立川の歴史と立川氏 街の名を名乗った武士は去り、700年前の古文書だけが帰ってきた

「立川流」は立川生まれか──市史編さんが出した答え

立川の名を全国区にしたものの一つに、いささか物騒な響きの名前がある。中世に「邪教」と呼ばれた密教の一派、立川流である。辞書には、真言密教と陰陽道や民間信仰が習合してできた一派と説明され、男女の交わりを即身成仏の秘術とする教えだったと伝えられてきた。

なぜ「立川」なのか。根拠としていちばん有名なのは、書物『宝鏡鈔』の一節だ。醍醐寺の仁寛という僧が罪によって伊豆に流され、そこで生活のために俗人にも真言を授けていた。そこへ武蔵国の立川という所にいた陰陽師が習いに来て、陰陽道と混ぜて立川流と称した。これが邪法の始まりだ、という。

立川の陰陽師が、怪しげな流派を起こした。市民としては、あまり自慢しにくい話である。

立川市の市史編さんは、この問題に正面から取り組んだ。平成28年(2016)10月から、古代・中世部会の二人の特定部会委員、櫛田良道氏と近藤祐介氏が調査を担当した。そして『たちかわ物語』第17号(2024年)で、その経過を報告している。

二人が指摘した『宝鏡鈔』の問題点は三つある。第一に、この書は仁寛が活動した11世紀末から12世紀初めより、ずっと後の室町時代に書かれたもので、内容の信ぴょう性に疑問がある。第二に、立川流を批判する立場から書かれていて、偏りがあると考えられる。第三に、「立川の陰陽師」なる人物について述べた史料は鎌倉時代には存在せず、記述を裏付けられない。

一方で、手がかりがまったく無いわけでもない。金沢文庫に伝わる、仁寛の法の系譜を記した史料に「武蔵国立川蓮念」という書き込みがあるという。蓮念は、仁寛が伊豆で名乗った別名と考えられている。ただし、流人として伊豆にいた仁寛と立川との関係は、やはりはっきりしない。

そして結論はこうだった。現時点では、立川市と「立川流」との関係について、歴史的な裏付けは判然としない。令和4年(2022)3月、部会長らとのオンライン会議で、立川流に関する報告書の刊行は見送ると決めた、と二人は書いている。「立川流」が立川市とあまり関係がない、という結論には残念な方もいらっしゃるかもしれない、とも。

市の名前がついた怪しげな流派について、市の専門家が5年あまり調べ、「関係ははっきりしない」と言い切り、報告書を出すのをやめた。立川市民は胸をなでおろすべきか、少しがっかりすべきか。私はこの一件を、立川の誠実さの話として受け取りたい。都合の悪い伝説も、都合のいい伝説も、確かめられないものは確かめられないと書く。それは、市史の品格だと思う。

『たちかわ物語』第19号は、その仁寛の生涯も追っている。仁寛は左大臣源俊房の子で、醍醐寺で学んだ正統な密教僧だった。永久元年(1113)、鳥羽天皇の暗殺を企てたという事件に巻き込まれ、伊豆の大仁(いまの静岡県伊豆の国市)へ流された。翌年、仁寛が岩から身を投げて自害したという報告が都に届いた記録がある一方で、同じ日記の大治4年(1129)の条には、仁寛の罪が許されて都へ呼び戻されることになったと書かれている。死んだはずの人が、17年後に赦されている。記事を書いた近藤氏は、地元の町史の理解にならい、仁寛は自害を図ったが一命をとりとめ、伊豆で17年を過ごして都へ戻ったと考えたいとしている。邪教の祖の汚名を着せられた人の、実際の姿は、ずっと地味で、ずっと気の毒だった。

ちなみに、落語の立川流は「たてかわ」と読む、と百科事典の曖昧さ回避の頁は書いている。こちらは密教ともまた別の話である。中世の立川氏が「たてかわ」と名乗っていたらしいことを思うと、立川という二文字は、読み方ひとつで、ずいぶん遠くまで旅をしている。

