立川の養蚕と桑畑の歴史 砂川は桑苗の生産で全国一だった、空の都の下に眠る蚕の村

機の音がする村、砂川太織から村山大島紬へ

蚕が繭をつくれば、次は糸と布である。資料館の資料は、機織りは女性の仕事であり、農家の副業として行われていたと書く。

繭をより分ける人たち。1914年から1918年ごろの日本で撮られた写真
繭をより分ける人たち。1914年から1918年ごろの日本で撮られた写真
写真: Elstner Hilton(投稿 A.Davey) / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons

砂川地区では、江戸時代の末期から「砂川太織」が織られていた。明治時代になると、村山地方の「村山がすり」の影響を受けて、生産の中心は砂川太織から村山がすりに移った。その後、道具の改良によって機織りはますます盛んになった。

そして、この一行である。明治22年(1889)に砂川村で行われた調査によれば、村内の農家の85%にあたる500戸で、機織りが行われていた。

10軒のうち8軒半。ほぼ全戸と言っていい。夜の砂川の五日市街道を歩けば、どの家からも機の音がしていたはずだ。明治22年は、甲武鉄道が開通して立川駅ができた年でもある。駅の誕生を祝う汽笛の向こうで、砂川は機を織っていた。

玉繭の太い糸

砂川太織とは、どんな布だったのか。

経済産業大臣が指定する伝統的工芸品を紹介する「伝統工芸 青山スクエア」の解説によれば、1920年頃、正藍染めによる綿織物の「村山紺絣」と、玉繭による絹織物の「砂川太織」の二つが合流して、絹織物としての村山大島紬が生産の中心になった。別の箇所では、藍染めの綿織物「村山紺絣」に絹織物「砂川太織」の流れが結びつき、時代を経て経緯絣の絹織物に進化したのが村山大島紬だ、とも書く。

玉繭とは、ふつうは1頭の蚕がつくる繭を、2頭がいっしょにつくってしまったものだ。ウィキペディアの解説によれば、2〜3%ほどの割合で生まれ、糸をとると節のある糸になるため、かつては価値の低いものとされた。

価値が低いとされた繭から、太い糸を引いて、自分たちの布を織る。売り物にならない繭を無駄にしない、農家の知恵の布だったのだろう。その節のある糸の流れが、のちに東京を代表する絹織物の片方の源流になった。出世魚ならぬ、出世繭である。

東京でただ一つの伝統的工芸品

村山大島紬は、いまの武蔵村山市を中心につくられてきた。青山スクエアの解説によれば、生産の最盛期は昭和8〜9年ごろで、昭和50年(1975)に国の伝統的工芸品の指定を受けて需要が大きく伸びた。ウィキペディアは、この昭和50年が伝統的工芸品の制度で最初の指定にあたり、村山大島紬は東京都でただ一つ指定を受けたと書いている。

東京で最初に国の伝統的工芸品に選ばれた織物の、二つの源流のひとつが、立川の砂川で織られていた。これは、立川の人がもっと自慢してよい話だと思う。紬の名前に立川の字は入っていない。だが、糸の半分は砂川から来ている。

ウィキペディアによれば、大正10年(1921)にこの地域の織物業者が八王子織物同業組合に組み込まれたとき、「村山大島部会」という名前が使われたという。砂川の機の音は、村山を経て、八王子の織物の大きな流れにもつながっていた。

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1910年に止まった製糸、1916年に来た蚕の種の工場

立川市の年表には、蚕にまつわる短い記事が三つだけある。1860年の蚕影神社の勧請。そしてあと二つが、明治と大正に並んでいる。

明治43年(1910)、「砂川製糸業閉鎖」。

大正5年(1916)、「東京府原蚕種製造所、立川村に設置される」。

一行ずつしかないので、詳しいことはわからない。ただ、一つ目からは、砂川に繭から糸をとる製糸の仕事が営まれていた時期があったことがわかる。そして二つ目は、名前からすると、蚕の卵である蚕種のおおもとになる「原蚕種」を扱う東京府の施設が、立川村に置かれたことを示している。

