立川の民話と伝説を歩く 残堀川は大蛇の血の跡と伝わり、送り狼には「ごくろうさま」を

ヒダルイ坂の声

ある家で、奉公人に食べ物を十分に与えずにこき使い、死なせてしまった。その後、夜になると「ヒダルーイ、ヒダルーイ」という声が聞こえるようになり、そこはヒダルイ坂と呼ばれるようになった。

「ひだるい」は、ひもじい、腹が減ってたまらない、という意味の古い言葉だ。データベースに残るこの話は、立川市の語り手のものとして記録されている。坂がどこにあったのかは、記録からはわからない。

狐の話には笑いがあり、送り狼の話には可笑しみがある。だが、この話には笑う隙がない。腹を空かせて死んだ人の声が、夜の坂に残る。誰が悪かったのかを、話ははっきり言っている。民話は、ときに、村の人々が口に出しにくかった告発の役目も果たしたのだろう。坂の名前に、それを刻んだ。

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炎から飛び去った阿弥陀さま──南畝が書きとめた柴崎の霊験

立川の伝説には、江戸の一流の文人が書き残したものもある。

立川市柴崎町の諏訪神社の本殿。八幡神社の本地仏は、いまこの神社が所蔵している。
立川市柴崎町の諏訪神社の本殿。八幡神社の本地仏は、いまこの神社が所蔵している。
写真: 白田太郎 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

文化6年(1809)、幕府の役人で文人の大田南畝が柴崎村の名主、中嶋家の屋敷を訪ねたことは、この特集の普済寺と諏訪神社の一編が書いている。その南畝の随筆『向岡閑話』に、柴崎村の話が出てくることを、私は調べるまで知らなかった。

データベースの要約によれば、こうだ。武蔵国多摩郡芝崎村の鎮守の八幡宮の本地仏は、弘法大師の作で、霊験あらたかである。昔、火事で堂が焼けたとき、尊像はどこかへ飛んでいった。宝永のころに堂を建て直すと、境内の松の根元が輝いているので、掘るとそこから現れた。盗まれたときも、ある日突然帰ってきた。

炎の中から飛び去り、松の根元で光って見つかり、盗まれても自分で帰ってくる。ずいぶん自立した仏さまである。

この八幡神社の本地仏は、実在する。立川市の解説によれば、八幡神社は建長4年(1252)に立川氏の氏神として建てられ、天正14年(1586)と文政7年(1824)の野火で焼けた。本地仏は高さ16センチほどの金銅製の阿弥陀如来坐像で、背中の銘文から、天正14年に野火で焼けた社を再興するため、立川照重の内女おねねが奉納したことがわかる。いまは市の文化財に指定され、諏訪神社が所蔵している。この銘文の話は、この特集の古い村の一編が詳しく書いた。

ここで私は、少し考えこんだ。伝説は「弘法大師の作」と言う。銘文は、天正14年の奉納だと言う。弘法大師は平安時代の人だから、二つはそのままでは合わない。伝説は、仏さまの格を上げるために、いちばん偉い作者の名を借りたのかもしれない。それとも、銘文の仏とは別の仏の話なのかもしれない。どちらとも、私には決められなかった。

ただ、一つだけ確かなことがある。天正の野火で焼けた社のために、一人の女性が仏を納め、その仏は、その後も何度も火事をくぐって、いまも残っている。高さ16センチの阿弥陀さまが、火事のたびにどこかへ避難して戻ってきた、と村の人々が語りたくなったのも無理はない。

二つの芝崎村と、将門の首

南畝の話を調べていて、私は一度、大きな勘違いをしかけた。

同じデータベースで「芝崎」を引くと、もう一つ、怖い話が出てくる。平将門の弟、平将頼の霊が戦場にとどまって人々にたたりをなし、のちに一遍上人の流れをくむ僧が芝崎村に草庵をつくって供養した、という江戸の随筆の要約だ。おお、立川の芝崎村に将門の一族の怨霊が、と一瞬、胸が躍った。

ところが、違った。百科事典の将門塚の項目によれば、平将門の首を供養したと伝わる大手町の将門塚の一帯は、かつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれ、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。時宗の他阿真教が徳治2年(1307)に塚を整え、かたわらの日輪寺を時宗の芝崎道場に改めた。将門の伝説の芝崎村は、江戸の真ん中、いまの大手町の芝崎村だったのだ。

