立川防災館は入館無料で地震・煙・消火・VRなどを体験できる東京消防庁の施設。その隣には、首都直下地震で官邸が使えないときに国の災害対策本部が置かれる立川広域防災基地がある。体験の内容と行き方、1922年の飛行場から防災基地へ至る来歴、風と距離と土地の理由を資料でたどる立川さんぽ特集の一編。
首相官邸が使えなくなったら、日本の災害対策の司令塔はどこへ行くのか。内閣府の答えは、短い。一番目は官邸、二番目は内閣府、三番目は防衛省。そして、そのすべてが使えないときは、立川である。
立川駅の北口からバスに乗り、昭和記念公園に隣り合う一角で降りる。そこに、国と東京都と警察と消防と自衛隊と病院と、なぜか海上保安庁までが、歩いて行き来できる距離に寄り集まった区画がある。立川広域防災基地という。首都直下地震で都心の中枢が失われたとき、国の災害対策本部は、ここにある建物に置かれることになっている。
そのすぐ隣には、子どもが消防士の服を着て記念写真を撮り、大人が地震の揺れに身をすくめる施設がある。東京消防庁の立川防災館だ。入館料は無料である。
それにしても、なぜ立川なのだろう。都心から見れば、多摩の真ん中の一つの市にすぎない。首都の予備の頭脳を置く場所なら、ほかに候補はいくらでもありそうなものだ。その問いを抱えて、まずは誰でも入れる方の建物から歩いてみる。
立川防災館の体験と行き方
立川防災館の正式な名は、東京消防庁立川都民防災教育センターという。所在地は立川市泉町1156番地の1。東京消防庁の案内によれば、JR立川駅北口の1番乗り場からバスに乗り、「立川消防署」で降りればすぐ前だ。多摩都市モノレールの高松駅からは、歩いて15分ほどかかる。

写真: 運動会プロテインパワー / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
名前のとおり、建物は立川消防署と同じ敷地にある。内閣府の配置図を見ると、ここは東京消防庁の立川合同庁舎として、第八消防方面本部、多摩指令室、立川消防署、そして防災館が一つにまとまった一角で、立川広域防災基地の一部に数えられている。つまり防災館を訪ねることは、そのまま基地の中に足を踏み入れることでもある。
東京消防庁が運営する防災館は、都内に三つある。池袋、本所、そして立川だ。前の二つは区部にあるから、多摩でこうした体験ができるのは立川だけということになる。
開館は午前9時から午後5時まで。休みは木曜日と第3金曜日、それに年末年始で、祝日に当たるときはその直後の平日が休みになる。ただし、曜日にかかわらず開く日が三つある。9月1日の防災の日、10月1日の都民の日、そして1月17日の防災とボランティアの日。阪神・淡路大震災の起きた日には、たとえ木曜日でも扉が開いている。休館日の規則より、その日付の重さが優先される。
防災館の楽しみ方には、少しコツがいる。体験コーナーは、インストラクターがツアーの形で案内する仕組みで、平日は好きなものを四つまで、土日祝日や夏休みなどは三つまで選べる。一つのコーナーはおよそ30分。午前は9時15分から30分ごとに、午後は1時15分から30分ごとに始まる。休日と夏休みはとくに混み合う、と公式は念を押している。個人でも10名以上の集まりなら事前の予約が要り、ウェブの予約は5か月先の同じ日まで、利用日の7日前まで受け付けている。
注意書きの中に、一つだけ思わず二度読みした一文があった。「飲酒されている方は、入館をお断りします」。地震の揺れを体験する場所で、酔って足元がおぼつかない人を入れるわけにはいかない。理屈はよくわかる。わかるのだが、わざわざ書かれているところに、この街の居酒屋の灯りの多さを思ってしまう。
では、素面で入った人は、この建物の中で何を体験するのか。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
揺れと煙と消火器と、消防士の服
一階には、防災ミニシアターと、地震体験室と、煙体験室がある。
地震体験室の対象は3歳以上だ。公式の説明によれば、本物そっくりの地震を体験し、地震の恐ろしさと、普段の心構えと、いざというときの行動力を身につける場所である。小学生以下は震度に制限があり、小さな子どもは体験できない。スロープが設けられていて、車いすの人も体験できる。家具の下敷きになった人を助けるための道具も紹介されている。
この地震体験のコーナーは、2026年3月20日にリニューアルした。東京消防庁は、新しいコーナーの進化を五つ挙げている。マンションの地震対策が学べること、漫画を使った演出、在留外国人にもわかりやすいこと、車いすでも楽々であること、三つのスクリーンで防災を学べること。マンションに住む人なら、自分の部屋の揺れ方を想像しながら体験することになるだろう。