寄り道はここまでにして、話を天正18年に戻そう。立川氏の運命は、八王子の山の上で決まった。

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八王子城の落城と水戸への道──散っていった立川氏

戦国時代、立川氏は小田原の北条氏に仕えた。市史編さんで古代・中世部会の委員を務める則竹雄一氏は、『たちかわ物語』第10号でその後の一族を追っている。

八王子城跡の御主殿の入口。北条氏照の城で、天正18年(1590)に落城した
八王子城跡の御主殿の入口。北条氏照の城で、天正18年(1590)に落城した
写真: Mocchy / Public domain / Wikimedia Commons

水戸藩に仕えた立川氏の系図をたどると、直接の先祖は、八王子城主の北条氏照に仕えた立川能登守までしかわからない。能登守の子の宮内は、天正18年(1590)に八王子城が落ちたあと浪人になった。そして元和4年(1618)、かつて氏照の重臣だった中山家範の子、信吉が水戸藩の家老になっていたのを頼って、水戸藩に仕官したという。

百科事典の八王子城の項によれば、天正18年6月23日に豊臣方の大軍が攻め寄せたとき、城主の氏照は小田原城にいて、城を守っていた重臣の中に中山勘解由家範の名がある。城は一日で落ちた。宮内は、その城で戦った人の息子を、28年後に頼ったことになる。主家が滅び、長い浪人暮らしのあとで、昔の同じ城の縁をたどって職を得た。戦国の武士の再就職にも、つてが要った。

水戸の立川氏は、その後150年ほど続いた。だが明和5年(1768)、立川重房の代に追放の処分を受け、家は絶えた。家に伝わっていた鎌倉時代の古文書は、重房の娘が嫁いだ郷医の諏訪氏の家へ渡った。文化11年(1814)、水戸藩士で古文書の収集や地誌の編さんをしていた小宮山楓軒が、地誌『水府志料』に9点の古文書の写しを記録した。ところが、その原本は長いあいだ行方がわからなかった。

原本は、別の家にあった。立川氏には、水戸藩に仕えた家とは別に、それより前に常陸太田の佐竹氏の家臣となり、そのまま常陸太田に残って帰農した一流があった。楓軒が写した古文書の原本は、この常陸太田の立川氏に伝えられていたことが、後に明らかになる。市立図書館の資料案内には、『常陸太田西中の立川』の書名も見える。茨城の田畑の中で、立川の名は生き続けていた。

岩付の鑓奉行──さいたまで戦った「立川」たち

散っていったのは、水戸の家だけではなかった。

則竹氏によれば、戦国時代、岩付城(いまのさいたま市)を本拠とした岩付太田氏、のちの北条氏の家臣団、岩付衆の中に、立川式部丞、立川藤左衛門尉、立川伊賀守、立川山城守という四人の名が、北条氏の関係史料に見られる。則竹氏はこれを「岩付立川氏」と呼ぶ。立川郷のすぐ隣、高幡郷の高麗氏の一族も岩付衆にいたことから、岩付立川氏も多摩郡の出である可能性が高いと考えている。

式部丞と藤左衛門尉は、元亀2年(1571)から天正5年(1577)ごろまで史料に現れ、その後、伊賀守と山城守の名に代わる。二人は、北条氏から国司の名をもらって改名した同一人物と考えられている。平時には蔵奉行、普請奉行、検見奉行を務めた。年貢の蔵を預かり、工事を指揮し、作柄を見積もる。今で言えば、財務と建設と農政を兼ねた役人だ。

天正5年(1577)7月13日付けの北条家の朱印状は、北条氏の軍の編成を示す有名な資料だ。岩付衆の出陣に際して、武具ごとの部隊と担当の奉行を定めたもので、総勢は1,580人あまり。その中で立川藤左衛門尉は小旗奉行と篝奉行を、立川式部丞は鑓奉行、篝奉行、小荷駄奉行を務めている。鑓の部隊は600人あまりで、この編成の中でいちばん大きい。