武蔵国には、芝崎村が二つあった。一つは多摩郡、のちの立川。一つは豊嶋郡、のちの大手町。片方には将門の首塚があり、片方には火事から飛び去る阿弥陀さまがいた。そして多摩郡の芝崎村は、明治14年(1881)に名前を立川村に改める。同じ郡にもう一つ柴崎村があってまぎらわしかったからだと、この特集の町名の一編は書いている。立川の芝崎は、名前の混乱に縁のある村だったらしい。

立川で将門の祟りを探しても、見つからない。だが、日本でいちばん有名な首塚がある大手町と、立川が、かつて同じ名前の村だったという事実は、話の種としては悪くない。

「立川」の名を背負わされた濡れ衣──立川流の伝説

立川の名がつく伝説で、立川の外でいちばんよく知られているものが、一つある。真言宗の「立川流」だ。

市の市史編さん広報紙は、この話を二回にわたって取り上げている。21号によれば、「立川流」は、醍醐寺三宝院流の祖とされる勝覚の弟、仁寛を祖とする法流である。仁寛は政争に巻き込まれて伊豆に流され、そこで弟子をとって法を伝えた。この法流が、のちに「立川流」と呼ばれることになる。

問題は、その評判だ。広く知られている「立川流」は、男女の交わりを悟りの秘術とする、いかがわしい邪教としてのものである。広報紙によれば、そのイメージを決定づけたのは、宥快という僧が1375年に著した『宝鏡鈔』だった。『宝鏡鈔』は、仁寛から法を受け継いだ「武蔵国立川の陰陽師」が邪教を始めたとして、立川流を批判した。

ところが、広報紙が紹介する近年の研究は、まったく違う姿を描いている。横浜の称名寺に伝わる史料を詳しく調べた研究者たちによれば、仁寛に始まる立川流は、真言宗のほかの法流と比べて格別に風変わりなものではなく、邪教的な思想は認められない。称名寺の初代長老で、戒律を重んじる立場の僧だった審海も、この法流を受け継いでいた。1268年の『受法用心集』が批判した邪教は、立川流とは別の集団で、史料の中では名前も挙げられず「彼の法」とだけ呼ばれていた。そして、仁寛の弟子に「武蔵国立川の陰陽師」なる人物は確認できない、と広報紙は書く。

つまり、こういうことになる。中世のある書物が、ある法流とは別の集団のいかがわしい評判を、その法流に重ね、しかも「立川の陰陽師」が始めたことにした。立川流の流れは、その批判の中で細り、江戸時代中ごろには途絶えたらしい。仁寛の弟子と武蔵国立川を結びつける説はあるものの、それもなお検討の余地があるという。

立川という土地の名が、六百五十年ほど、身に覚えのない噂を背負わされてきたのかもしれない。そして、その濡れ衣を、いま立川市の市史が、史料を一枚ずつ読み直して晴らそうとしている。市の広報紙が自分の街の名を冠した中世の伝説を、ここまで丁寧に検証している例を、私はほかに知らない。立川の人が胸を張っていい仕事だと思う。

富士を拝む塚と、古墳かもしれないお稲荷さん

伝説は、話だけでなく、地面の形にも残っている。

富士見町一丁目の富士塚公園には、塚と呼ばれる小高い山があり、頂上に浅間神社がある。市史の民俗・地誌部会がまとめた調査によれば、寛文7年(1667)の柴崎村の検地帳の写しに「ふし塚」の名がある。享和4年(1804)の柴崎村の絵図にも、山の形がはっきり描かれている。塚の上には戦前からご神木が一本立っていたが、古老の話では明治のころから枯れ木のまま立っていて、樹齢はわからない。その木が、昭和23年(1948)秋の台風で倒れた。町会の人々は諏訪神社の宮司に倒れた木を譲ってほしいと頼み、昭和25年11月に、浅間さまを祀る社を塚の上に建てた。

興味深いのは、この富士塚には富士講の伝承も記録も見つかっていないことだ。富士講は江戸時代の中ごろから流行した富士山信仰の組織で、富士塚といえばたいてい富士講がつくったものだ。調査は、富士見町の富士塚は、富士講が流行する以前から信仰されていた例の一つと考えられそうだ、と書く。富士見町の古い家では、かつて「富士向き」と称して、富士山に向けて家を建てていた、という話も聞き取られている。

この由来は、昭和27年(1952)5月に地元の人が書きとめ、昭和63年に別の人が筆で書き直した「富士塚浅間神社の生い立ち」として、西立川児童会館の玄関ロビーに掲げられていると調査は書く。その児童会館の場所は、戦後、米軍の駐留にともなう風紀の乱れから子どもを守るために、町会が建てたものだった。あのころ、塚の上には枯れ木が一本立ち、ふもとには基地の町の子どもたちの居場所がつくられた。いま、同じ公園では、11月23日に町会の人々が落ち葉を掃き、ミカンや大根やバナナを供えて、浅間さまの祭りを続けている。供え物にバナナが入っているところが、戦後の町らしくていい。

