大正11年、立川は「空の都」になった
大正10年(1921年)の秋、立川に飛行場をつくることが決まった。
なぜ立川だったのか。市が子ども向けにまとめた「立川飛行場のあゆみ」は、理由を四つ挙げている。首都東京に近いこと。人家のない広い平らな土地があること。鉄道が通っていること。気象条件に恵まれていること。
ここで、冒頭の平らさが効いてくる。人が住めず野原のまま残っていた台地の平らさと、三十年あまり前に通った鉄道。その二つが、飛行場を呼び寄せた。皮肉なことに、水がなくて人が住めなかったことが、「人家のない広い土地」という条件を満たしたのである。
大正11年(1922年)3月に工事が始まり、11月10日、飛行場が開設されて、岐阜県の各務ヶ原から陸軍の飛行第五大隊が移ってきた。総務省の資料は、これを契機に立川を含む北多摩地域が「軍都」と化していったと書く。
翌大正12年(1923年)は、立川にとって目まぐるしい年だった。6月、飛行場に日本飛行学校が開校する。9月、関東大震災が起きる。市の「立川飛行場のあゆみ」によれば、このとき民間の飛行機が取材と原稿の輸送に活躍し、朝日新聞社の東西定期航空会が立川へ移ってきた。陸の道が寸断されたとき、空の道が使える場所として、立川は早くも名を上げていたことになる。この一行は、覚えておいてほしい。最後のほうで、もう一度ここに戻ってくる。
そして12月1日、立川村は町制を施行した。翌年には、その町制施行を記念して、飛行場で自動車レースが開かれている。飛行場の滑走路で町の誕生日を祝うのに、飛行機ではなく自動車を走らせた。その発想のねじれが、私はなんだか好きだ。
町は膨らんでいった。大正14年(1925年)には立川女学校が開校し、立川で最初の映画館「立川キネマ」が開館した。大正15年(1926年)には多摩川に日野橋が架かった。昭和4年(1929年)に中央線が立川まで電化され、昭和5年(1930年)に立川駅の南口ができた。
立川の飛行場は、軍だけの場所ではなかった。昭和2年(1927年)9月、ソ連の飛行機が飛来した。立川に来た最初の外国機で、このあと外国機の飛来が相次ぎ、市の年表は立川飛行場が「国際空港」になったと書く。昭和4年(1929年)7月、日本で最初の定期旅客便が、ここから飛び立った。どこへ向かったのかは、クイズにしておこう。
旅人の寄り道クイズ
1929年(昭和4年)7月、立川飛行場から日本で最初の定期旅客便が飛び立った。行き先はどこだったか。
- A 福岡
- B 大阪
- C 札幌
答えは、この記事の最後のページ、「訪ねる前に」の手前で明かす。
昭和5年(1930年)には、東京の月島から石川島飛行機製作所が工場を立川に移した。のちの立川飛行機である。同じ年に作られた「立川小唄」は、当時の立川の様子を歌詞にふんだんに盛り込み、お座敷で踊りとともに歌われたと、市史編さんの広報紙は書く。町には、歌にしたくなるだけの賑わいがあったのだろう。
昭和12年(1937年)4月には、朝日新聞社の神風号が立川を飛び立ってロンドンまで飛び、市の年表によれば飛行時間の世界記録をつくった。空の都という呼び名が、いちばん誇らしく響いたのは、たぶんこのころだろう。
「空の都立川」。市はいまも、かつて陸軍飛行第五聯隊が置かれていたことから、立川がそう呼ばれたと書いている。けれども、空の都は少しずつ色を変えていく。民間の航空は昭和8年(1933年)9月に羽田へ移り、翌昭和9年(1934年)3月には陸軍航空廠が所沢から移ってきた。昭和14年(1939年)には陸軍航空技術学校が置かれた。総務省の資料には、陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所、陸軍航空審査本部、陸軍気象部の出張所と、軍の施設の名前がずらりと並ぶ。立川飛行機の在籍人員は、終戦の時点で4万2千人を超えていたと、会社の沿革は記している。
そして昭和15年(1940年)12月1日、立川町は市制を施行した。立川市の誕生である。飛行場の開設から18年。村が市になるまでの時間を、飛行機の速さで縮めた街だと言っていい。昭和17年(1942年)には、富士見町、柴崎町、錦町、羽衣町、曙町、高松町、緑町の町丁名が定められた。駅のまわりでおなじみの町の名前は、戦争のさなかに生まれたことになる。
数字で読む立川の百年
