立川の桜と花見の名所はどこか。根川緑道のサクラ堤、残堀川、玉川上水、泉体育館、栄緑地、昭和記念公園の31品種・約1,500本まで、見頃の目安と東京の開花の記録を添えて歩く。明治の立川駅前の「玉桜」、大正天皇の即位記念に10mおきに植えられた根川の桜から、立川の桜がなぜ水と基地の線の上に咲くのかを一次資料でたどるルポ。
明治の立川駅の前に、名前のついた桜が一本あった。「玉桜」という。駅の人にも住民にも親しまれていたらしい。
立川で花見と聞けば、たいていの人は昭和記念公園と答える。間違いではない。私もそう答えるつもりでいた。ところが市の資料をめくると、桜は公園の外の、妙な場所からばかり顔を出す。湧き水の川の土手、水の涸れやすい川の岸、江戸の上水の縁、そして米軍の貨物線が走っていた跡。
あの玉桜は、いまどこにあるのか。そして立川の桜は、なぜ、そんな場所ばかりを選んで咲くのか。花見の場所探しのつもりで始めた調べものは、思いがけず、この街の百年の地図を描き直すことになった。
立川の桜・花見の名所はどこか──見頃の目安と、一枚の地図
先に、答えを並べておく。立川市内で桜を見るなら、次の場所がある。

写真: panotest001 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
南の根川緑道は、立川市緑化推進協議会が選んだ「立川市緑の十二景」の一つ「根川のサクラ堤」で、見どころは川面いっぱいに咲く桜で、周りには立川公園や貝殻坂橋、立川崖線の豊かな緑があると市は書く。その上流の残堀川の岸にも、桜並木が続く。北では玉川上水の砂川あたりが、春に桜のトンネルになると市のウォーキングマップは書く。多摩モノレールの泉体育館駅のまわりは、会社の駅案内が「モノレール沿線の中でも有名な桜の名所」と書くほどの桜のトンネルだ。栄町には、基地の引込線の跡を歩く栄緑地があり、ヤマザクラが植えられている。そして国営昭和記念公園には、31品種、約1,500本の桜がある。
見頃は年によって違う。昭和記念公園は、サクラの見頃を3月下旬から4月中旬と案内している。気象庁が都心で続けている観測では、東京のソメイヨシノの開花日の平年値は3月24日、満開日の平年値は3月31日。ただし、ここ数年の実際の開花日は、2021年と2023年が3月14日、2024年が3月29日と、半月ほどの幅で揺れている。立川は都心から西へ離れた場所なので、都心の観測はあくまで目安にとどまる。出かける前には、公園の花だよりなど、その年の便りを確かめたほうがいい。
満開のほうも同じで、東京の満開日は2021年と2023年が3月22日、2024年が4月4日だった。2024年は、開花も満開もこの6年でいちばん遅い。入学式の写真に桜が写るかどうかは、毎年、空次第である。
歩き方の目安も置いておく。南なら、立川市のウォーキングマップのAコースがちょうどいい。柴崎市民体育館を出て、日野の渡し碑、多摩川のサイクリングロード、根川緑道、普濟寺をめぐる約4.5km、所要時間は約67分と市は書く。北なら、武蔵砂川駅から玉川上水の巴河岸跡を通って立川市役所まで歩くBコースが約3.8km、約57分。どちらも、桜の季節に歩けば花見の道になる。
こうして並べてみると、ひとつ気づくことがある。立川の桜の名所は、ほとんどが「線」なのだ。川の線、上水の線、線路の跡の線。公園ひとつを除けば、桜は面ではなく、細長く伸びている。そして公園の外の桜は、川の土手や緑道の桜なので、門も閉まる時刻も無い。その理由は、あとで分かる。まずは、いちばん古い一本から始めたい。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
明治の立川駅前に咲いた「玉桜」と、市の花コブシ
立川市の指定有形文化財に「立川村十二景」という絵がある。郷土画家の馬場吉蔵が、明治30〜40年代の立川村の様子をスケッチし、昭和の初めに色を付けたものだ。写真もまだ普及していない時代の風俗を切り取った資料として、昭和51年に市の文化財になったと市は書く。描かれているのは、立川駅と多摩川のあたりが多い。
