立川の航空神社と、羽田より先の「東京飛行場」──空に祈った社はなぜ駐車場の片隅に

「東京飛行場」と呼ばれたころの立川

立川飛行場の来歴は、この特集の別の一編がくわしく追っている。ここでは、空の神社に関わる一点だけを見ておきたい。昭和の初め、この飛行場は、軍だけのものではなかった。

百科事典の立川飛行場の項目は、昭和4年(1929)4月1日、日本航空輸送の定期航空が始まるにあたって、この飛行場が「東京飛行場」になったと書く。典拠として挙げられているのは、その日の官報に載った逓信省の告示だ。そして昭和6年(1931)8月24日、羽田に飛行場が開かれると、日本航空輸送の移転に合わせて、「東京飛行場」という名前も羽田へ移っていった。

つまり、日本で最初に「東京飛行場」を名乗ったのは、立川である。

いまの羽田空港の正式な名前は東京国際空港だが、その「東京」の看板は、もとは立川に掛かっていた。羽田は、立川から名前を借りていったのだ。立川の人は、羽田で搭乗口へ歩くたびに、少しくらい胸を張ってもいい。返してもらう必要はない。返されても、たぶん置き場所に困る。

立川市の年表によれば、その年の7月には、立川と大阪のあいだで日本で最初の民間の定期旅客輸送が始まった。民間の飛行機が、陸軍の飛行場から旅客を乗せて飛んでいた。

同じ年の12月には、地上でも一本の線がつながっている。立川市の年表は、昭和4年(1929)12月に南武鉄道の立川と川崎のあいだが全通したと記す。春に空の玄関の名を掲げ、夏に大阪への定期便を飛ばし、暮れには神奈川の海辺の町と線路で結ばれた。立川にとって、昭和4年はやたらと忙しい一年だった。いま川崎から乗り換えなしで立川へ来られるのは、この年の暮れの名残である。

羽田へ移っていったのは、名前だけではない。空の神さまも、のちに羽田へ渡っている。百科事典の羽田航空神社の項目によれば、きっかけは東京オリンピックを控えた空港のターミナルビルの増改築だった。昭和38年(1963)7月11日、日本航空協会の航空神社、つまり新橋の社から分霊を迎えて、羽田航空神社がつくられた。今は第1旅客ターミナルの中にあり、飛行機が「落ちない」ことから、受験生にも人気があるという。立川で名乗っていた「東京飛行場」の名は羽田へ移り、新橋の屋上の空の神も、羽田へ分かれていった。空の玄関は、名前も神さまも、少しずつ東へ引っ越していったのだ。

民間の飛行機乗りを育てる学校もあった。百科事典の日本飛行学校の項目によれば、羽田で生まれたこの学校は、いったん休んだのち再建され、大正12年(1923)、陸軍立川飛行場の西側の空き地に許可を得て飛行練習場を開いた。昭和8年(1933)の暮れに羽田へ移るまで、およそ10年、立川で飛行士を育てた。関東大震災のときには、立川と代々木のあいだに臨時の連絡便を飛ばしたともいう。

項目には、昭和3年(1928)の学校案内に載った学費が引かれている。入学金は5円、授業料は2か月分で20円。そして飛行の実習費は、1時間120円。2か月の授業料のちょうど6倍を、1時間で空に払う。教室は安く、空は高い。いつの時代も、本番は高くつく。

空を飛ぶことが、今よりはるかに危うかった時代だ。陸軍の飛行場で、軍人が飛び、民間人が飛び、そして事故が起きた。立川の航空神社は、そういう空の隣で生まれたと伝わる。

郷土史を長く書き継いできた人の連載には、昭和16年(1941)刊の『立川史と写真銘鑑』の一節が引かれているという。昭和5年、立川町の本町の一部の有志と、飛行第五連隊の当局から、空の犠牲者を合わせて祀りたいという申し入れがあり、快く引き受けた。遷宮の式のときには、立川町の民間と陸軍の側の航空の犠牲者、十一氏を合わせて祀った、と。私はこの原典を手にとって確かめることができていない。創建を昭和4年とする記録と、合祀の申し入れを昭和5年とする記録のあいだには、一年の幅もある。ただ、もしこの通りなら、立川の航空神社に祀られたのは、軍人だけではなかった。民間の、つまり、日本飛行学校で学んだ若者や、定期便を飛ばした操縦士の誰かが、そこにいたかもしれない。

