立川は神奈川県だった 明治26年の三多摩東京移管と、賛成の砂川・反対の立川村長

賛成の砂川、反対の立川村長──明治26年2月の二通の書類

政府は二人の知事の上申を受けて、第4回帝国議会に府県の境を変える法案を出した。公文書館の報告によれば、法案が出されると、多摩の人びとは賛成派と反対派に分かれて激しい運動をくり広げた。

『たちかわ物語』は、その運動のなかに、立川の二つの村の名を見つけ出している。

明治26年(1893)2月23日、移管に賛成する陳述書が出された。そこには、三多摩郡の1,600名を代表する「三郡有志者総代」21名が名を連ねている。その筆頭に書かれていたのが、砂川村の砂川源五右衛門だった。元の北多摩郡長である。北多摩郡の村々の多くは、甲武鉄道の開業で東京との交通と物流のつながりが深まったことから、移管賛成に回ったと広報紙は書く。

翌日の2月24日、今度は移管反対の陳情書が出される。南多摩自由党を中心に激しい反対運動が起き、陳情書には南多摩郡と西多摩郡のすべての町村長と、北多摩郡の5名の町村長が署名した。その北多摩の5人のなかに、立川村長の井上善次郎の名があった。

一日違いで出された、正反対の二通の書類。賛成の筆頭に砂川村の人、反対の署名に立川村の村長。

私はこの一行を読んで、しばらく資料から目が離せなかった。いまの立川市は、昭和38年(1963)に立川市と砂川町が合併してできた市である。つまり、明治26年の2月、のちに一つの市になる二つの村は、東京へ行くか、神奈川に残るかをめぐって、文字どおり別々の側に立っていた。合併したのは、それから70年後のことである。70年あれば、たいていの喧嘩は時効になる。

なぜ立川村長は反対したのか。陳情書に書かれた村長ひとりひとりの理由までは、広報紙には書かれていない。北多摩の大勢が賛成に回るなかで、わざわざ反対の側に名を書いた5人のうちの一人。そこに何があったのかは、まだ私には分からない。

確かなのは、反対の声が北多摩より西と南で強かったことだ。公文書館の展示は、移管直前の西多摩の反対派の動きを内々に報告した公文書を、「神奈川県西多摩郡不穏の景況上申及通知」という題で紹介している。不穏の景況。ずいぶん物騒な題名である。百科事典の多摩地域の項は、移管の際に反対運動の中心になったのは、自由党の行動部隊として知られた三多摩壮士団だったと書く。

立川の側にも、その熱気の名残がある。『たちかわ物語』は、柴崎村の名主を務めた中嶋家に残る文書のなかから、「三多摩郡境域変換事件」と題した演説会の資料を写真で紹介している。県が替わることを、当時の人は「事件」と呼んだ。役所の書類には「境域変更」と書かれ、演説会の紙には「事件」と書かれる。同じ出来事が、立場によってこうも呼び方を変える。

法案は、10日間の審議の結果、賛成多数で可決された。明治26年4月1日、西・南・北の多摩三郡は東京府になった。公文書館の報告は、移管の是非に揺れた多摩では、移管のあともしばらく混乱が続いたと書いている。

数字で読む「神奈川県の立川」

  • 21 — 年と4か月ほど。立川が神奈川県だった期間。生まれた子が成人式を迎えられる長さである。
  • 7 — 割。羽村から四谷大木戸までの玉川上水の水路のうち、神奈川県のなかを流れていた割合。東京の蛇口の大元は、ほぼよその県にあった。
  • 2 — 年ほど。玉川上水に船が浮かんでいた期間。明治3年に始まり、明治5年に東京府の求めで止められた。砂川の人も船を出していた。
  • 1 — 年7か月。東京府知事富田鉄之助が、その前に日本銀行総裁を務めた期間。頑固さは筋金入りだった。
  • 10 — 日。第4回帝国議会での移管法案の審議日数。21年あまりの所属が、10日で決まった。
  • 1,920 — 人。立川駅が開業した明治22年の立川村の人口。いまの駅前なら、信号一回分である。

賛成と反対の書類が出され、法案が通り、立川は東京府北多摩郡立川村になった。だが、話はここで終わらない。東京になったあとの多摩は、今度は「東京から切り離される」かもしれない時代を迎えるのである。

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東京になったあと──淀橋の水と、「多摩県」の構想

移管から5年後の明治31年(1898)12月1日、東京で近代水道が産声をあげる。新宿の淀橋浄水場が通水を始めたのだ。百科事典によれば、その原水は玉川上水から引き入れられた。羽村で取り入れられ、立川の北の台地を流れてきた水が、淀橋で濾され、鉄の管で東京の街へ配られた。この日は、のちに「東京水道の日」に定められている。

新宿に残る淀橋浄水場跡の石碑
新宿に残る淀橋浄水場跡の石碑
写真: Rs1421 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

