
落語の「立川」は「たてかわ」、墨田の川の名だった
立川と落語。そう聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、立川流の家元だった立川談志だろう。だが談志の名乗りは「たてかわ」である。立川市は「たちかわ」。読みからして違う。
では、落語の世界の「立川」は、どこから来たのか。手がかりは江戸の戯作者、烏亭焉馬にある。百科事典によれば、焉馬は寛保3年(1743)に本所相生町、いまの墨田区緑1丁目の大工の棟梁の子に生まれ、落語中興の祖とも呼ばれる人物だ。住まいの近くを流れる竪川をもじって「立川焉馬」とも名乗った。門弟には初代の立川談笑らがいる。
つまり、落語の「たてかわ」の源流は、墨田の運河の名前にあるらしい。多摩の台地とは関係がない。立川駅前で「談志の出身地だ」と胸を張る人がいたら、そっと止めてあげたい。
それでも私は、この誤解を少しだけ惜しく思う。もし落語の「立川」が本当にこの街の名なら、立川はもっと気軽に自分を笑える街になっていたかもしれない。自慢が苦手な街に、噺家の度胸が少し欲しい。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
牧水の妻・若山喜志子と、詩歌の道の歌人たち
さて、市民歌の審査員に名を連ねた若山喜志子の話である。
立川駅の北口には、若山牧水の歌碑がある。明治39年(1906)、学生だった牧水が駅前の茶屋で休んだときの歌が刻まれている。市の散歩コースの案内によれば、この碑は昭和25年(1950)、市制10周年を記念して有志が建てた。そして碑面の文字は、牧水の夫人の筆によるもので、夫人は戦後、建築家で歌人の息子、旅人とともに立川に移り住んでいた、と書かれている。
その夫人が若山喜志子だ。百科事典によれば、喜志子は病を抱えながら、旅の多い夫の留守を守って歌を詠み、昭和3年(1928)の牧水の死後には『牧水全集』全12巻を完成させた。昭和初期を代表する女性歌人として、婦人雑誌の選歌も長く担当した。亡くなったのは昭和43年(1968)である。
牧水本人は、立川駅で茶屋に寄っただけの通りすがりの客だった。だが、その妻と息子は、戦後この街の住人になった。駅前の碑に夫の歌を書き、市民歌の審査をした。いまは根川の緑道に、喜志子自身の歌碑も建っている。通りすがりの歌人の家族が、街の文化の世話役になったのである。
その根川緑道には、市が「詩歌の道」と呼ぶ道がある。立川にゆかりの深い作家の句碑、歌碑、詩碑が、全長約2.4キロにわたって建っている。喜志子の歌碑には「ひとりゐるは あさこそよけれ わか竹の 露ふりこぼす かぜにふかれて」とある。ひとりでいるなら朝がいい、と歌う人が、旅の夫を待ち続けた人だったことを思うと、この一首は少し違って読める。息子の旅人の碑には、多摩川に降りはじめた雨と、芽ぶく楊がうたわれている。
同じ道に、中野藤吾という名の碑もある。百科事典によれば、中野は明治41年(1908)、当時の砂川の素封家の長男に生まれた経済思想史の学者で、歌人でもあった。昭和22年(1947)に開校した旧制の立川専門学校の初代校長となり、のちに都立立川短期大学の初代学長を務めた。立川市の年表にも、昭和22年の項に「立川専門学校(現都立短期大学)開校」とある。戦後まもない街で学校を率いた人が詠んだのは「川原にかはらなでしこ 咲くもよし 空をうつして水澄むもよし」という、ずいぶん穏やかな歌だ。百科事典によれば、中野は平成2年(1990)、立川の病院で亡くなり、その10年後の平成12年(2000)7月7日、柴崎町の崖線の公園の下に、カワラナデシコを詠んだこの歌の碑が除幕された。七夕の日に、川原の花の歌が石になった。
ちなみに、昭和32年の市民歌の審査員の列には、この道に歌碑のあるもう一人の歌人、八木下禎治の名も見える。詩歌の道は、市民歌を選んだ人たちの道でもあった。

立川村に生まれた庭の学者、森蘊
立川で生まれ、京都と奈良の庭に一生をささげた人もいる。
百科事典によれば、森蘊は明治38年(1905)、北多摩郡立川村に生まれた。東京帝国大学の農学部を出て、昭和27年(1952)に奈良国立文化財研究所に入る。桂離宮の研究で工学博士となり、古い文献の研究と、庭の実地の測量や発掘を組み合わせて、日本庭園の復元に取り組んだ。