- 1929 ― 日本で最初の定期旅客便が立川から飛んだ年。羽田より先に、空の玄関はここにあった。
- 5 ― 「立川」の名の由来として市が紹介する説の数。正解は、市役所も知らない。
- 124.7と64.9 ― 市内の最高地点と最低地点の標高(メートル)。平らな街にも、60メートルぶんの高低差がちゃんとある。
- 37.5 ― 東京駅から立川駅までのキロ数。特別快速で40分。遠いと言う人の体感より、たぶん近い。
- 118 ― 立川広域防災基地の面積(ヘクタール)。首都がもしもの日に頼る場所の広さである。
- 186,076 ― 2024年4月1日の人口。明治の柴崎村の人が聞いたら、計算を三回やり直すと思う。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
1945年、空の都は空から狙われた
軍事施設と軍需工場が集まった街は、標的になった。

写真: 国土地理院 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
その前から、備えは始まっていた。昭和12年(1937年)に防空法が施行され、防空演習と灯火管制が暮らしを変えた。昭和19年(1944年)7月、立川駅前を中心に、空襲に備えて建物を取り壊す建物疎開の地区が告示された。対象は400戸余り。取り壊しは、動員された学徒たちの手も借りて、9月9日までに終わったと総務省の資料は書く。
総務省の資料によれば、立川は昭和20年(1945年)2月16日以降、13回の空襲を受けた。市内各地区と立川飛行機で確かめられた犠牲者は、合わせて340人にのぼる。飛行場の中など、軍の施設で被災した人の数は分かっていない。
なかでも4月4日の空襲は、富士見町を中心に大きな被害を出した。富士見町の山中坂には、崖を利用した横穴式の壕があった。もとは市役所の重要書類を退避させるために掘られたもので、近所の人が防空壕として使っていた。そこに250キロ爆弾が命中し、中にいた42人が亡くなった。市の資料は、そのうち子どもが32人だったと記す。跡地には、遺族の手で供養の地蔵尊が建てられた。平成7年(1995年)には、この悲劇を歌った「山中坂悲歌」の歌碑も建てられている。
総務省の資料には、街を歩く人がほとんど知らない一行もある。いまの立川駅北口の駅前広場と北口大通りは、あの建物疎開の跡を使って開発されたものだという。毎日たくさんの人が行き交い、待ち合わせをし、バスを待つ広場の足もとに、そういう来歴がある。
戦争が終わった。昭和20年(1945年)9月、米軍が立川に進駐し、飛行場は米軍の基地になった。総務省の資料は、立川がここから「基地の街」として戦後の一歩を踏み出したと書く。北口には闇市が立ち、英語の看板をかけた店が並んだ。昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が始まると、米兵相手の商売で街は好景気に沸いた。その一方で、爆音と事件が暮らしを脅かした。
露店とテント張りの闇市。英語の看板をかけた、アメリカ兵相手の店。昭和の北口を知る人には、それが駅前の日常の景色だった。いま北口のデッキで待ち合わせをする若い人に、この駅前に英語の看板が目立っていたと話しても、古い映画の筋書きのように聞こえるだろう。同じ駅前が、八十年足らずでここまで顔を変えた。
戦後の立川は、二つの顔を持って歩き出す。基地の街の顔と、多摩の暮らしの中心の顔である。昭和22年(1947年)、立川専門学校がいまの市立二中の南側に創立された。市内の人だった初代校長が、私財を投じて開いた学校だという。昭和26年(1951年)には市営の競輪場が開設され、市で上水道の事業が始まった。昭和34年(1959年)には、アメリカ・カリフォルニア州のサンバーナディノ市と姉妹市を結んでいる。基地の街は、アメリカと喧嘩ばかりしていたわけではない。
けれども、その数年前から、北隣の砂川では、ある知らせが町を揺らしていた。
砂川の名は、日本の憲法の歴史に刻まれている
昭和30年(1955年)5月、立川基地の拡張計画が、北隣の砂川町に通告された。滑走路を延ばすための土地は、砂川の農家の畑だった。町議会は反対を決議し、拡張予定地の測量をめぐって、この年の9月と翌年10月、警官隊と地元の人々が激しく衝突した。国立国会図書館の調べものの事例は、政府がこのあと測量の中止を発表したとまとめている。
