立川の養蚕と桑畑の歴史 砂川は桑苗の生産で全国一だった、空の都の下に眠る蚕の村

立川の養蚕と桑畑の歴史をたどる散歩ルポ。大正時代に桑苗の生産量が全国一だった砂川村、宮内省に納めた苗、明治22年に農家の85%が機を織っていた村、村山大島紬の源流になった砂川太織、蚕影神社、そして桑畑の上に開かれた立川飛行場まで、立川が桑と蚕の村だった時代を市の資料でたどる。

大正時代、立川の北半分は、ある苗の生産で全国一になったことがある。

立川市のホームページの奥に、歴史民俗資料館がつくった解説の資料が10枚並んでいる。遺跡、縄文、板碑、立川氏、江戸、甲武鉄道、飛行場。その9枚目の題が「砂川の桑苗」だった。

開いてみて、二度読んだ。「砂川村は大正時代には桑苗の生産量が全国一だったこともあり、桑苗の特産地として特に有名でした」。

全国一。立川で全国一と聞けば、私は昭和記念公園の広さか、駅の人の多さあたりを思い浮かべる。桑の苗、という答えは用意していなかった。そもそも私は、桑の木を見分ける自信がない。葉の形を思い出そうとして、柿の葉と区別がつかないことに気づいた。その程度の旅人が、桑で日本一だった村を歩こうとしている。

田んぼも満足に作れなかった台地の村が、なぜ桑の苗で日本一になったのか。そして、その桑畑はどこへ消えたのか。答えを探しに、立川の北半分、砂川の村の記録をたどってみることにした。

立川の養蚕の歴史は、田んぼになれなかった台地から始まる

立川の養蚕と聞いて、まず浮かぶのは砂川だろう。市の北半分を占める砂川は、江戸の初めに五日市街道と玉川上水に沿って拓かれた新田の村である。その来歴は特集の別の回に書いたので、ここでは土の話だけをしておく。

阿豆佐味天神社の境内にある蚕影神社。猫返し神社とも呼ばれる
阿豆佐味天神社の境内にある蚕影神社。猫返し神社とも呼ばれる
写真: Quatrogatos / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

砂川の土地は、火山灰が降り積もった関東ローム層に覆われている。立川市の文化財の解説は、この土が水田に向かなかったと書く。明治の初めには水田をつくる計画の絵図まで描かれたが、実際にはあまり水田は造られなかったという。米がとれない村は、何かほかのもので暮らしを立てなければならない。

その答えのひとつが桑だった。資料館の資料は、江戸時代の享保年間(1716〜1736)には、砂川がすでに桑の産地として知られ、早くから桑苗の生産が行われていたと書いている。享保といえば八代将軍吉宗の時代である。暴れん坊将軍が江戸で改革をしているころ、砂川では桑が伸びていた。

養蚕そのものについて、資料館の「養蚕と機織り」の資料はこう書く。立川の養蚕は江戸時代中頃から盛んになり、昭和の初めころまでは農業の中心を占めていた。養蚕が行われる春から秋まで、農家の生活は蚕を中心に営まれた。家の造りも「蚕室造り」と呼ばれるものに改造された。

人の家が、虫に合わせて建て替えられたのである。

立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』も、同じことを別の角度から書く。市史の近代部会を紹介する記事によれば、幕末期より盛んとなった養蚕・織物は砂川村を中心に発展した。別の号は、明治時代を通じての立川地域の主要産業を「養蚕・織物・鮎漁など」と並べている。鉄道が通り、飛行場ができる前の立川は、桑の葉と、機の音と、川の鮎で暮らしていた。

いまの立川駅前を歩きながら、この一行を思い浮かべるのは難しい。百貨店とモノレールの下に、桑の村がいたことになる。

遠い常陸国から迎えた神様

砂川の村がどれほど本気で蚕を育てていたかは、一柱の神様が教えてくれる。

阿豆佐味天神社の境内に、蚕影神社がある。立川市によれば、幕末の安政7年(1860)に常陸国筑波郡、いまの茨城県つくば市から勧請された養蚕の神様だ。市は、遠い常陸国から養蚕の守り神を勧請するほど砂川では養蚕が盛んに行われ、村の経済を支えてきたと書く。