新橋の航空神社は、全国の殉職者を、協会の名で祀った。所沢の航空神社は、陸軍の学校の殉職者を祀った。立川の航空神社は、町の人と軍が一緒になって、町の空で落ちた人を祀った社だったのではないか。

規模はいちばん小さい。だが、祀られた人との距離は、いちばん近い。

数字で読む 空の神社

  • 325 — 昭和6年、新橋の航空神社に最初に合わせて祀られた航空殉職者の数。屋上の社にしては、背負うものが重い。
  • 6,367 — その霊璽簿の、いまの総数。名簿は、今も閉じられていない。
  • 4,956 — 所沢の航空神社に配祀された殉職者と戦没者。何度も引っ越しを重ねて、令和6年に家へ帰った。
  • 1915 — 二宮忠八が京都の八幡に飛行神社を建てた年。ライト兄弟の初飛行から、わずか12年後である。
  • 120 — 昭和3年、日本飛行学校の飛行実習費。単位は、1時間あたりの円。
  • 11 — 昭和5年、立川の航空神社に合わせて祀られたと伝わる、民間と陸軍の空の犠牲者の数。原典は、まだ私の手もとにない。

では、その社は戦後、どうなったのか。「航空」の二文字は、どこで外されたのか。

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太陽神社と名を変えて──戦後の立川と空

昭和20年(1945)9月、米軍が立川飛行場に進駐した。所沢の航空神社が、進駐軍の接収を避けて北野天神社へ逃げ込んだのは、そのわずか数日前、9月3日のことだ。

米軍に接収された後の旧立川陸軍飛行場の空中写真。昭和22年(1947)11月の撮影
米軍に接収された後の旧立川陸軍飛行場の空中写真。昭和22年(1947)11月の撮影
写真: 国土地理院 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons

立川の航空神社がどんな経緯で「太陽神社」になったのか、それを書いた一次資料に、私はたどり着けなかった。記録のサイトは、戦後は太陽神社と改称された、とだけ書く。所沢で起きたことを思えば、想像はつく。軍の飛行場に結びついた名前を、占領下で掲げ続けるのは難しかったのだろう。立川の社は、どこかへ逃げる代わりに、名札を掛け替えた。航空から、太陽へ。空にあるものの名前を、もう一段上のものに取り替えた。空にとどまったまま、身を低くしたのだ。少なくとも、私にはそう読める。

同じ記録のサイトは、太陽神社が一時、結婚式場として使われていたようだとも書いている。空の殉職者を祀った社の前で、戦後の立川の誰かが、新しい暮らしを始める誓いを立てていた。祈りの中身が、弔いから門出へ、ひっくり返ったことになる。あのころ、そこでは婚礼が挙げられていたらしい。いま、そこに並んでいるのは車である。

戦後の立川の空は、米軍の空になった。立川飛行場の項目は、昭和28年(1953)6月18日の事故を記している。立川基地を飛び立った米軍の大型輸送機グローブマスターが、離陸の直後にエンジンが止まり、小平町、いまの小平市の麦畑に墜落した。朝鮮戦争から休暇で日本に来ていた兵士を含む、乗っていた129人全員が亡くなった。当時の航空機事故としては、史上最大の事故だったという。墜落した場所の近くの公園には、いま「平和の碑」が建っている。

空の安全という言葉は、立川では題目ではなかった。立川市の散歩コースの案内には、昭和20年ごろまで飛行機のプラグをつくっていた工場のそばの踏切に、事故で亡くなる人が多いことから、発心地蔵尊が祀られたという話も載っている。飛行機を中心に回っていた街では、祈りもまた、飛行機のまわりに集まっていた。

その後、米軍の飛行は昭和44年(1969)に止まり、昭和52年(1977)に基地は返された。昭和の半ばまで、この街の頭の上を通っていたのは、海の向こうから来た大きな輸送機の影だった。あのころ、空の影は兵士を海の向こうへ運んでいた。いま、立川の空を渡る影の多くは、山や川へ人を助けに行く。駐車場の片隅の祠は、そのどちらの時代も、滑走路の南の端の外側から見上げてきた。