明治から枯れ木のまま立ち続けた木。富士に向けて建てた家。富士見町という町の名前は、富士山がよく見えることからつけられた。立川の人々は、ずっと西の空の山を拝んでいたことになる。

柴崎町四丁目の沢稲荷にも、地面の謎がある。市の散歩コースの案内によれば、住宅にはさまれた細い路地の奥、小高い塚の上にお稲荷さんが祀られ、長いあいだ水田の神さまとして信仰を集めてきた。いまも2月の初午の日には、近所の人々が五色の幟を立て、お供えを上げる。そして、その塚は形から、6世紀から7世紀ごろ、この地で勢力を持ち、大和政権とつながりのある人物の古墳ではないかと考えられている。

令和元年(2019)9月、市史の先史部会がこの塚を地中レーダーで探った。広報紙の12号によれば、復元した墳丘は直径20.8メートル、高さ1.5メートル以上で、周りに溝がめぐり、周辺の古墳と比べても大型の部類に入ることがわかった。広報紙は、狐塚古墳や稲荷塚古墳のように、神さまや神の使いの名を冠した塚が古墳であることは珍しくない、とも書いている。

お稲荷さんの塚の下に、千三百年以上前の誰かが眠っているかもしれない。初午の幟を立てる人々は、知らず知らず、古代の墓に花を手向けてきたことになる。狐の話がこれほど多い土地で、お稲荷さんの塚が古墳だった、というのは、なかなかよくできている。

獅子と竜と、巡りくる神さま

最後に、目で見られる伝承を少し拾っておく。

砂川の鎮守、阿豆佐味天神社の境内(2019年12月)。拝殿は文久2年に完成した総欅造り。
砂川の鎮守、阿豆佐味天神社の境内(2019年12月)。拝殿は文久2年に完成した総欅造り。
写真: Araisyohei / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons

柴崎の諏訪神社の獅子舞は、元禄年間に起こったといわれ、約300年続いてきた。市の解説によれば、雄獅子2頭と雌獅子1頭、天狗が舞い、舞は全部で12種類あって「十二狂い」と呼ばれる。全部舞うと2時間かかるといわれる。見どころは、雄獅子2頭が雌獅子をめぐって争う勇壮な舞だという。三百年前から、獅子の世界でも恋は争いの種だった。

砂川の大幟には、伝説の動物が隠れている。市の解説によれば、嘉永元年(1848)につくられた砂川十番組の大幟は、幟の長さ14.6メートル、竿の長さ約22メートルで、関東でも最大級の大きさといわれる。根元を支える木の飾り彫刻には、わが子に厳しい試練を与える故事「獅子の子落とし」が彫られている。広報紙の19号によれば、八番組の幟の彫刻は約2メートルの2頭の竜で、いまは立川市役所のロビーに展示されている。市役所の窓口に住民票を取りに行くと、幕末の竜が出迎えてくれるわけだ。

そして、もう見られなくなった伝承もある。市史の講演の記録によれば、かつて立川には、よその土地から神仏がやってくる行事があった。「平方のお獅子様」と「和泉の地蔵様」の来訪である。いまは見られない、と市は書いている。

神さまが、村から村へ巡ってきた時代があった。その時代の話は、もう語り手の記憶と、紙の上にしか残っていない。

立川に民話が残った理由

最初の問いに戻ろう。なぜ、新しい街の顔をした立川に、こんなに古い話が残ったのか。

答えの半分は、立川が長いあいだ、暗い夜と広い畑と寂しい道の土地だったからだ。狐が人を化かし、狼が人を送り、蛇が祟る話は、すべて夜道と畑と川の話だった。飛行場ができ、基地ができ、デパートが建つずっと前から、この台地には、夜を語る言葉が積もっていた。

もう半分は、それを書きとめた人々がいたからだ。江戸の文人の随筆があり、昭和の民俗学の研究会が多摩の村々を歩いて話を集め、市はそれを本にした。いまも市史の編さんが、富士塚の木の来歴を聞き取り、お稲荷さんの塚にレーダーを当て、六百五十年前の濡れ衣の史料を読み直している。