ちなみに、資料館の資料はこの年を「万延元年(1860)」と書き、市の文化財の頁は「安政7年(1860)」と書く。どちらも正しい。この年の3月に元号が安政から万延に改まったからだ。同じ年を二つの名で呼ぶ資料を並べて、私は一瞬、神様が二度引っ越してきたのかと思った。

蚕影神社のいまの姿と、「猫返し神社」と呼ばれるようになったいきさつは、玉川上水と砂川の回に書いた。ひとつだけ繰り返すなら、市の解説によれば、繭は鼠に食べられる害が出るので、この社は鼠除けに猫の絵のお札を出していた。蚕の村の神様の仕事には、猫の手配まで含まれていたのである。

本家の茨城の蚕影神社には、金色姫の伝説が伝わる。天竺の姫が継母に4度命を狙われ、桑の木でつくった船で常陸の浜に流れ着き、蚕に姿を変えたという話だ。伝説の中で、姫が受けた4度の受難は、蚕が「休み」をとる4度の眠りになったと語られる。

ウィキペディアがまとめた伝説の筋書きは、なかなか波乱に富んでいる。姫は一度目に獅子の棲む山へ捨てられるが、獅子は姫を襲わずに宮殿へ送り届ける。二度目は鷲や鷹の棲む山へ、三度目は不毛の島へ流され、四度目は宮殿の庭に埋められる。それでも生きのびた姫を案じた父の王が、桑の木の船に乗せて海に流した。常陸の浜で姫を救った漁師の夫婦の夢枕に、姫は立ってこう告げたという。獅子の休、鷹の休、船の休、庭の休を経て、船の中で繭をつくることを覚えた、と。

蚕の眠りの一つひとつに、獅子や鷹の名前がついている。砂川の農家が、蚕座の上で動かなくなった蚕を見て「いまは獅子の休みだ」と言ったかどうかは、記録にない。だが、そう思って眺めると、ただの虫の昼寝が、急に冒険譚の幕間に見えてくる。

この4という数は、伝説だけの話ではない。資料館の資料にも、蚕は桑の葉を食べる時期と眠る時期を4回繰り返すと書かれている。砂川の農家が毎年見ていた蚕の眠りは、遠い国の姫の苦難の数でもあった。神話と実務が、同じ数字で握手している。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

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「毎日が戦争」、蚕と暮らした砂川の一年

では、蚕の季節の農家では、何が起きていたのか。資料館の資料は、作業を順に並べている。

竹の棚に並ぶ蚕に新しい桑の葉を広げる人たち。明治末の日本の写真
竹の棚に並ぶ蚕に新しい桑の葉を広げる人たち。明治末の日本の写真
写真: Unknown photographer / Public domain / Wikimedia Commons

はきたて。卵からかえった蚕を、鳥の羽で蚕座紙の上に移す。生まれたての蚕は小さい。羽の先で掃くようにして運ぶのだ。

桑くれ、給桑ともいう。蚕には新鮮な桑の葉を与えなければならない。資料の写真には、桑の葉を摘む人と、桑の葉を食べる蚕が並んでいる。

上蔟。成長した蚕を蔟に移すと、蚕はその中で絹糸を吐いて繭をつくる。

糸引き。繭煮鍋で煮た繭から糸を出し、座繰りを回して糸枠に巻く。巻いた糸は、あげ枠に取りなおす。

書き写すだけで、ずいぶん忙しい。しかも相手は生き物で、待ってくれない。蚕という虫について調べると、さらに気が重くなる事実が出てくる。ウィキペディアの解説によれば、蚕は野生には生息せず、人の手を離れては生きられない、ほとんど唯一の家畜化された昆虫だという。野外の桑の木にとまらせても、自分で葉を探さずに餓死したり、落ちたりしてしまう。おまけに数えるときは、虫なのに「一頭、二頭」と数える。学名は Bombyx mori。ウィキペディアによれば、属名はギリシャ語で「絹糸を出す虫」、種小名は桑を意味するラテン語から来ていて、合わせて「桑を食べ、絹糸を出す虫」という意味になる。名前の時点で、桑がなければ始まらない虫なのだ。

