令部と第5空軍司令部が府中から横田に移った。1969年の発表を出した府中の第5空軍司令部が、5年後には、立川から飛行機を受け取った福生へ自分ごと引っ越してきたことになる。人も機械も司令部も、みな西へ動いた。関東の空の流れは、最後に福生へ行き着いた。
一方、福生市はいまの横田基地を、米軍の輸送中継基地から、日本の防空とミサイル防衛の機能を持つ、日米が共同で使う基地へと態様を変えている、と書く。平成24年3月26日、航空自衛隊の航空総隊司令部などが府中から移り、航空自衛隊横田基地の運用が始まった。ここでも、府中から横田へ。西へ動く流れは、平成になっても続いていた。
フェンスの向こうには、病院、郵便局、消防署、学校、将校クラブ、ゴルフ場、教会、住宅がある、と観光協会は書く。一つの町がまるごと入っている。入るには、基地内に保証人がいてゲートまで迎えに来てもらうこと、身分証を持っていること、そして米国にとって敵性国籍を持っていないこと、の三つの条件が要る。ただし年に何度か、許された範囲で一般に開かれる日がある。日米友好祭、サクラの開放日、基地の中を走るマラソンなど。観光協会は、そういう日には「普段入ることの出来ない基地内で本場のジャズやブルースなどを聴くこともできます」と書いている。
百科事典は、もう一つ、立川の人には少しうれしい事実を書きとめている。春のサクラフェスティバルの入場ゲートである第17イーストゲートの最寄り駅は、西武立川駅の北口だというのだ。西武立川駅は立川市にある。福生の基地の春の入口は、立川の駅から近い。
この通りで、歩く人の目をいちばん引くのは、店の看板でも、フェンスでもないかもしれない。通りの裏手に点々と残る、白い平屋の家々だ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
米軍ハウス、白い平屋はいつ建ったのか
米軍ハウス。観光協会は、庭がある白い平屋の家、と書く。百科事典は、基地の外にある民間経営の賃貸物件でアメリカ人向けの一軒家、と定義する。玄関で靴を脱ぐ習慣がないことを前提にしているので、玄関がなく、ドアを開けるといきなり居間に入る家が多いという。土間で靴を脱ごうとして、脱ぐ場所が見つからず立ちつくす。日本人の住人の最初の一日は、たぶんそういうふうに始まったのだろう。

写真: Suikotei / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
では、いつ建ったのか。ここで資料が割れる。
2019年の経済誌の記事は、米軍ハウスは朝鮮戦争が始まった1950年以降、在日の米軍人と、その家族のための住居として建てられた、と書く。最盛期には1万戸近くあったのが、いま残るのは100から200戸ほどだという。百科事典も、第二次世界大戦の直後に集中して建てられた、と書く。ところが福生市観光協会の「横田基地ストーリー」は、1970年(昭和45年)頃、基地の人員が増え基地の外にも住居の必要性ができ、米軍ハウスと呼ばれる家がたくさん作られた、と書いている。
1950年か、1970年か。20年の差である。私はしばらく、二つの文章を交互に眺めた。手がかりは、どちらの資料も、その後のことを同じように書いている点にある。経済誌は、70年代半ばには大半が空き家となり、日本人の若者たちが住みだした、と書く。百科事典は、1970年ごろから米兵が基地の中の住宅地区に移りはじめ、日本人の若者が好んで住むようになった、と書く。観光協会も、基地の人員縮小にともなって空き家が生まれ、日本人が住み始めた、と書く。空き家になった時期が1970年代なら、建った時期はそれより前と考えるのが自然だろう。東京都の資料にも、昭和48年から53年にかけて基地の中に住宅275戸が建てられた、とある。基地の中に家が建てば、外の家は空く。
ここまでが、資料から言えることだ。観光協会の「1970年頃」が何を指しているのか、私には確かめきれなかった。外に建てる必要が生まれた時期の記憶と、空き家が目立ちはじめた時期の記憶が、どこかで一つに重なったのかもしれない。半分は推測なので、このまま読者に手渡しておく。