『たちかわ物語』の第14号は、大正10年と昭和5年の地図を並べて、立川飛行場ができる前とあとの町を比べている。両方の地図にある施設として、立川駅、府立第二中学校、立川村役場、砂川村役場などと並んで、「東京府原蚕種製造所」の名がある。蚕の種をつくる役所が、駅や中学校や村役場と同じ格で地図に載っていたのだ。蚕は、立川の町の地図の上でも一人前の住人だった。

桑都とつながる道

立川の西には、「桑都」と呼ばれる町がある。八王子だ。ウィキペディアによれば、絹織物産業と養蚕業が盛んだったことから「桑の都」「桑都」という美称があり、北原白秋が作詞した八王子市歌にも織り込まれている。幕末に横浜が開港して生糸が主要な輸出品になると、八王子は生糸と絹の生産地として、また横浜へ送り出す中継地として栄えた。明治以降は、甲信や両毛から集まった生糸や絹織物が、甲武鉄道で東京へ運ばれたという。

その甲武鉄道が新宿から立川まで開通したのは明治22年4月、立川から八王子まで延びたのは同じ年の8月だと、立川市の資料は書く。資料によれば、甲武鉄道ははじめ甲州街道に、次に青梅街道に沿って敷こうと計画されたが、どちらも沿道の住民の強い反対にあって実現しなかったそうだ。その一方で、鉄道の便利さと輸送力に注目していた立川村や砂川村の人々は積極的に誘致運動を行い、武蔵野台地をまっすぐに走るいまの線路が敷かれた。よその町が断った鉄道を、桑と機の村が呼び寄せたのである。砂川の85%の農家が機を織っていた年に、絹の都へ向かう線路が立川を通った。

2020年、八王子の高尾山と桑都の物語は、東京都内で初めて文化庁の日本遺産に認定された、とウィキペディアは書く。桑の都の物語の、東のはずれの苗床に、立川の砂川がいた。

旅人の寄り道クイズ

明治22年(1889)、砂川村で行われた調査では、機織りをしていた農家はどれくらいだったか。(A)約1割(B)約半分(C)約85%。答えは、実はもう本文に書いてある。読み飛ばした人のために、最後にも置いておく。

空の都は、桑畑の上に降りた

立川という町の顔を一変させたのは、大正11年(1922)の立川飛行場である。その話は、特集のほかの回で何度も書いてきた。だが、桑の側から見ると、同じ出来事が少し違って見える。

『たちかわ物語』の第14号は、大正10年の地図についてこう書く。飛行場の用地のほとんどは、山林原野や桑畑などだった。用地にあった民家と伝染病の隔離病舎と電話線はすべて移転となり、村道は砂川と立川の両村で協議して廃止や付け替えが行われた。第15号も、飛行場の建設工事には当時は珍しいトラクターが使われ、山林原野や桑畑は飛行場へと変わっていったと書いている。

「空の都」は、桑畑の上に降りたのである。

蚕が葉を食んでいた畑の上を、飛行機が滑走するようになった。地面を這う虫のための畑が、空を飛ぶ機械のための原っぱになる。これほど極端な転職を、私はほかに知らない。桑畑が滑走路になり、滑走路が戦後は米軍の基地になり、昭和52年に返されて、いまは昭和記念公園や広域防災基地やファーレ立川になっている。立川の芝生の下を掘っていけば、いちばん下の地層に桑の根があることになる。

養蚕が去ったあと

立川の養蚕は、いつ終わったのか。資料館の資料は、昭和の初めころまで養蚕が農業の中心を占めていたと書き、立川市のうどの解説は、うどの生産が始まったのは養蚕が衰退した昭和20年代からだと書く。一方で、昭和29年には「毎日が戦争」のような蚕の最盛期の記録があり、昭和54年には桑畑の写真がある。衰えながらも、ずいぶん長く続いていたことがわかる。