小旗奉行の役目も書かれている。行軍の合図とともに小旗を持つ兵を集め、行軍のあいだは「物いわせす」、つまりしゃべらせずに進ませること。旗の数を確かめて、足りなければ報告すること。戦国の行軍にも、私語を禁じる係がいた。600本の鑓と120本あまりの小旗が、黙って進む。その列の脇に、立川の名を持つ男が立っていた。

その子孫も見つかっている。岩付衆の道祖土氏の系図には、娘の一人が「立川伊賀守妻」となって立川石見守を産んだと書かれている。石見守は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に、足立郡上谷村(いまの埼玉県鴻巣市)の宝性院を開いた人として名が出てくる。宝性院は廃寺となり薬師堂だけが残るが、市史編さんの調査で、その薬師堂に石見守の三代あとの孫、立川勘兵衛の位牌が残っていることが確かめられた。さらに鴻巣市に石見守の子孫が暮らしていることもわかり、その家の過去帳2冊から、伊賀と石見の法名などが新たに知られたという。

水戸と常陸太田のほかに子孫が確かめられたのは、市史編さんの大きな成果の一つだと則竹氏は書く。ただし、立川伊賀守と、立川文書を伝えた多摩の立川氏との系譜のつながりは確かめられず、謎は残ったままだ。答えを出すところまで行かない誠実さは、ここにもある。

立川という名字の人に、たまたま埼玉や茨城で出会うことがあるかもしれない。その人の家の過去帳が、どこかで多摩川の河原とつながっている可能性は、ゼロではない。

700年目の帰郷──立川文書が立川市に戻るまで

さて、常陸太田に伝わった古文書である。

平成12年(2000)、常陸太田の立川氏の子孫である立川章氏から、古文書が立川市に寄贈された。巻物2巻に仕立てられた14通で、そのうち9通は、小宮山楓軒が『水府志料』に写した文書の原本だった。残る5通は原本ではなく写しだったが、それまで知られていなかった鎌倉時代の古文書の写しだった。

話はまだ続く。翌平成13年(2001)、同じく常陸太田の立川氏の末裔、立川明子氏の家から、鎌倉時代の古文書の原本3通が見つかった。それは、立川章氏が伝えた写し5通のうち3通の原本だった。写しが先に帰ってきて、その元になった本物が、翌年、別の家から出てきたのである。二つの家に分かれて伝わった紙が、700年近くたって、名字の地で一つの束に戻った。

立川市は平成13年(2001)に資料館所蔵の9通を市の有形文化財に指定し、平成29年(2017)に個人の持っていた3通を追加で指定した。平成30年度には修復が行われた。市の広報紙によれば、9通は裏打ちをされて巻物に仕立てられていたが、処理が粗く、折れや傷みがあった。修復では、水に溶かした紙の繊維を欠けた部分に流しこむリーフキャスティングという方法をとり、裏打ちを外したことで、文書の裏に書かれた花押、つまり署名もはじめて記録できたという。

この古文書の値打ちを、則竹氏は一文で言い表している。立川の中だけでなく東京都全体で見ても、まとまった武家文書と言える資料がほとんど残されていない中で、大変貴重な資料群として特異な位置を占めている、と。東京で、鎌倉時代の武士の家の文書がまとまって残っている例は、ほとんどない。その数少ない一つが、立川の名を持つ一族のものだった。

昭和の立川から見ると、この帰郷はほとんど奇跡に近い。昭和43年(1968)に刊行された旧『立川市史』の時代、立川文書の原本は、まだ行方がわからないままだった。手がかりは、江戸時代に小宮山楓軒が『水府志料』に書き写した9点の写しだけ。市の名の由来になった一族の古文書は、あのころ、紙の上の写しとしてしか知られていなかった。いま、その原本は修復を終え、市の資料館の保存庫にある。昭和の郷土史家が読めなかった本物の筆の跡を、令和の市史は写真で載せている。

市の広報紙は、別の号でこうも書いている。およそ700年前に書かれた文書がいまに受け継がれ、立川氏が一度立川の地を離れたにもかかわらず、文書が再び戻ってきたことは特筆すべきことだ、と。立川氏そのものは帰ってこなかった。けれども、一族が書き残した紙は帰ってきた。いま、その紙は立川市歴史民俗資料館で、温度と湿度を整えた保存庫の中に眠っている。