空いた家に来たのは、若者たちだった。経済誌の記事で、米軍ハウスを拠点に福生のまちづくりを続けるNPOの人は、こう振り返っている。米軍ハウスは家賃が安かったから、学校や社会をドロップアウトした人やクリエイターが移ってきて、シェアして住んだ。ミュージシャンや小説家、画家も、ここを拠点に活動していて、独自のカルチャーが生まれた、と。百科事典も、そこから多くの有名ミュージシャンや小説家、画家を輩出するという現象が起きた、と書いている。
観光協会のいまの言葉は、明るい。「基地のまち福生を象徴する『福生アメリカンハウス』。米軍家族のために建設されましたが現在、多くの芸術関係の若者が住み独自の文化を発信しています」。カフェや撮影スタジオ、コミュニティ施設としても使われ、記念撮影の場所にもおすすめだという。米軍のための家が、日本の若者の家になり、いまは街の顔になった。家は同じで、住む人の国籍と年齢だけが入れ替わった。
ここでも、立川の名前が出てくる。百科事典は、米軍ハウスがよく知られた場所として、横田基地の近くの福生市、瑞穂町、昭島市の周辺と並べて、立川基地にあった「アメリカンビレッジ」を挙げている。立川にも、かつて同じ白い家の集まりがあった。立川の基地は返され、その土地は公園や役所になった。福生の白い家は、半分以上が消えながら、まだ通りの裏に立っている。
旅人の寄り道クイズ
1940年、多摩飛行場のために青梅線に急いで開かれた牛浜の仮停留場。そこで切符を扱ってもらえたのは、誰だったか。
(A)基地に物を納める地元の商人だけ(B)定期券を持つ軍関係者だけ(C)学生と子どもだけ
答えは、この記事の終わりで。
「ふっさ」と読めない街の、もうひとつの顔
基地の話ばかりしてきたが、福生という名前は、基地よりずっと古い。
福生市の文化財係がまとめた「市の名前の由来」は、読みものとして面白い。江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』は、土地の人は福生を「ふっちゃと唱う」と記しているという。いまも地域の古老たちは「ふっちゃ」「ふっつぁ」と呼ぶ。市史の見解では、室町時代、この辺りは秋川方面の小宮氏の勢力の北の最前線で、「ふっさ」は北から来る敵を「ふさぐ」要の地を意味する呼び方だったのではないか、という。そこに室町時代にはやった福神信仰から、「福」と「生」というめでたい字をあてた。市は、「福生」という字の地名ができたのは15、6世紀ではないか、と書く。
北を塞ぐ土地。その北東に、いま、本土最大の米空軍基地がある。地名が予言した、と言うつもりはない。ただ、守りの最前線という言葉が、500年たっても少し形を変えてこの土地に残っていることは、書きとめておきたい。
「福生」の字が確かに現れる最古の史料は、戦国時代の制札だと市は推定している。永禄4年(1561)、滝山城主の北条氏照が、福生郷で自分の軍勢が乱暴狼藉をはたらくことを禁じた札だ。市の文章は、この制札は村人が大金を投じて氏照に発行してもらったものでしょう、と書く。戦の境目の村は、両軍に年貢を半分ずつ納めたり、敵軍に大金を払ったりして、自分たちの安全を買った。基地の街の来歴をたどってきた目には、大きな力の境目で暮らしを守ろうとする村の姿が、妙に生々しく映る。
そして、この街は、昔からお金の気配がする。平成7年、市内の熊川地区で造園作業をしていたところ、地下約1メートルから5千枚余りの銭貨が見つかった。62種類、最も古いのは西暦621年初鋳の開元通寳、最も新しいのは1461年初鋳の琉球の世高通寳。最も多いのは明の永楽通寳で681枚。庭木を植えようとしたら、室町時代の貯金箱を掘り当てたわけだ。「福」と「生」の字をあてた先人の願いは、少なくとも地面の下では、きちんとかなっていた。
いまの福生の顔は、もう一つある。七夕だ。福生七夕まつりは1951年7月に第1回が開かれた(百科事典による)。観光協会によれば、毎年8月、福生駅西口を中心に行われ、豪華な竹飾りが商店街を彩り、例年約40万人の人出でにぎわう。人口約5万7千人の街に、その7倍ほどの人が来る計算だ。福生駅の西に笹の街、東に基地の街。駅を挟んで、日本の夏とアメリカの通りが背中合わせに立っている。
では、その福生駅の線路は、どこから延びてきたのか。答えは、私が乗ってきた方角にある。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。




