立川は神奈川県だった。明治4年(1871)から明治26年(1893)まで約21年、立川駅も「立川村」という名も神奈川県で生まれた。三多摩はなぜ東京府へ移ったのか。玉川上水の水源、伐られた森、二人の知事の思惑、そして賛成の砂川村と反対の立川村長。東京都公文書館と立川市史の資料でたどる。
立川は、神奈川県だった。
冗談ではない。明治4年(1871)の12月から明治26年(1893)の3月まで、立川は神奈川県北多摩郡に属していた。足かけ23年、正味でおよそ21年と4か月。そのあいだに、この土地は「立川村」という名を名乗りはじめ、甲武鉄道の立川駅を迎えている。つまり、立川という村の名前も、立川駅も、生まれたのは神奈川県なのだ。
私は立川の駅前を何度も歩いているが、その事実を知ったとき、足もとの地面が少しだけ横にずれたような気がした。モノレールが頭上を走り、デッキに人があふれる、この東京都の西の中心が、かつて横浜の港を抱える県の、北の端の村だった。
では、なぜ東京へ移されたのか。誰が言い出し、なぜ明治26年だったのか。そして、そのとき立川の人びとは喜んだのか、怒ったのか。調べていくと、答えは一つではなかった。水の話があり、森の話があり、二人の知事の腹の内があり、最後に、いまの立川市を形づくる二つの村が、正反対の書類に名を連ねていた。
立川は神奈川県だった──いつからいつまで、どこまでが
まず、事実を一つずつ並べる。
立川市史編さんの広報紙『たちかわ物語』は、管轄の移り変わりを一枚の表にしている。それによれば、慶応4年(1868)6月、旧幕府から新政府への政権移行にともない、韮山代官江川英武の支配だった多摩の村々は韮山県の管轄になった。県庁は伊豆の韮山にあった。いまの柴崎町にあたる柴崎村も、北の砂川村も、伊豆に県庁を持つ県の村だったのである。
明治4年(1871)7月の廃藩置県と、それに続く府県統合を経て、多摩地域は12月に神奈川県の管轄となる。神奈川県は明治6年(1873)4月に管内を20区185番組に分け、柴崎村は「神奈川県第12区5番組」、砂川村は「第12区3番組」になった。翌明治7年の大区小区制で、柴崎村は郷地村(いまの昭島市)などとともに「第12大区4小区」、砂川村は上谷保新田(いまの国分寺市)などとともに「第12大区3小区」に組み込まれる。
明治11年(1878)11月、郡区町村編制法で多摩郡が西・南・北に分けられ、北多摩郡ができた。このあと柴崎村の住所は「神奈川県北多摩郡柴崎村」になる。いまの立川市民が自分の住所をこう書いて郵便を出したら、配達の人はたぶん二度見する。
そして明治26年(1893)4月1日、西多摩・南多摩・北多摩の三郡が、神奈川県から東京府へ移された。これが「三多摩の東京移管」である。
神奈川県だったのは立川だけではない。北多摩郡の歴史をまとめた記録を見ると、吉祥寺村も、府中の本宿村も、調布の柴崎村も、明治5年前後に次々と神奈川県へ移されている。中央線の沿線の、いま「東京の西」と呼ばれる街の多くが、そろって神奈川県民だった時代があった。
ただし、多摩のなかで東京府に残った地域もある。東京都公文書館の展示報告によれば、明治4年にいったん東京府と入間県に分かれた多摩郡は、その後まとめて神奈川県へ移されたが、多摩の東部32か村、いまの中野区と杉並区にあたる村々は、地理的にも経済的にも東京と関係が深いとして、翌明治5年に再び東京府へ移された。中野と杉並は早々に東京へ帰り、立川は神奈川に残った。
そもそも、なぜ多摩が神奈川県に入れられたのか。公文書館の報告は、外国人遊歩地の管理上の問題から神奈川県が異議を申し立て、多摩郡全体が神奈川県に移されたと書いている。百科事典の記述を借りれば、多摩郡内が横浜に住む外国人の遊歩区域に含まれる、という神奈川県知事陸奥宗光の上申によるものだという。
遊歩区域とは、開港地に住む外国人が自由に出歩いてよい範囲のことだ。立川の人びとの所属先が、横浜の外国人の散歩の範囲で決まった。県境というものは、ずいぶん意外な理由で引かれるものである。
その不思議な線引きのなかで、この土地には、いまの立川を形づくる大事なものが二つ生まれる。名前と、駅である。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
「立川村」の名前も、立川駅も、神奈川県で生まれた
明治14年(1881)3月、柴崎村は村の名を立川村と改めた。いまの立川市の名前は、ここから始まる。神奈川県北多摩郡立川村。立川という名が村の正式な名前として地図に載ったのは、神奈川県の時代だった。

写真: 木下立安 / Public domain / Wikimedia Commons