つまり砂川の農家は、春から秋まで、自分では餌も探せず、牛と同じ数え方をする同居人を、大勢抱えていたことになる。家を蚕室造りに改めたくもなるだろう。

その忙しさを、農家の若い人たちはどう言い表していたか。『たちかわ物語』の第7号に、戦後の砂川の青年団の機関誌を読んだ記事がある。昭和29年(1954)秋の号に、青年団が開いた「女性の集い」の報告があった。家事労働の改善を話題に「余暇の善用」と題した講演が行われたが、折しも「毎日が戦争」のような蚕の最盛期で、多くの若い女性には余暇がなく、参加者は40名あまりだったという。

余暇の使い方を話し合う会に、余暇がなくて来られない。笑ってはいけないのだが、少し笑ってしまう。そして、この記録から大事なことがわかる。昭和の戦後になっても、砂川では蚕の季節が「戦争」と呼ばれるほどの仕事として、まだ続いていたのである。

獅子舞の宿と、繭の玉

蚕の季節は、村の祭りの季節とも重なった。『たちかわ物語』の第13号は、砂川の神社の獅子舞を調べた記事の中で、獅子舞の一行に宿を貸した家の話を記録している。宿の家は食事や庭や座敷を提供し、獅子舞や棒使いの子どもたちに風呂まで用意した。そして、時には養蚕の仕事を止めて宿を引き受ける家もあったという。宿を務めることは名誉とされていたからだ。

蚕は待ってくれない、と私はさっき書いた。その蚕を待たせてでも、村の人は獅子を迎えた。名誉のほうが、繭より少しだけ重かった日があったのだ。

年の初めにも蚕はいた。資料館の資料によれば、小正月のマユ玉飾りなど、養蚕に関係した年中行事が、かつてはどの農家でも行われていた。正月から繭の豊作を願い、春から秋まで蚕と暮らし、祭りの日には少しだけ蚕を待たせる。砂川の一年は、蚕の暦で回っていた。

数字で読む立川の桑と蚕

  • 4 — 蚕が繰り返す眠りの回数。伝説では、姫の受難の回数でもある。
  • 1860 — 蚕影神社が常陸国から砂川に迎えられた年。元号は二つあるが、年は一つだ。
  • 85 — パーセント。明治22年、砂川村で機を織っていた農家の割合。
  • 500 — その戸数。村じゅうで、機の音がしていた計算になる。
  • 1 — 大正時代の、砂川村の桑苗の生産量の全国順位。資料館の資料に、さらりと書いてある。
  • 40 — 昭和29年、蚕の最盛期に「女性の集い」へ来られた人の数。来られなかった人のほうが、たぶん多い。

では、その全国一の桑苗は、どうやって育てられ、どこへ運ばれていったのか。

立川の桑畑は、日本一の苗床だった

桑の苗の話に入る前に、桑の葉がなぜそれほど大事だったかを確かめておきたい。

資料館の「砂川の桑苗」の資料は、江戸時代の中頃から養蚕の技術が急速に発達し、明治時代には生糸が輸出品の上位を占めるようになったと書く。養蚕農家は少しでも多く繭をとるために知恵を絞った。そのひとつが良い桑の葉を求めることだった。桑の葉の質は蚕の育ち方を大きく左右し、良い桑の葉は蚕の食いつきも良く、繭も多くとれた。

一般に養蚕には、葉が大きく肉の厚い桑がよいとされる。そういう桑は蚕の食いつきが良いだけでなく、蚕に桑を与える作業も楽になる。葉が大きければ、摘む回数が減るからだ。農家にとって、良い桑は二重に得だった。