水源から浄水場まで、すべてが一つの府のなかに収まった。東京府が明治6年から求め続けてきたことが、ようやく形になったわけである。

ところが、多摩と東京の結びつきは、それで安泰になったわけではなかった。公文書館の報告によれば、移管から昭和18年(1943)に東京都が生まれるまでの50年のあいだ、東京にどんな首都の仕組みをつくるかをめぐって、さまざまな「都制案」が練られた。そして、それらの案には、しばしば多摩地域を東京から切り離すという考えが示されたという。

百科事典の多摩地域の項は、明治28年(1895)に内務省が「東京都制および多摩県設置法案」を出したと書く。東京府から多摩を分けて、多摩三郡だけで県をつくる構想で、県庁は八王子に置く想定だったという。法案は、帝国議会や東京市民の反発を受けて成立しなかった。別に、東京市の15区を除いた東京府の郡部で「武蔵県」をつくる構想もあった。公文書館の展示には、国立公文書館が所蔵する「武蔵県設置法律案」が並べられていた。

もし多摩県が実現していたら、と私はつい考える。立川は「多摩県北多摩郡立川町」になり、県庁所在地の八王子へ書類を届けに通ったかもしれない。いまの立川と八王子の関係を思うと、実現しなくてよかったと胸をなでおろす人が、どちらの市にもいそうである。

結局、昭和18年(1943)7月に東京都制が施行され、東京府と東京市が廃止されて東京都が生まれた。立川町は昭和15年(1940)12月に市制を施いて立川市になっていたから、ここで立川は「東京都立川市」になる。神奈川県北多摩郡柴崎村から数えて、いくつ肩書きを替えたのだろう。韮山県まで含めれば、韮山、神奈川、東京と、所属先は三度変わった。

肩書きは替わった。それでは、神奈川県だった21年は、いまの立川に何も残していないのだろうか。

いまの暮らしに残る、神奈川との細い糸

正直に書くと、明治26年の移管が直接残した「名残」を、街のなかで指さすのは難しい。県境の碑が立っているわけでもない。それでも、いくつかの細い糸は、いまもこの街と神奈川をつないでいる。

一つは線路だ。立川駅を出る南武線は、神奈川県川崎市の川崎駅と東京都立川市の立川駅を結ぶ。南武鉄道が立川まで通じたのは昭和4年(1929)、移管から36年後のことで、明治の県境とは関係がない。ただ、立川から多摩川を渡って南へ下る電車に乗ると、かつての同じ県の土地へ、いまは「県外」として入っていくことになる。

二つめは、電話の番号である。多摩地域の多くの市外局番は「042」で、百科事典によれば、神奈川県相模原市の大半もこの042に入っている。これは平成になってからの電話の区割りの話で、明治の県境の名残ではない。それでも、立川の家から相模原へかける電話が、同じ042で始まるのは少し愉快だ。

三つめは、記念日のような節目である。平成5年(1993)、多摩東京移管100周年を記念して、市民や大学、企業が市町村や東京都と組んだ「TAMAらいふ21」が、4月25日から11月7日まで開かれた。そして令和5年(2023)、移管130年の節目には、東京都の総務局行政部が「超たまらん博」という催しを開いた。会場は、立川市である。10月28日と29日の二日間。東京都公文書館もパネル展示と、多摩の行政区画の移り変わりを組み立てるパズルを持ちこんだと報告している。

超たまらん博。行政の報告書に、この名前が真顔で印刷されている。多摩、たまらん。私は嫌いではない。130年前に「事件」と呼ばれた出来事が、いまは駄洒落の博覧会で祝われる。時代は、ちゃんと進んでいる。

公文書館の同じ年の企画展「東京府文書にみる多摩と東京」には、約1,700人が訪れ、その約8割が多摩地域に住む人だった。自由記述には、三多摩が神奈川県から東京へ移された経過がわかりやすくて良かった、という感想が寄せられたという。多摩の人びと自身が、自分たちの土地がかつて神奈川県だったことを、あらためて知りに来ていた。

もう一つ、地図の上の糸もある。『たちかわ物語』は、明治29年(1896)に描かれた「宮王鉄道」の線路略図を紹介している。大宮と八王子を結ぶ、結局は実現しなかった鉄道の計画図で、発起人には砂川村の砂川源五右衛門と、立川村の中嶋治郎兵衛も加わっていた。賛成の陳述書の筆頭に立った人と、柴崎村の名主の家の人が、移管の3年後には同じ鉄道の夢を見ていたことになる。図には、移管前の府県境が黒い破線で残っている。そして広報紙は、この図から、鉄道が集まる「たちかは」駅が、西・北・南多摩郡と東京を結ぶ位置にあることも分かる、と書いている。

神奈川県の村として生まれた駅は、東京府に移ったあと、三つの多摩をつなぐ結び目になっていった。ここまで来て、私はようやく冒頭の問いに答えられる気がした。

水が東京へ引き、鉄道が東京へ押した

なぜ、立川は神奈川県から東京へ移ったのか。

ペデストリアンデッキから望むいまの立川駅北口
ペデストリアンデッキから望むいまの立川駅北口
写真: DiKnK8713 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