昭和32年(1957年)7月8日、測量に反対する人々の一部が基地の境界柵を越え、学生や労働者が起訴された。砂川事件である。昭和34年(1959年)3月30日、東京地方裁判所はこれを無罪とし、米軍の駐留を憲法違反と判断した。伊達判決と呼ばれる。国は控訴を飛ばして最高裁に跳躍上告し、同じ年の12月16日、最高裁判所大法廷はこの判決を破棄して地裁に差し戻した。日本アーカイブズ学会の学会誌に載った書評は、被告人たちがその後、罰金2千円の有罪で確定したと記している。日本の憲法と安全保障をめぐる裁判の歴史で、何度も名前が挙がる「砂川事件」の砂川は、この町の名前である。2008年以降、アメリカの公文書館などから、当時の最高裁長官が判決の見通しをアメリカ側に伝えていたことを示す文書が見つかり、国会でも質問主意書が出された。立川市図書館の資料案内は、2014年から2015年にかけて、集団的自衛権の行使容認をめぐる議論で砂川判決が根拠として挙げられたことまで書き留めている。
私はここで冗談を書かない。賛否で町が二つに割れた歳月の重さは、外から来た旅人が軽く扱ってよいものではない。立川市図書館には、当時の砂川の中学生が書いた作文集の複製があり、図書館はその中身を、基地拡張の賛成派と反対派に二分された町の雰囲気、日常的な飛行機の爆音の様子が伝わってくる、と紹介している。立川市中央図書館は、立川基地と飛行場の資料を特別コレクションとして一か所に集めている。この街は、自分の痛みの記録を、ちゃんと棚に並べている。
昭和35年(1960年)、立川市議会は砂川町議会に合併を申し入れた。そして昭和38年(1963年)5月1日、砂川町は立川市に編入された。これが、いまの立川市の形である。「立川市はいつできたのか」という問いに二つの日付がある理由は、ここにある。合併から7年後の昭和45年(1970年)、砂川町の町名地番の整理が始まった。かつての一番組から十番組という組の名は、一番町、若葉町、幸町、柏町といった新しい町名へと置き換わっていく。それでも、砂川町という名前はいまも町名として残っている。
5年後の昭和43年(1968年)12月、米空軍の司令官が、立川基地の滑走路拡張計画の中止を発表した。翌昭和44年(1969年)10月、米軍は立川での飛行の停止を発表する。拡張の通告から、13年がたっていた。昭和47年(1972年)12月には陸上自衛隊が立川基地へ移駐した。市議会は移駐をめぐって意見書を可決し、撤回し、また反対の意見書を可決している。年表の行間から、揺れ続けた街の息づかいが聞こえる。
返還、そして首都のもしもを預かる街へ
昭和52年(1977年)11月30日、立川基地は全面返還された。内閣府の資料によれば、返された国有地は累計466ヘクタール。大正11年に飛行場ができてから、55年ぶりに、空の都の土地が街に戻ってきた。

写真: 国土交通省 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
返された土地を、どう使うのか。国は、大規模な公園と広域防災基地を二本の柱にした。昭和54年(1979年)11月、国有財産中央審議会が広域防災基地の設置を答申する。昭和58年(1983年)5月、国の中央防災会議が立川広域防災基地の整備を進めると決め、同じ年の10月26日、国営昭和記念公園が70ヘクタールで第一期の開園を迎えた。昭和天皇の在位50年を記念してつくられた国営公園は、いまでは180ヘクタールに及ぶ。
この防災基地のことを、市外の人はほとんど知らない。立川市緑町、約118ヘクタール。東京消防庁、警視庁、海上保安庁、陸上自衛隊、災害医療センター、そして内閣府の災害対策本部予備施設が並ぶ。内閣府の資料には、驚くべき一文がある。首都で大災害が起き、都心が壊滅したり通信が寸断されたりして、総理大臣官邸、内閣府、防衛省の中央指揮所が使えなくなったとき、国の緊急災害対策本部は立川の予備施設に移る。2003年(平成15年)11月21日の閣議了解である。
なぜ立川なのか。内閣府は理由を挙げている。都心から約30キロで、同時に被災しにくい適度な距離であること。比較的地盤の良い台地であること。余裕のある空間があること。