ではなぜ、長く慣れ親しんだはずの「柴崎」の名を捨てたのか。立川市の年表には理由が書かれていない。ところが、市史編さんの広報紙を読み進めると、意外なほど事務的な理由がさらりと書いてあった。その理由は、少しもったいぶって、あとでクイズにしてみる。
旅人の寄り道クイズ
明治14年(1881)、柴崎村が「立川村」へ名を改めた理由として、立川市史編さんの広報紙『たちかわ物語』が挙げているのはどれだろう。(A)中世の立川氏の名を顕彰するため(B)同じ北多摩郡にもう一つ「柴崎村」があり、紛らわしかったため(C)甲武鉄道の駅名を先に決めたため。答えは最後のページで明かす。
改名のあと、立川村は明治17年(1884)7月の区町村会法改正で「中神村外九ヶ村組合」に入れられる。いまの昭島市にある中神村を筆頭にした、十か村の組合の一員である。明治22年(1889)の市制町村制の施行で、立川村はこの組合を離れ、一つの村として独り立ちした。同じとき、砂川村は立川村の飛地などを合わせ、二つの村の境がほぼ定まった。立川村と砂川村。この二つが、のちに一つの立川市になる。
そして同じ明治22年の4月11日、甲武鉄道の新宿と立川のあいだが開業した。立川駅の誕生である。8月には立川と八王子のあいだも通じた。『たちかわ物語』の表は、駅が線路の北側に開かれ、南口ができたのは昭和5年(1930)だったと書く。いまでこそ南北に人が行き交う駅だが、最初は北にしか口がなかった。
その南口が、昭和になってもしばらく小さな口だったことは、市史編さんの広報紙『たちかわ物語』の創刊号に載った古い写真で分かる。昭和36年(1961)の駅舎は平屋建てで、南口から見た駅前は「とても狭かった」と説明がついている。昭和45年(1970)の南口のすずらん通り商店街には、まだ高い建物が少なく、昔ながらの個人商店が並んでいる。その一角には立川東映という映画館があり、のちに東映南座になった。立川には最盛期に10館もの映画館があり、「映画の街」と呼ばれた時代もあったと広報紙は書く。
北口のほうも、同じ号の表紙が昭和40年(1965)ごろの姿を伝えている。北口大通りを人と車が行き交い、中武デパートの屋上には遊戯施設が見え、通りの向かいには当時、伊勢丹があった。屋上の乗り物を覚えている人も、まだ多いのではないか。
あのころ、南口は平屋の駅舎の前の狭い広場で、北口ではデパートの屋上が子どもの遊び場だった。いま、すずらん通りには商業ビルが立ち並び、駅の上には自由通路とデッキが架かっている。明治に北口だけで始まった駅は、昭和に南口を育て、いまは南北どちらから出ても街の真ん中に立てる駅になった。
開業したとき、駅のある村の住所は「神奈川県北多摩郡立川村」である。いまの多摩の玄関口は、神奈川県の駅として生まれた。私はこの一行を、立川の人に会うたびに言いたくなる。
その年の立川村の人口は1,920人だったと広報紙は書く。いまの立川駅を一日に使う人の数と比べるのは、気が引けるのでやめておく。
公文書館の展示は、この甲武鉄道こそが、のちの東京府への移管を後押しした要因だったと紹介している。鉄道一本で、村の向く先が変わる。その話は、もう少し先で効いてくる。その前に、この土地がそもそもどちらを向いていたのかを確かめておきたい。答えは、絹と水にあった。
横浜へ向かう絹、東京へ向かう水
幕末に横浜が開港すると、生糸をはじめとする交易品が多摩から横浜へ運ばれるようになった。公文書館の報告は、それが多摩と神奈川方面とのつながりを深めたと書く。立川の北、砂川でも、明治にかけて桑苗の生産や養蚕、機織りが盛んだった。糸と絹は、南の港へ向かって流れていた。商売の目で見れば、多摩が神奈川県にあるのは、それほど不自然ではなかった。
ところが、水は逆の方向へ流れていた。
江戸のころから、東京の飲み水は玉川上水や神田上水に頼っていた。玉川上水は羽村で多摩川の水を取り入れ、四谷大木戸の水番所まで覆いのない水路で運ぶ。公文書館によれば、その水路のおよそ7割が、神奈川県のなかを流れていた。首都の蛇口の大元が、よその県にある。東京府から見れば、これほど落ち着かないことはない。
明治維新のあと、玉川上水の管理は民部省土木司から大蔵省土木寮へ移ったが、十分な管理がされず、問題が次々に起きたと公文書館の報告は書く。その一つが、水路の上を船が行き来したことだ。飲み水の上を、荷を積んだ船が通る。報告は、汚水が流れこむなどの問題も挙げている。
この通船には、立川の人びとも関わっていた。『たちかわ物語』の年表には、明治3年(1870)、玉川上水の通船事業が行われ、砂川村や宮沢新田などが参加した、とある。砂川の人たちは、江戸っ子の飲み水の上で、荷物を運ぶ商売をしていたわけだ。合理的といえば合理的である。水路があるなら船を浮かべたくなるのが人情だろう。ただ、下流で湯を沸かしていた東京の人から見れば、たまったものではなかった。