砂川村では江戸時代のころに、すでに「白庄土」「丸葉十文字」などの品種があったと伝えられる。丸い葉に十文字。名前だけ聞くと、桑の品種というより家紋か剣術の流派のようだ。

転機は幕末から明治にかけて訪れる。資料によれば、接木による苗の生産が確立されると、作業が簡単になり、大量生産ができるようになった。接木の方法は品種改良にも向いていて、毎年のように新しい品種が生み出された。

多摩地域は、かつて桑苗の一大産地だった。その中でも、大正時代の砂川村は桑苗の生産量が全国一になったことがあり、桑苗の特産地として特に有名だった、と資料は書く。

ここで、冒頭の謎の半分が解ける。砂川は、蚕を育てる村であると同時に、よその村の蚕のために桑の苗を育てて売る村だった。米のとれない台地で、桑の葉を自分の蚕に食べさせ、桑の苗を全国の農家に送り出す。売っていたのは「蚕の食卓」そのものである。

宮内省に納めた苗

資料には、写真が4枚添えられている。その説明文を並べるだけで、砂川の桑の百年が見えてくる。

1枚目は「桑苗の出荷(高松町・大正時代)」。高松町は、いまの立川駅の北東に広がる町だ。ビルとマンションの並ぶ一帯から、大正時代には桑の苗が出荷されていた。

2枚目は「宮内省への桑苗納入記念(大正11年)」。宮内省、つまり皇室の事務を担った役所に、砂川の桑苗が納められたのだ。その記念に写真まで撮っている。村の苗の、晴れの日である。宮内省がその苗を何に使ったのかは、資料には書かれていない。私も想像で埋めるのはやめておく。ただ、大正11年といえば、立川に陸軍の飛行場が開かれた年でもある。この年、立川の空には飛行機が来て、立川の苗は宮内省へ行った。

3枚目は「トラックで桑苗を出荷(上砂町・昭和36年)」。荷車がトラックに変わっても、桑の苗はまだ村を出ていた。昭和36年は東京オリンピックの3年前だ。

4枚目は「砂川にひろがる桑畑(上砂町・昭和54年)」。昭和54年は1979年である。インベーダーゲームがはやったころ、立川の上砂町には、まだ桑畑が広がっていた。

桑の村は、遠い昔の話ではなかった。いま40代、50代の立川市民が子どもだったころ、自転車で走った道のわきの低い木の列が、桑だったのかもしれない。柿の木と区別のつかない私が言うのも何だが。

地下に掘られた桑の部屋

砂川の桑の話には、もうひとつ意外な場所が出てくる。地面の下だ。

立川市はいま、市史の編さんを進めている。『たちかわ物語』の活動報告を読むと、民俗・地誌部会が、かつて養蚕をしていた家の協力を得て、蚕室の実測と聞き取りを行ったとある。別の号には、若葉町で「桑室」の実測調査をした、と書かれている。その桑室には、括弧書きで説明が添えられていた。「手掘りの地下横穴」。

名前のとおり桑にかかわる地下の部屋が、人の手で掘られていたのである。そこに何をどう納めたのかは、まだ刊行前の報告を待つしかない。広報紙は、現存する蚕室や桑室に関わる資料があれば市史編さん室に知らせてほしいと呼びかけている。

立川の地下に掘られた部屋といえば、特集の別の回で書いた東京うどの「うど室」を思い出す人もいるだろう。立川市は、うどの生産が始まったのは養蚕が衰えた昭和20年代からだと説明している。関東ローム層は、田んぼには向かないが、穴を掘るには崩れにくい。同じ土が、桑の部屋を抱え、のちにうどの部屋を抱えた。砂川の地面の下は、時代ごとに住人を入れ替えてきた貸し部屋のようなものだ。

だが、桑が養ったのは蚕だけではない。繭の先には糸があり、糸の先には布があった。その布の糸筋をたどっていくと、思いがけず、東京でただ一つという肩書きに行き着く。

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