そして、なぜ私たちはそれを知らないのか。それは、立川の民話が、いちばん賑やかな場所ではなく、いちばん目立たない場所に置かれているからだと思う。乾いた川床。住宅の路地の奥の塚。公園の小山。市役所のロビー。資料館の棚の一冊の本。どれも、駅から歩いて行ける。

新宿から中央線で一本、川崎からなら南武線で一本。週末の半日あれば、大蛇の川床と、古墳かもしれないお稲荷さんと、市役所のロビーの幕末の竜を、一つの街の中で見て回れる。

残堀川に水がない日に、私は大蛇の話を思い出すだろう。三日三晩流れた血のことを。そして、乾いた石の上を、何かがまだ流れているような気がするだろう。

寄り道クイズの答え

答えは(A)芝崎村。百科事典の将門塚の項目によれば、大手町の将門塚の一帯は、かつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれていた。立川の柴崎村(芝崎村)は多摩郡にあった、同じ名前の別の村である。

訪ねる前に

  • 残堀川: 立川駅からなら、多摩モノレールで柴崎体育館駅へ出ると、立日橋のたもとで多摩川に注ぐ下流部が近い。富士見町や昭和記念公園の西側でも川沿いを歩ける。雨のあとと晴れが続いた日で、まったく違う顔を見せる。根川緑道の一編と組み合わせると歩きやすい。
  • 諏訪神社と八幡神社本殿跡: 市の散歩コース「古村を歩く」がJR立川駅南口から旧柴崎村の神社と史跡を巡る道順を示している。獅子舞が奉納される例大祭は、市の解説では毎年8月下旬。散歩コース: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004889.html
  • 富士塚公園と浅間神社: 富士見町一丁目。浅間神社の祭りは、市史の調査では毎年11月23日。
  • 沢稲荷: 柴崎町四丁目。住宅にはさまれた細い路地の奥にある。私有地に入らないよう、路地は静かに歩いてほしい。市の散歩コース「矢川から多摩川方面を歩く」に載っている: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004848/1004890.html
  • 立川市歴史民俗資料館: 立川市富士見町3-12-34。八幡神社本地仏像と諏訪神社の獅子頭(レプリカを含む)などを展示し、『続立川のむかし話』『柴崎の口承文芸』などの刊行物を頒布している。入館無料。開館時間と休館日、刊行物の在庫は市のページで確かめてほしい: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004849/1004905.html /刊行物: https://www.city.tachikawa.lg.jp/kanko/bunka/1004244/1004851.html
  • 都心と神奈川から: 新宿からはJR中央線快速で立川まで乗り換えなし(30分台)。神奈川からは、川崎からJR南武線で乗り換えなし(立川まで約1時間)。時刻と所要時間はJR東日本の公式で確かめてほしい。
  • 『柴崎の口承文芸』などの市史の刊行物は、市内の図書館でも閲覧できると市は案内している。
  • 本文で引いた立川の昔話の要約は、国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」で立川市の項として読める: https://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB/

狐の夜道を歩いたら、立川駅北口で

狐の話も狼の話も、夜道と畑の話だった。いまの立川の夜道は明るい。駅の北口に戻れば、狐に化かされる心配はまずない。

立川駅の北口から徒歩1分、立川市曙町2-14-10のエトロワビル3階に、オンザショア立川店がある。溶岩プレートを敷いたスタジオで行う、溶岩ホットヨガのスタジオだ。常温のヨガやピラティス、女性専用のキックボクササイズ、ボクササイズ、HIIT、パーソナルトレーニングもあり、ヨガだけで25種類以上のレッスンがある。

営業は8時から23時30分まで、年中無休で、曜日による違いはない。残堀川の川床を見てから戻っても、資料館で昔話の本を買ってから戻っても、寄る時間はある。

ヨガの体験レッスンは税込1,980円。60分のレッスンに、バスタオル2枚、フェイスタオル1枚、ヨガマットのレンタルが含まれる。身ひとつで寄れる。

妊娠中の人は溶岩ホットヨガには参加できないが、常温のマタニティヨガがある。医師から運動を止められている人は利用できない。

料金は https://ontheshore.jp/price/ 、店の案内は https://ontheshore.jp/ 、体験の予約は https://site.locaop.jp/C0aVK?_src=hp で確かめられる。

帰り道、もし誰かが夜道を送ってくれたら、別れ際に「ごくろうさま」と言っておくといい。立川では、それが昔からの作法らしい。

冒頭の写真: 立日橋の近くを流れる残堀川。大蛇の血が三日三晩流れた跡と伝わる川の下流部。(写真: DiKnK8713 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons)

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

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