白状すると、私の部屋の本棚は、まだ壁に留めていない。地震体験室の説明を読むあいだ、その本棚が何度も頭の中で倒れた。防災館は、行く前から人を反省させる施設である。
煙体験室は、年齢の制限がない。煙が充満した部屋の中で、煙に巻かれずに安全に逃げる方法を学ぶ。公式は、正しい知識と避難の方法を身につけ、冷静な判断力と確実な行動力を養う場所だと説明している。視界が閉ざされた中を、低い姿勢で、壁を伝って出口を探す。その動きを、頭ではなく足で覚えるための部屋だ。
二階に上がると、体験はより実践的になる。救出救助のコーナーは中学生以上が対象で、震災の現場をリアルな造形で再現した空間の中で、取り残された人の捜索から救出までを体験する。寝室や事務室を想定した部屋もある。消火訓練室は小学3年生以上が対象で、大型スクリーンに映し出された火災の映像を、模擬の消火器で消していく。事業所の自衛消防隊なら、本物の屋内消火栓を使った訓練もできる。応急救護訓練室は小学4年生以上が対象で、訓練用の人形を使って、胸骨圧迫の心臓マッサージとAEDの使い方を学ぶ。
VRの防災体験もある。対象は小学2年生以上で、身長が100センチ以上あること。仮想の空間の中で、地震と火災と風水害を、臨場感たっぷりに疑似体験できるという。身長制限があるところは遊園地の乗り物に似ている。ただし待っているのは急降下の歓声ではなく、水に浸かっていく街である。
自由に見て回れるコーナーも充実している。一階の「こども防災体験広場」には、サバイバルクイズや、体で覚える防災アクションのほか、「消防士に変身しよう」というコーナーがある。二階には、119番の通報を練習するコーナーや、消防ヘリのゲームもある。子どもが消防士の服を着て胸を張っているあいだ、親は隣で、自分の家の消火器の置き場所を思い出そうとしている。たぶん、そういう場所だ。
防災館を出ると、目の前に、もう一つの巨大な世界が広がっている。ここは消防の施設の集まりではない。国の予備の中枢を抱えた基地の一角なのだ。その基地は、どこから来たのか。話は、100年以上前にさかのぼる。
1922年、飛行場と病院が同じ年に生まれた
立川広域防災基地の歴史をたどろうとすると、どうしても立川飛行場の話から始めることになる。飛行場の来歴そのものは、この特集の別の記事でも触れているから、ここでは短くすませる。立川市の資料によれば、1922年の11月に陸軍の飛行第五大隊が立川へ移ってきた。内閣府の年表によれば、昭和20年9月には連合国軍、つまり米軍がここを接収し、空軍の飛行場として使った。

写真: Suikotei / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
驚いたのは、基地の中にある病院の来歴だった。国立病院機構の災害医療センターの沿革によれば、その始まりは1922年11月30日、陸軍の航空部隊に付属する医療機関として創設されたことにある。翌1923年4月には立川陸軍病院になった。戦後の1945年12月に国立立川病院として発足し、1995年7月1日、国立王子病院と統合して、今の場所に国立病院東京災害医療センターとして生まれ変わった。2004年に今の独立行政法人国立病院機構災害医療センターの名になっている。
1922年の11月といえば、立川に陸軍の飛行第五大隊が移ってきた、まさにその月である。飛行機と、それに乗る人の体を守る病院は、同じ年の同じ月に、この土地に生まれていた。100年あまりのあいだに、飛行機は軍用から米軍のものへ、そして防災のヘリコプターへと持ち主を変え、病院は陸軍の病院から国立病院へ、そして災害医療の病院へと姿を変えた。けれど、空と体を守るという組み合わせだけは、この土地を一度も離れていない。
今の災害医療センターは、455床を持つ大きな病院で、敷地は40,664平方メートルある。病院のサイトは、自らを東京都の基幹災害拠点病院と名乗り、国内外の大規模な災害に職員を派遣すると書いている。陸軍の航空部隊の医療機関として生まれた病院が、今は日本の災害医療の要の一つになっている。
では、その病院を含む広大な基地は、どのようにして防災のための土地になったのか。
返された453ヘクタールと、「二本の柱」
返還の前の、この台地の音を思い出しておきたい。三井住友トラスト不動産のこのまちアーカイブスによれば、1950年に朝鮮戦争が始まると、立川基地は米軍の極東最大の輸送基地になった。米兵相手の商売で街は景気づいたが、飛行機の騒音が問題になった。市の年表の1960年の項には、「市立第一小学校防音校舎落成」とある。校舎に防音の造りが要る空だったのだ。その空が静かになるのは、立川市の資料によれば、昭和44年、1969年の10月に米軍が立川での飛行停止を発表してからである。