冒頭に書いたように、立川の街を歩いても、立川氏の子孫の家には出会えない。だが、市の名の元になった一族の記憶は、水戸と常陸太田と岩付と鴻巣を回って、700年かけて立川に戻ってきた。地味な街だと言われることのある立川は、実は、東京でいちばん帰郷の遅い手紙を受け取った街なのかもしれない。

新宿から中央線で一本、川崎からなら南武線で一本。週末に柴崎町の坂を下りれば、700年前の紙に初めて書きつけられた町の名の上を、そのまま歩ける。

寄り道クイズの答え

答えは(B)の常陸太田。市史編さんの解説によれば、立川氏には水戸藩に仕えた家とは別に、佐竹氏の家臣となって常陸太田に残り帰農した一流があり、立川文書の原本はこの家に伝えられていた。平成12年(2000)に立川章氏が寄贈し、翌年には立川明子氏の家からも原本3通が見つかった。水戸の家は明和5年(1768)に絶え、鴻巣の家は岩付立川氏の子孫である。

訪ねる前に

  • 普済寺(立川氏館跡とされる地): 東京都立川市柴崎町4丁目。『たちかわ物語』によれば、多摩モノレールの柴崎体育館駅からおよそ700メートル西。JR立川駅の南口からも歩ける。境内は寺の敷地なので、参拝の作法を守って静かに。国宝の六面石幢の拝観の可否や時間は、訪ねる前に寺に確かめたい。
  • 立川市歴史民俗資料館: 東京都立川市富士見町3-12-34。立川文書を所蔵する。常に展示しているとは限らないので、展示の内容と開館日・時間は市の施設案内で確かめてほしい: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisetsu/1008065/1008098.html
  • 道順の手がかり: 立川市の散歩コース「古村を歩く」は、立川駅南口を出発して諏訪神社、普済寺、歴史民俗資料館などをめぐる。地図は市の公式頁で: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004889.html
  • 組み合わせて回るなら: 普済寺の立つ段丘の下は根川緑道、その先が多摩川である。立河原の戦いの舞台となった多摩川の河原を、この特集の「根川と多摩川」の記事の道筋で歩ける。柴崎町の諏訪神社は「普済寺と諏訪神社」の記事で書いた。足を延ばすなら、立川能登守が仕えた北条氏照の八王子城跡(八王子市)もある。
  • 都心と神奈川から: 新宿からはJR中央線快速で立川まで乗り換えなし(30分台)。神奈川からは、川崎からJR南武線で乗り換えなし(立川まで約1時間)。時刻と所要時間はJR東日本の公式で確かめてほしい。
  • 立川氏をもっと知るなら: 市立図書館の調べもの案内は『中世武士立川氏関係史料集 立川文書』(立川市教育委員会、2010)や『新編立川市史 資料編 古代・中世』を挙げている。市史編さん広報紙『たちかわ物語』の第5号、第10号、第13号、第17号、第19号は、全国文化財総覧で読める: https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/article/121454

七百年を歩いたあとは、立川駅北口で

柴崎町の段丘から駅へ戻り、そのまま北口へ抜ける。700年前の田んぼの売り買いから、戦国の行軍、水戸と常陸太田への長い旅まで、頭の中ではずいぶん遠くを歩いた一日になる。足のほうも、段丘の坂でそれなりに働いている。

JR立川駅の北口から徒歩1分、立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガ、ピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもあり、ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。

営業は8時から23時30分まで。年中無休で、曜日による違いはない。資料館で古文書を眺めた帰りでも、朝の寺めぐりの前でも、寄る時間は選べる。

ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。身ひとつで寄れる。妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp で確かめられる。

小旗奉行に黙れと言われた兵たちも、一日の終わりには、きっと深く息を吐いたはずだ。

冒頭の写真: 立川市柴崎町の普済寺。立川氏が一族の菩提寺として開いたと伝わる禅寺の境内(写真: Nesnad / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

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