私は資料の前で、しばらく黙った。比較的地盤の良い台地。余裕のある空間。それは大正10年に、飛行場の場所を決めた人たちが挙げた「人家のない広い平らな土地」と、ほとんど同じことを言っている。そして関東大震災の年、陸の道が切れたときに空から取材の原稿を運んだのも、この立川の飛行場だった。百年前に一度果たした役目を、この街はいま、国の名において預かっている。
地震について、もう一つ可笑しい話がある。立川には「立川断層」という名の断層がある、と多くの人が思っている。ところが平成27年(2015年)、市の年表は、東京大学地震研究所の講演会で、断層が市内に存在しないことが報告された、と記している。名前を貸しているのに、本人は留守だったのである。
返還地の上には、その後も新しい街が積み重なった。昭和57年(1982年)には新しい立川駅舎と駅ビル、南北の自由通路ができた。南と北のあいだを地下道でくぐっていたころの立川駅を覚えている人にとって、いまの駅はほとんど別の駅だろう。同じ年、返還地の一角では新しい滑走路の運用が始まり、市の年表はそれを「新立川飛行場」と書いている。平成6年(1994年)、基地跡地にファーレ立川がまちびらきし、109点のアートが街に置かれた。平成7年(1995年)には、八王子・立川の業務核都市基本構想が国に承認された。市はいま、立川を国から首都圏の「業務核都市」に位置づけられた街だと紹介している。
平成10年(1998年)に多摩都市モノレールの北区間が開業し、平成12年(2000年)に全線が開業した。平成15年(2003年)には基地跡地に「都市軸」が開通し、翌年サンサンロードという愛称がついた。平成20年から21年(2008〜2009年)にかけては、国文学研究資料館や国立極地研究所が立川に移り、東京地方裁判所や家庭裁判所の支部も基地跡地へ移ってきた。平成22年(2010年)には、市役所も基地跡地の泉町に新しい庁舎を構えた。平成27年(2015年)には、飛行機の工場だった土地にららぽーと立川立飛が開業し、令和2年(2020年)には駅の北の国有地だった場所にGREEN SPRINGSが開かれた。
ついでに、誇っていい一行をもう一つ。昭和36年(1961年)、立川市議会は全国で初めて女性の議長を選んでいる。市の年表に、さらりと一行だけ書かれている。この街の大事なことは、たいてい年表の中で、さらりと一行で済まされている。
その一行一行を、いまも足で確かめている人たちがいる。市内の教育振興の団体は毎年のように「立川歴史散歩」を開き、ある回は、砂川はここから始まったと銘打って、砂川新田の発祥の地を歩いている。多摩の地域情報サイトには「それって昭和?その頃の立川」という連載があり、昭和61年の回は、玉川上水に清流が戻ってきた年として振り返っている。年表の一行が、誰かの暮らしの記憶とつながっている。歴史が観光の看板ではなく、近所の話として語られているところに、私はこの街の地力を見る。
立川が百年で多摩の中心になった理由
畑と桑の村は、なぜ百年で多摩の中心になったのか。
年表を最後まで歩いて、私なりの答えは一つに落ち着いた。立川には、時代ごとに、国が何かを置きたくなる理由があった。それは、ほとんど毎回、同じ理由だった。平らで、広く、都心から近すぎず遠すぎず、鉄道が集まっている。
江戸の上水は、水のない平らな台地に人を住まわせた。明治の鉄道は、その台地を横切って線路を延ばした。大正の軍は、人家のない平らな土地と鉄道を見て、飛行場を置いた。戦後の米軍は、その飛行場を基地にした。返還のあと、国は同じ土地に公園と、首都のもしもを預かる防災基地と、裁判所と研究所を置いた。立川の百年は、一枚の平らな台地を、時代が入れ替わり立ち替わり借りに来た歴史だと言っていい。
だから立川は、日本の近代史の節目に、何度も立ち会うことになった。関東大震災の空。日本で最初の定期旅客便が飛んだ日。神風号がロンドンへ向かった朝。空襲の夜。基地の拡張をめぐって町が割れた歳月。憲法の歴史に残る判決。55年ぶりの返還。そして、まだ来ていない首都の非常の日。そのどれもが、この街の名前と一緒に記録されている。
中央線の、どこか西のほう。そう言われたら、黙ってこの年表を見せればいい。ただし、あまり得意げにしないほうがいい。立川の名前の由来は、まだ誰にも分かっていないのだから。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。