そして、市の蚕影神社の解説は、いまの事実を短く書いている。現在、砂川では養蚕業は行われていない。蚕影神社は、かつては阿豆佐味天神社の境内に単独の社があったが、昭和55年(1980)の境内整備のため、いまは拝殿の横に金比羅神社や疱瘡神などと合祀されている。

昭和54年に桑畑が広がっていた村で、その翌年、蚕の神様は一人住まいの社をたたみ、仲間の神様と同居を始めた。時代の変わり目は、神様の住まいにも出る。

あのころの砂川、いまの砂川

年配の立川市民なら、昭和の砂川の景色を覚えている人もいるだろう。資料をつなぐと、その景色はこんなふうに並ぶ。

昭和20年代の終わり、砂川の青年団の機関誌には、蚕の最盛期を「毎日が戦争」と書く文章が載っていた。同じ1950年代の初めには「砂川音頭」がつくられ、青年団は村ごとにばらばらだった盆踊りをそろえようと何年も話し合い、昭和35年(1960)にようやく「統一盆踊り会」にこぎつけたと、『たちかわ物語』は書く。蚕の季節に追われながら、夏には音頭で踊る。昭和の砂川の若者は、なかなか忙しい。

昭和36年には、桑の苗がトラックで上砂町を出ていった。昭和50年に村山大島紬が国の伝統的工芸品になると、需要が大きく伸びた。青山スクエアの取材に、ある織元は当時を「作っても作っても、すぐに在庫がなくなる」と振り返っている。生産が盛んだったころは、女性のいる家ならどこからも夜遅くまで機織りの音が聞こえてきた、とも記事は伝える。

あのころ、上砂町には桑畑が広がり、トラックが桑の苗を積んで走っていた。いま、立川市は「現在砂川では養蚕業は行われていません」と書く。あのころ、蚕の神様は一軒の社に住んでいた。いまは拝殿の横で、猫を探す人の願いを聞いている。

若い人には、自分の通る道がかつて桑畑のあいだを抜けていたと知るのは、ちょっとした驚きだろう。年配の人には、低い桑の茂みと、夏の夜の機の音を思い出すきっかけになるかもしれない。どちらにとっても、その景色の続きは、いまの砂川の畑と、地下のうど室と、昭和記念公園の芝生の中にある。

謎の答え、桑の村の痕跡を歩く

田んぼも満足に作れない台地の村が、なぜ桑の苗で日本一になったのか。

私なりに資料を並べると、答えは三つの層に分かれる。

一つ目は土だ。関東ローム層の台地は水田に向かず、そのぶん畑と桑に向けられた。享保年間には、すでに桑の産地として知られていた。

二つ目は技術だ。幕末から明治に接木による苗づくりが確立し、作業が簡単になって大量生産ができるようになった。接木は品種改良にも向き、毎年のように新しい品種が生まれた。台地の苗床は、新しい桑の工房になった。

三つ目は需要だ。明治の生糸は輸出品の上位を占め、蚕の農家は良い桑を求めた。多摩は桑苗の一大産地となり、八王子は生糸と絹の集まる町になり、そのあいだを甲武鉄道が結んだ。

もう一つの問い、桑畑はどこへ消えたのか。その答えは、半分は空の都の滑走路の下、半分は戦後の住宅地とうど畑の下、ということになる。だが、全部が消えたわけではない。蚕影神社は拝殿の横で猫好きの参拝を受け、桑室は若葉町の地下で市史の測量を受け、砂川太織の糸の流れは村山大島紬の中で、いまも経糸と緯糸に織りこまれている。