奈良の旧大乗院庭園にかかる朱塗りの反橋や、京都の法金剛院にある日本最古の人工の滝「青女の滝」は、森が時代考証と現地の調査を重ねて復元したものだという。没後、奈良の研究所に残された図面やスケッチ、原稿、メモは2019年に目録として整理され、2021年には平城宮跡資料館で展示された。測り、描き、書き残す。几帳面な人だったのだろう。
桑畑と雑木林の村に生まれた少年が、のちに千年前の庭の水の流れを掘り起こす。百科事典の立川飛行場の項によれば、大正11年(1922)に飛行場ができたとき、その土地は山林原野と、桑畑を主とした畑だった。森が生まれたのは、それよりさらに17年前である。庭と呼べるものは、たぶん農家の屋敷林くらいしかなかったはずだ。何もない平らな土地で育った人ほど、石一つ、水の筋一本の置き方に、強く惹かれるのかもしれない。
ウルトラセブンの怪獣と、ファーレの換気口
昭和の子どもたちが夢中になった特撮番組にも、立川の人がいた。
美術監督の池谷仙克は、昭和15年(1940)、立川に生まれた。百科事典によれば、円谷特技プロダクションの『ウルトラマン』で特殊美術の助手やメカニックのデザインを経験し、『ウルトラセブン』では特殊美術のデザイナーに昇格した。第31話からは、降板した成田亨に代わって怪獣のデザインも受け持っている。のちには、テレビ番組で組んだ監督の実相寺昭雄らとコダイグループを結成して映画の美術に進み、篠田正浩監督の『写楽』と『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』で、日本アカデミー賞の最優秀美術賞を受けた。セブンの怪獣と、映画『写楽』の江戸の町並みが、同じ人の手から出ている。
人柄の伝わる逸話が一つある。体操の経験があったので、特撮番組『シルバー仮面』の撮影で試しにスーツアクターを務めたところ、着地に失敗して骨折し、その後は松葉杖で現場に通ったという。怪獣を描く人が、ヒーローの中に入ってけがをする。怪獣の側からすれば、少し溜飲が下がる話かもしれない。
同じ昭和15年に立川で生まれた芸術家が、もう一人いる。彫刻家の田中信太郎だ。東京文化財研究所が公開する物故者の記事によれば、田中は1940年5月13日、立川市に生まれ、のちに実家とともに茨城県の日立へ移った。前衛の美術運動に加わり、昭和47年(1972)にはヴェネチア・ビエンナーレに出品した。そのとき、壁に立てかけたアクリル板の作品が会期の初めにずり落ち、中に挟んであった金色の鉄粉数十キロが宙に舞ったと、記事は淡々と書いている。国際展の初日に、作品が自分で踊りだしたのだ。
その田中の作品が、いま立川にある。駅の北のファーレ立川には、街の設備を美術にした作品群があり、市の作品一覧には田中信太郎の換気口「風の吹く場所」が載っている。生まれた街に、彫刻家は換気口として帰ってきた。地下の空気を吐き出しつづけるその作品の前を、何人の人が立ち止まらずに通り過ぎていくのだろう。

立川で生まれ育った映画監督、俳人、作曲家
昭和の映画にも、立川の人の名がある。
映画監督の西村潔は、昭和7年(1932)に立川で生まれた。百科事典によれば、都立立川高校に通い、米軍の横田飛行場でアルバイトをしながら映画漬けの日々を送った。一橋大学を出て東宝に入り、黒澤明や成瀬巳喜男らの助監督を経て、昭和44年(1969)の『死ぬにはまだ早い』で監督になる。東宝では異色のアクション監督と期待され、のちにテレビドラマも数多く手がけた。基地のアルバイトで覚えたアメリカの空気が、都会的なハードボイルドの画面のどこかに流れ込んでいたのではないか。それは私の想像にすぎないが、想像したくなる経歴である。
俳人の辻桃子は、百科事典によれば、昭和20年(1945)に横浜で生まれ、立川で育った。画家だった父から写生を叩き込まれ、のちに俳誌「童子」を主宰して、「俳句って、たのしい」を掲げた。新聞の訃報によれば、2025年6月11日、立川市内の病院で亡くなっている。晩年は青森で暮らしたが、最期を迎えたのは、育った街の病院だった。