その中の一枚に「立川駅前千本桜」がある。明治35年ごろの立川駅と桜の木が描かれていて、その桜は「玉桜」と呼ばれ、駅の関係者や住民から親しまれていたという。
立川駅が開業したのは明治22年(1889)4月11日、新宿と立川の間に甲武鉄道、いまのJR中央線が開通したときである。改札口は北口だけで、南口が開いたのは昭和5年(1930)だった、と市の歴史民俗資料館の手引きは書く。玉桜が咲いていた明治35年ごろの駅は、開業からまだ十数年、北にしか口のない駅だったことになる。北にしか口がなかったのにも理由がある。立川村は、蒸気機関車に要る水を、村の大事な生活用水だった柴崎分水から出すのをためらっていた。そこへ砂川村が用水の提供を申し出て、引き替えに駅の出入口は砂川村の側、つまり北側に設けられた。地域の来歴をまとめた資料は、そう書いている。明治の「駅前」とは、水と引き替えに開いたこの北口の前のことである。
千本桜と題しながら、市の説明が名を挙げるのは一本の「玉桜」である。絵の中に何本の桜があるのか、私はまだ実物を見ていないので書けない。ただ、駅前に名前のつく桜があったという事実だけで、私には十分に面白い。駅の前で、桜に名前をつける。いまの立川駅前で同じことをするなら、たぶんバスの行き先表示より目立たなければならない。
当時の駅前の様子は、別の資料にも残っている。駅前には汽車を待つ客のための茶屋ができ、大きな桜の木もあった。明治39年(1906)には歌人の若山牧水が立川に立ち寄り、その茶屋のあたりで一首を詠んでいる。茶屋のあった場所はいまバスターミナルになり、その一角に歌碑が立つ。ただ、その歌の季節は春ではない。その話は、秋の一編にとっておく。
明治の駅前に咲いた桜は、いまは無い。駅は橋の上の駅舎になり、北口と南口はデッキでつながった。けれども、桜という木が立川の人々の目印だった時代が、たしかにあった。
もうひとつ、立川の春を語るなら、桜より先に咲く花を外せない。立川市の市の花はコブシである。昭和49年、市民に選定を呼びかけ、市の諮問を受けた市緑化推進協議会の答申にもとづいて、市の木はケヤキ、市の花はコブシと決まった。コブシは武蔵野に原生し、春に先がけて純白の花を咲かせるから選ばれた、と市は書く。花は葉に先立って2月から3月ごろに咲き、香りがある。
桜の街の市の花は、桜ではなかった。立川の春は、白いコブシで幕を開け、桜はそのあとに出てくる。主役のつもりで楽屋に入ったら、前座がもう客席を温めていた。
コブシには、花の咲く時期に田の仕事や種まきを始めたことから、「田打ち桜」「種まき桜」と呼んだ土地もあるという。桜の名をもらった前座、というわけだ。米づくりに向かない赤土の台地の上で、市の花に田打ち桜を選んだのは、少し可笑しい。もっとも、台地の下の南の低地には水田があった。玉川上水から引いた柴崎分水の水は、台地の上の柴崎村では飲み水に、台地の下では田の灌漑に使われた。根川のほとりの沢稲荷は水田の神様だった、と市は書いている。
では、いまの立川で、桜はどこから始まったのか。いちばん古くまでたどれるのは、南の湧き水の川である。
根川のサクラ堤──大正の即位記念に、10メートルおき
根川緑道のことは、別の一編で歩いた。湧き水を集めた小さな川が埋め立てられ、緑道としてよみがえった来歴は、そちらに書いた。ここでは桜のことだけを書く。
立川市が2025年度から10年の計画として定めた「立川市緑の基本計画」に、こういう一節がある。大正天皇の即位を記念して、旧柴崎村の村民が根川の両岸、1.3kmの間に10mごとに桜を植え、のちに「東京市の桜の名所」となって、多くの文人や歌人が訪れてこの地を詠った。その後、緑道の桜並木は残堀川の緑道へと延び、今日に至る。
10mごと。この数字が、私はいちばん好きだ。村の人々は、巻き尺か縄で間をはかりながら、土手に一本ずつ苗を植えていったのだろう。即位の記念という大きな名目の下で、作業そのものはひどく地道である。祝いの気持ちを、等間隔で表した。几帳面な村だったのだと思う。