旅人の寄り道クイズ

昭和4年(1929)4月から、羽田に飛行場ができるまでの2年余り、立川飛行場が国から与えられていた名前はどれか。

  • A 武蔵野飛行場
  • B 東京飛行場
  • C 多摩飛行場

答えは、この記事の終わり近くで。

さて、返された飛行場は、空をやめたのだろうか。立川の空を見上げれば、答えはすぐにわかる。

今も立川から、ヘリコプターが飛ぶ

立川飛行場は、今も飛行場である。百科事典の項目によれば、いまの立川飛行場は昭和57年(1982)3月に運用が始まった。滑走路の長さは900メートル。陸上自衛隊の立川駐屯地の一部であると同時に、立川広域防災基地の一部でもあり、東京消防庁航空隊の多摩航空センターと、警視庁航空隊の立川飛行センターが置かれている。東京の空を飛ぶ消防と警察のヘリコプターは、東の拠点を東京湾岸のヘリポートに、西の拠点をこの立川に置いている。都内の東と西に一つずつ。その西の一つが、立川なのだ。

2016年の立川の航空祭。自衛隊・警視庁・東京消防庁のヘリコプターが編隊で飛ぶ
2016年の立川の航空祭。自衛隊・警視庁・東京消防庁のヘリコプターが編隊で飛ぶ
写真: Josephus37 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

山で人が遭難したとき、多摩の川で人が流されたとき、大きな地震が来たとき、立川の滑走路からヘリコプターが上がっていく。飛行場は、軍の空から、助けに行く空になった。東京の西半分の空の救急箱は、立川に置いてある。

警視庁航空隊の項目には、少し不思議な一行もある。平成元年(1989)3月から平成6年(1994)3月まで、警視庁には飛行船が配備されていて、立川飛行センターの東、旧立川基地の跡地が係留地に使われていたという。その場所は、今は国文学研究資料館などの敷地になっている。警察の飛行船がつながれていた土地で、いまは研究者が古い和本をめくっている。立川の土地は、転職の幅が広い。

年に一度、この空が人々に開かれる日がある。立川駐屯地の創立記念行事、いわゆる航空祭だ。東大和市が公開している文書によれば、令和8年(2026)4月19日に、創立53周年の記念行事が開かれ、編隊飛行なども行われると立川駐屯地から知らされた。この文書は、立川市、昭島市、小平市、日野市、国分寺市、国立市、東大和市、武蔵村山市の8市の市長でつくる立川飛行場周辺自治体連絡会が、駐屯地と警視庁航空隊、東京消防庁航空隊にあてた要請書である。飛行場は市街地にあり、騒音への苦情や安全への要望が多く寄せられている。だから、飛行は災害活動を想定した必要最小限にとどめ、会場と周辺の安全対策を徹底してほしい、と。

祈りの言葉ではない。役所の言葉だ。だが、書かれていることは、昭和の初めに天神さまの社で祈られたことと、そう遠くない。空を飛ぶものが、落ちませんように。その下で暮らす人が、無事でありますように。あのころ、その願いは小さな社の鈴を鳴らした。いま、同じ願いは、八つの市の市長の連名で、公文書の判を押されている。

この滑走路は、もう一度、別の意味で有名になる。箱根駅伝の予選会である。百科事典の箱根駅伝の項目によれば、予選会は陸上自衛隊立川駐屯地の滑走路を周回し、立川の市街地を抜けて、昭和記念公園の中でゴールするハーフマラソンで行われる。防衛省が公開している写真には、平成22年(2010)10月16日、立川飛行場の滑走路を一斉に走り出す選手たちの姿が写っている。

飛行機のための滑走路を、人が走る。それも、正月の箱根を目指して、数百人が一度に駆けていく。翼を持たない者たちが、離陸のための道を、脚だけで蹴っていく。

正月の箱根へ続く道の入口は、毎年秋、立川の現役の滑走路に引かれている。テレビの前で駅伝を見る正月、立川の人はこの一行を家族に話していい。

空の神社の物語は、ここで一周する。だが、最初の問いにだけは、まだ答えていない。

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