吹奏楽をやったことのある人なら、作曲家の桑原洋明の名に覚えがあるかもしれない。百科事典によれば、昭和16年(1941)に立川で生まれ、国立音楽大学で作曲を学び、昭和45年(1970)に吹奏楽の作曲賞を受けた。昭和52年(1977)度の全日本吹奏楽コンクールの中学校の部の課題曲「吹奏楽のためのドリアン・ラプソディー」の作曲者でもある。その年に中学の吹奏楽部にいた人は、立川生まれの人の譜面と、一夏を格闘したことになる。2022年に亡くなった。
本の装丁の世界にも、立川生まれの人がいる。百科事典によれば、グラフィックデザイナーで映画批評家の鈴木一誌は昭和25年(1950)に立川で生まれ、杉浦康平の事務所に12年在籍したのち独立した。2023年に亡くなっている。書店で手に取った本の表紙の向こうに、立川生まれの人の仕事が隠れていることがある。
意外な場所では、プロ野球にも立川の人がいた。百科事典によれば、建設事務次官を務めた豊藏一は昭和2年(1927)に当時の立川町に生まれ、平成12年(2000)から、リーグ会長の職がなくなる2008年まで、セントラル・リーグの会長を務めた。2013年に亡くなっている。野球の街と呼ばれたことのない立川から、リーグの頂に座った人が出ていたのである。
赤い公園、ベンチになったバンドの名前
最後に、令和のはじめに若くして逝った人の話をしたい。
ガールズバンド「赤い公園」のメンバーは、オリジナルの4人が立川の出身だった。立川経済新聞によれば、東村山西高校の軽音楽部の先輩後輩として出会い、2010年に結成し、立川のライブハウスを拠点に活動を始めて、2012年にメジャーデビューを果たしている。ギターを担ったのが、津野米咲だった。
2014年、バンドは地元への恩返しを企てた。音楽ニュースサイトのナタリーによれば、クラウドファンディングで目標の100万円を上回る137万6000円を集め、この計画に賛同した立川市は、子ども未来センター前の広場を通称「赤い公園」とすることにした。11月9日、そこにバンドのロゴを脚に刻んだ赤いベンチが置かれ、除幕式が行われた。バンドは立川市のキャラクター「くるりん」の絵かき歌も書き下ろし、市はいまもその歌を公式サイトで「立川市出身のガールズバンド『赤い公園』が書き下ろした」と紹介している。
バンドの名前が、本物の公園の名前になった。逆ならよくある話だが、こちら向きは珍しい。
津野は2020年10月にこの世を去り、バンドは翌年5月のライブで、約12年の活動を終えた。子ども未来センターの前の広場は、立川まんがぱーくの入口のすぐそばにある。漫画を読み終えて、赤いベンチで靴をはき直す子どももいるだろう。その子が、そのベンチの名前の由来を知るのは、たぶんずっと先のことだ。
立川は、人を黙って手放す街なのか
最初の問いに戻ろう。立川は、人を育てて、黙って手放す街なのか。
半分は、そうだと思う。小澤征爾は6年、アラン・ヘールは4か月で、この街を出ていった。森蘊は奈良へ、田中信太郎は日立へ、西村潔は撮影所へ去った。名誉市民は一人しかいない。立川は、出ていく人の背中に向かって、大声で名前を呼ぶ街ではない。
だが、残りの半分は違う。この街は、通りすがりの歌人の家族を住まわせ、その人に駅前の碑の字を書かせ、市民歌を選ばせた。生まれた街を離れた彫刻家を、換気口として迎え入れた。地元のバンドの名前を、広場の名前にした。大声で呼ばない代わりに、いつのまにか街のどこかに、その人の居場所をつくっておく。それが立川のやり方らしい。
昭和32年の市民歌は「大立川」と三度歌った。いまの立川は、たぶんもう「大」をつけない。そのかわり、駅の北口の碑にも、根川の緑道にも、ファーレの換気口にも、子ども未来センターの前のベンチにも、黙って人の名前が残っている。それに気づくのは、歩いた人だけである。
新宿から中央線で一本、川崎からなら南武線で一本。南武線の西国立駅で降りれば、赤いベンチまでは歩いて7分ほどだ。週末の半日で、北口の碑から南の緑道まで、この街が黙って残した名前を拾って歩ける。
寄り道クイズの答え