明治4年(1871)11月、東京府が上水の配水管理に関わるようになり、翌明治5年には羽村の取水堰などの水源施設も東京府へ移された。上水の水質を心配した東京府は、明治5年、水質を悪くする原因となった通船の停止を政府に求めて認められる。通船はわずか2年ほどで終わった。
東京府の心配は、それで終わらなかった。明治6年(1873)、東京府ははじめて、上水路沿いの多摩地域を東京府の管轄へ移すよう政府に打診したが、認められなかった。明治7年には文部省の司薬場に頼んで、はじめて上水の水質を科学的に調べた。明治11年(1878)には多摩川の洪水をきっかけに水源を調べ、水源地を確かめている。
そして明治19年(1886)、コレラが大流行する。東京府は上水の管理を強めるため、玉川上水の沿岸だけでなく、上流の水源地を含む西多摩郡と北多摩郡を東京府へ移したいと政府に申し出た。これも、認められなかった。
二度断られても、東京府はあきらめなかった。ただ、三度目の申し出には、何か決定的なきっかけが要った。それは明治24年の冬、多摩川の上流の山で起きる。
明治24年、伐られた森と、元日銀総裁の知事
玉川上水の水源を守るため、西多摩郡の山には、伐採を禁じた水源涵養林があった。東京府の要望によって守られてきた森である。ところが明治24年(1891)11月、神奈川県は西多摩郡の住民からの申し出を受けて、この伐採禁止を解いてしまった。
公文書館の報告は、これに衝撃を受けた東京府知事の富田鉄之助が、水源の管理を東京府に一元化するため、多摩地域の移管を目指したと書いている。
富田鉄之助という人の経歴が面白い。百科事典によれば、彼は日本銀行の初代副総裁を務め、明治21年(1888)に第2代総裁に就いた。ところが、横浜正金銀行への資金の出し方をめぐって大蔵大臣の松方正義と衝突し、持論を曲げなかったため、わずか1年7か月で総裁の座を追われている。その翌年に帝国議会の貴族院議員となり、さらに東京府知事に任じられた。中央銀行のトップを辞めさせられた頑固者が、今度は森一つのために県境を動かそうとしたのである。この人は、どうやら一度言い出したら引かない。
当初、富田が求めたのは西多摩郡と北多摩郡の二郡だけだった。水源と上水路があるのは、その二郡だからだ。ここで、もう一人の知事が口をはさむ。神奈川県知事の内海忠勝である。公文書館の報告によれば、内海は県内の政治状況を踏まえて、南多摩郡も移管の対象に加えるよう求めた。明治25年(1892)9月20日、二人の知事はそれぞれ、西・南・北の三多摩郡を移す上申書を政府に提出した。
南多摩郡には、玉川上水も水源林もない。それなのに、なぜ一緒に東京へ渡そうとしたのか。
『たちかわ物語』は、上申書に書かれた理由をこう紹介している。移管の理由は玉川上水の水量の確保と衛生で、これに当てはまるのは西・北多摩郡だけだったが、南多摩郡については、治水や風俗人情、同じ衆議院の選挙区であるといった事情から、ほかの二郡と切り離すべきではないとして対象に含めた、と。
そのうえで、広報紙は一つの見方を添える。第2回総選挙での選挙干渉の責任追及に苦しんだ神奈川県知事が、その急先鋒だった南多摩の自由党を神奈川から切り離すためだったとも言われている、と。
第2回衆議院議員総選挙は明治25年2月に行われた。内務省による激しい選挙干渉で死者まで出したことで知られる選挙である。その責任を問う声の先頭に立っていたのが、自由民権運動の拠点だった南多摩の自由党だった。厄介な相手を、水の話にまぎれこませて、隣の府へ引き取ってもらう。そう読めば、南多摩が「おまけ」についてきた理由が見えてくる。
さらに別の説もある。百科事典の多摩地域の項は、当時の政府が日清戦争に備えた海軍の増強予算を議会で通すため、軍備拡張に反対する自由党の地盤を、行政区画の変更で崩そうとしたのではないかという見方を紹介している。こちらは、あくまで説である。水の理由は公文書に書かれ、政治の理由は「ともいわれる」「という説もある」の形で残る。行政の文書は、たいてい本音を書かない。
水か、政治か。たぶん両方だったのだろう。ただ、どちらの理由で決まったにせよ、移される側の人びとが黙っていたわけではない。明治26年の2月、多摩は真っ二つに割れる。そして立川の二つの村もまた、それぞれ別の側に立った。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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