いま、同じ滑走路を使う陸上自衛隊の飛行は、市の案内によれば、ふだんは平日の朝8時から夜8時まで、離着陸は一日平均でおおむね50回。土日と祝日は原則として訓練の飛行をしない。入試の日には、会場の上空を避けて飛ぶよう努めているという。あのころ、子どもたちは防音の校舎で輸送機の轟音をやり過ごした。いまは飛ぶ側のほうが、受験生に気をつかっている。
その静かになった台地の行方を、内閣府の年表で追っていく。
昭和48年4月、国は、立川の飛行場が返されたあとの土地の使い方について、国有財産中央審議会に諮問した。昭和52年11月、飛行場は全面的に返還された。このとき返された国有地は453ヘクタール、それまでの分と合わせると466ヘクタールにのぼる。駅から歩いて行ける場所に、それだけの広さの土地が、まとめて戻ってきたことになる。市の年表によれば、返還の前年の1976年には、「立川基地跡地三分割有償方式に反対市民大会」が開かれている。戻ってくる土地を、市民はただ待っていたわけではなかった。
これだけの土地を、何に使うか。昭和54年11月19日、審議会は答申を出した。内閣府の資料によれば、答申は、関係機関の要望や優れた立地を考えて、大規模な公園と広域防災基地を二本の柱とし、そのまわりに地元の市街地が健全に育つための用地を配する、という処理の大綱を示した。片方の柱が、のちの国営昭和記念公園である。もう片方の柱が、立川広域防災基地だった。
その後の動きは速い。昭和58年5月、中央防災会議が立川広域防災基地の整備を推し進めることを決めた。同じ年の10月、昭和記念公園が開園する。12月には、国と関係機関と東京都などによる立川広域防災基地整備推進連絡会議ができ、翌昭和59年8月には「立川広域防災基地建設計画の大綱」が申し合わされた。
公園と防災基地は、同じ答申から生まれた双子である。休日に芝生でお弁当を広げる家族の隣で、もう一人の兄弟は、いつ来るかわからない地震のために黙って身構えている。内閣府の資料は、基地の利点の一つとして、一時的に物資を集めたり、被災者の対策に公園も使ったりできる広い敷地を挙げている。双子は、いざというときには手を組むことになっている。
基地の広さは、平成22年3月時点の内閣府の資料で115.69ヘクタールとされている。その内訳が面白い。いちばん広いのは自衛隊の航空関係の施設で84.46ヘクタール。続いて警察の防災関係の施設が11.36ヘクタール、医療施設が4.08ヘクタール、海上防災関係の施設が3.52ヘクタール、防災要員の宿舎が3.48ヘクタール。消防防災関係の施設は3.20ヘクタール、食糧の備蓄施設は2.52ヘクタール、地域の防災関係の施設などが1.53ヘクタール、無線塔が0.10ヘクタールである。そして、国の災害対策本部の予備施設が入る立川防災合同庁舎は、1.44ヘクタールである。首都の予備の頭脳は、基地全体の100分の1あまりに収まっている。頭脳というものは、たいてい体のわりに小さい。
数字で読む 立川広域防災基地
- 115.69ヘクタール — 平成22年の内閣府の資料にある基地の総面積。歩いて一周しようと思うと、たぶん後悔する。
- 約30キロ — 都心からの距離。遠すぎず、近すぎない。同時に被災しにくく、すぐ駆けつけられる。
- 約500人・1週間 — 平成13年版の防災白書が書く、予備施設の体制。参集した要員がこの人数で1週間執務できる。
- 4番目 — 国の緊急災害対策本部の置き場所としての、立川の順番。官邸、内閣府、防衛省の次に来る。
- 3,600万円 — 平成21年度に立川広域防災基地の整備に使われた国の決算額(平成23年版の防災白書による)。首都の予備の頭脳の、ある年の手入れ代である。
- 約5,900パレット — 基地の中の都の倉庫が収められる量。もとは何の倉庫だったかは、クイズで。
旅人の寄り道クイズ
立川広域防災基地の中にある東京都の多摩広域防災倉庫。この建物は、もともと何の倉庫として国が建てたものか。
- A 米を備蓄する倉庫
- B 航空機の部品の倉庫
- C 米軍の物資の倉庫
答えは、この記事の終わり近くで。
基地の骨格はできた。だが、その真ん中に置かれる「予備の頭脳」とは、実際にはどんな建物で、どう動くことになっているのか。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
1
2