東京府の側から見れば、答えは水である。首都の飲み水の大元が、よその県にあった。船が浮かび、汚れが入り、コレラが流行り、守っていたはずの森が伐られた。明治6年、明治19年と断られても、東京府は申し出を続け、明治24年の森の伐採で最後の一押しを得た。

神奈川県の側から見れば、答えは政治だったのかもしれない。南多摩の自由党という手ごわい相手を、水の話と一緒に隣へ渡す。これは公文書には書かれず、「ともいわれる」の形で残っている。

そして、立川の側から見れば、答えは鉄道だった。北多摩の村々の多くが賛成に回ったのは、甲武鉄道で東京とのつながりが深まっていたからだと、市史の広報紙は書く。駅を持った村は、もう南の港ではなく、東の首都を向きはじめていた。それでも、立川村長は反対の側に名を書いた。土地の向きが変わっても、人の気持ちは一日では変わらない。

水が東京へ引き、鉄道が東京へ押した。その二つの力のあいだで、砂川は賛成し、立川村長は反対した。

いま、立川駅のデッキに立つと、南へは多摩川を越えて神奈川へ向かう線路が延び、東へは都心へ向かう中央線が延び、西と北へは青梅、八王子、そして多摩の北へとモノレールが走る。明治の広報紙が「たちかは」と書いた結び目は、いまも結び目のままだ。

立川は、神奈川県だった。そして、神奈川県だったころに生まれた駅を軸にして、東京の西の中心になった。この順番を知っている立川の人は、たぶん多くない。だから、話したくなる。

新宿から中央線で一本。川崎からなら南武線で一本、かつて同じ県だった土地から乗り換えなしで着く。週末、南口から「古村を歩く」の道をたどれば、神奈川県北多摩郡柴崎村の中心にあった諏訪神社に出る。

寄り道クイズの答え

答えは(B)。立川市史編さんの広報紙『たちかわ物語』vol.16によれば、立川村は「同じ北多摩郡の柴崎村〈現調布市〉と混同を避けるため柴崎村から改称」した。同じ郡に同じ名の村が二つあっては、郡役所も郵便も困る。千年の名を替えた理由は、意外なほど実務的だった。

訪ねる前に

  • 神奈川県時代の立川を資料で見るなら: 立川市歴史民俗資料館(東京都立川市富士見町3-12-34)。昭和60年(1985)12月1日開館。立川市の案内では業務時間は9時から16時30分、休館日は月曜日(祝日・振替休業日の場合は翌日)と年末年始。最新は公式で確かめてほしい: https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisetsu/1008065/1008098.html
  • 道順: 立川市の散歩コース「古村を歩く」は、JR立川駅南口を出発し、旧柴崎村(立川村)の中心にあった諏訪神社、中嶋家の門、普済寺、山中坂地蔵堂、歴史民俗資料館をめぐる。柴崎村の名主の家だった中嶋家の門も、この道筋にある: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004889.html
  • 移管の公文書の側から知るなら: 東京都公文書館(東京都国分寺市泉町2-2-21)。JR中央線・武蔵野線の西国分寺駅から徒歩約8分(公文書館の案内による)。展示や開館日は公式で確かめてほしい: https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/
  • 組み合わせて回るなら: 移管の理由になった玉川上水は、立川の北、砂川の五日市街道沿いを流れている(玉川上水と砂川の記事で歩いた道筋)。柴崎村の古い中心、普済寺と諏訪神社は、資料館と同じ散歩コースの上にある。
  • 都心と神奈川から: 新宿からはJR中央線快速で立川まで乗り換えなし(30分台)。神奈川からは、川崎からJR南武線で乗り換えなし(立川まで約1時間)。時刻と所要時間はJR東日本の公式で確かめてほしい。
  • 年表の確認: 立川市「立川市の歴史(1800年代から1924年まで)」 https://www.city.tachikawa.lg.jp/shisei/gaiyo/1005930/1005948/1005963.html

神奈川県の駅から、北口へ

明治の立川駅には、北にしか口がなかった。神奈川県の村の駅として開かれたその北口は、いまも立川の玄関である。

JR立川駅の北口から徒歩1分、立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。溶岩プレートを敷いたスタジオで行うホットヨガのスタジオだ。常温のヨガやピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもあり、ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。

営業は8時から23時30分まで、年中無休で、曜日による違いはない。資料館で古い地図を眺めてから戻っても、十分に間に合う。

ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。散歩のついでに、手ぶらで寄れる。

妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp で確かめられる。

県境が動いた日から百三十年あまり。北口の人波のなかで、ここがかつて神奈川県だったことを知っているのは、たぶん今日の私と、この記事を読んだあなたくらいのものだ。

冒頭の写真: 羽村の取水堰。多摩川の水をここから玉川上水へ取り入れる(写真: sewmew / Public domain / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

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