答えは(B)3日。百科事典の小澤征爾の項によれば、横浜の白楽の親類から譲られたピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄の克己、次兄の俊夫が、3日かけて立川の自宅まで運んだ。少年はそのピアノで、本格的に音楽を学びはじめる。
訪ねる前に
- 若山牧水の歌碑: JR立川駅北口の駅前、バスターミナルの一角。碑面の字は夫人の若山喜志子の筆と、市の散歩コースは書く。案内: 立川市「立川市の散歩コース」 https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004888.html
- 詩歌の道(根川緑道): 若山喜志子、若山旅人、中野藤吾らの碑が並ぶ。JR立川駅南口から徒歩約15分、多摩モノレール柴崎体育館駅から徒歩約1分(立川市の立川公園の案内による)。碑の場所は上の市の頁の「市内歌碑マップ」で確かめられる。
- ファーレ立川の田中信太郎「風の吹く場所」: JR立川駅北口から徒歩3分ほどのファーレ立川の一角。作品の位置は公式の案内で: https://www.faretart.jp/
- 子ども未来センター前の広場(通称「赤い公園」): 立川市錦町3丁目2番26号。JR立川駅南口から徒歩13分、JR南武線の西国立駅から徒歩7分(立川まんがぱーくの公式案内による)。
- 立川市立第一小学校: 小澤征爾が通った立川国民学校。学校の中には入れないので、門の前を通り過ぎるだけにしたい。
- 立川市の名誉市民・市民栄誉表彰: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisei/gaiyo/1005930/1005953.html / https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisei/gaiyo/1005930/1005950.html
- 都心と神奈川から: 新宿からはJR中央線快速で立川まで乗り換えなし(30分台)。神奈川からは、川崎からJR南武線で乗り換えなし(立川まで約1時間)。時刻と所要時間はJR東日本の公式で確かめてほしい。
- 組み合わせるなら: 北口の牧水の歌碑から南口へ抜け、根川緑道の詩歌の道を歩いて、帰りに普済寺(立川で最初の学校が開かれた寺)に寄ると、ゆかりの人びとの足跡を半日で結べる。
歩いたあとは、立川駅北口で
人の足跡を追って半日歩くと、頭はいっぱいなのに、体は思ったより冷えている。
JR立川駅の北口から徒歩1分、牧水の歌碑と同じ北口の側に、オンザショア立川店がある。住所は立川市曙町2-14-10、エトロワビル3階。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオで、常温のヨガやピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもある。ヨガだけで25種類以上のレッスンがそろう。
営業は8時から23時30分まで、年中無休で、曜日による違いはない。朝に歌碑を眺めてから寄っても、夜に根川から戻ってからでも間に合う。
はじめての人には、税込1,980円のヨガの体験レッスンがある。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれている。手ぶらで寄れる。
妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。
料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp から確かめられる。
駅前の碑の字を書いた人も、きっとこの北口の人混みを毎日のように歩いた。その上の階で、深く息を吐く。
冒頭の写真: 立川市立第一小学校の正門。小澤征爾が入学した立川国民学校の、いまの姿。(写真: Suikotei / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons)
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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