立川は、地味な町だと思われている。何もない、と言う人さえいる。だが、この町の北半分は、かつて全国一の桑の苗床であり、村の8割を超える家が機を織る、絹の村だった。百貨店の上で光る看板よりずっと前に、砂川の夜には機の音が鳴っていた。

新宿から中央線で一本、川崎からなら南武線で一本。週末に立川駅からモノレールで北へ向かえば、全国一の苗床だった村の街道に出る。

五日市街道を歩くと、ところどころの家の裏に、低い木の茂みが残っていることがある。それが桑かどうか、私にはいまだに自信がない。資料館で葉の形を覚えてから、もう一度来ることにする。

寄り道クイズの答え

答えは(C)約85%。立川市歴史民俗資料館の資料によれば、明治22年(1889)に砂川村で行った調査で、村内の農家の85%にあたる500戸が機織りをしていた。江戸時代末期からの「砂川太織」に、明治になると「村山がすり」が加わり、道具の改良でますます盛んになったという。

訪ねる前に

  • 立川市歴史民俗資料館: 東京都立川市富士見町3-12-34。市の歴史や文化、自然風土を知るための市の施設で、昭和60年12月1日に開館した。開館の時間と休館日は市の施設案内で確かめてほしい: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisetsu/1008065/1008098.html
  • 資料館がつくった学習資料「養蚕と機織り」「砂川の桑苗」は、市の頁から読める。この記事の大正時代の写真の説明もここにある: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004849/1004905.html
  • 資料館の刊行物には、『砂川の農家に生まれて』(養蚕や桑畑を中心とした農業を営んだ人の記録)など、砂川の暮らしを知る本がある。販売の方法は市の案内で: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004851.html
  • 蚕影神社(市指定史跡「蚕影神社跡」): 阿豆佐味天神社の境内、立川市砂川町4-1-1。いまは拝殿の横の境内社に合祀されている: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004847/1019994/1004857.html
  • 歩き方: 立川市の散歩コース「砂川新田発祥の地を歩く」が、阿豆佐味天神社と蚕影神社をめぐる道を案内している。玉川上水駅(多摩モノレール・西武拝島線)から歩けば、特集の「玉川上水と砂川」の回の道と重なる: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004892.html
  • 都心と神奈川から: 新宿からはJR中央線快速で立川まで乗り換えなし(30分台)。神奈川からは、川崎からJR南武線で乗り換えなし(立川まで約1時間)。時刻と所要時間はJR東日本の公式で確かめてほしい。
  • 市史の最新の調査(蚕室や桑室の記録など)は、市史編さん広報紙『たちかわ物語』で読める。全国文化財総覧にバックナンバーが載っている: https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/article/121485
  • 組み合わせるなら: 同じ関東ローム層の地下で育つ東京うど、上水と砂川の短冊形の村、そして桑畑の跡に広がる昭和記念公園。立川の北半分を一日で、桑の村の目で歩ける。

歩いたあとは、立川駅北口で

砂川の五日市街道は長い。地元の人が「二里八町・長新田」と呼んだほどの村を東西に歩けば、足は思ったより疲れている。秋から冬は、日が傾くと体も冷える。

立川駅に戻ったら、北口から徒歩1分のところにオンザショア立川店がある。住所は立川市曙町2-14-10、エトロワビル3階。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガやピラティスのほか、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもある。ヨガだけで25種類以上のレッスンがそろう。

営業は8時から23時30分まで、年中無休で曜日による違いはない。朝に資料館へ寄っても、夕方に砂川から戻っても間に合う。

はじめての人のためのヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれている。歩いた帰りに、ほとんど手ぶらで寄れる。

妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

料金の詳細は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp から確かめられる。

かつて蚕は、4度眠って、ようやく繭をつくった。人は一晩眠れば足りる。その前に少し、体をほどいておくのも悪くない。

冒頭の写真: 蚕に与える桑の葉を摘む若者たち。1918年の日本で撮られた写真(写真: Cheney Silk Company / Public domain / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

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