市の散歩コースの案内も、大正時代に青年たちが根川の土手に植えた桜がみごとに咲くようになり、人々がボートを浮かべて楽しむようになった、と書く。そして、緑道の終点の貝殻坂橋のあたりから甲州街道までの根川は、土の護岸で昔の姿をよく残し、桜の名所になっているという。根川緑道を整えたときも、崖線から流れ込む湧き水や、古木となったソメイヨシノの並木は、そのまま残された。
いま、何本の桜があるのか。市の資料に本数は見当たらなかった。立川の地域情報誌のサイトは、根川緑道には250本ほどの桜が植えられ、上流には主にヤマザクラが、下流には大正天皇の即位を記念して植えられたソメイヨシノの並木が続くと書いている。1.3kmの両岸に10mおきなら、計算の上では250本前後になる。百年あまりの時間を経ても、数字はそれほど離れていない。
もっとも、植えた時期については、資料によって書き方が少しずつ違う。市の緑の基本計画は大正天皇の即位記念とし、市の散歩コースの案内は大正時代に青年たちが植えたとする。一方、百科事典の根川緑道の項は、昭和10年に氾濫を防ぐ改修をした際に土手にサクラが植えられ、それ以後花見の名所になったと書く。地域情報誌のサイトは、改修工事の際に堤に桜が植えられたとしたうえで、下流のソメイヨシノを大正天皇の即位記念の並木だと説明している。大正に植えた並木があり、昭和の改修でさらに植え足された、と読めば話は合う。ただ、どの木がどちらの代の桜なのかを確かめる資料には、私はまだ行き着いていない。土手の桜は、自分の生まれ年を黙っている。
それにしても、「東京市の桜の名所」という言い方は、少しくすぐったい。立川が市になったのは昭和15年(1940)12月1日で、東京府では東京市、八王子市に次ぐ3番目の市だった。それまでの立川は町で、東京市ではない。村の土手の桜が、市を名乗る前の町の名より先に、東京の名所の列に並んでいたことになる。
緑道が整えられたときの話も面白い。百科事典によれば、平成4年から6年にかけての工事では、常緑樹が混じって陰気になっていた木々を間引き、川面に光を入れた。花見の名所として植えられていたソメイヨシノも、約半数を除伐した。残った一本一本を健やかにして、「水辺のサクラの名所」として復活させるためだったという。名所をよみがえらせるために、まず半分を切る。思い切った話だが、混み合った木を減らすと残った木がよく育つのは、植木の世界ではよく知られた理屈なのだろう。
ただし、古木には古木の苦労がある。市の緑の基本計画は、根川緑道の桜並木について、維持管理を続けることと、ボランティアによる「樹勢回復」の取り組みを施策に掲げている。都市公園のサクラの点検も、計画の中に一行ある。百年前に村の人々が植えた桜を、いまは市民が手入れしている。花見の客は、その手間の上に敷物を広げているわけだ。
根川緑道は「詩歌の道」でもあって、句碑や歌碑が並ぶ。その中に「どこよりも 小学校のさくらかな」という、やまやのぎくの句碑がある。桜の土手に立つ碑が、よその桜をほめている。名前に桜の字を持つ水原秋桜子の句碑もあるが、刻まれているのは「初日さす 松はむさし野に のこる松」。こちらは正月の松を詠んでいる。花の名所の文学碑は、意外と花に冷たい。
個人の写真紀行サイトには、根川緑道の全区間に桜が植えられ、都内でも有数の花見スポットとして知られている、という一文がある。都内有数かどうかを測る物差しを私は持たないが、少なくとも、この土手の桜が誰かの「有数」になっていることは確かだ。
昭和の根川の桜を覚えている人の言葉も、市の記録に残っている。平成4年の平和都市宣言から25年を迎えるのを機に、市が市民の戦争体験をまとめた『戦争体験記』に、富士見町で5歳のときに空襲に遭った人の寄稿がある。山中坂の防空壕がつぶれた日のことを書いたあとに、小雨が降って根川の桜のつぼみがピンク色になっていた記憶がある、と一行添えている。昭和20年の春にも、根川の桜は咲こうとしていた。
あのころの根川は、川だった。昭和47年に下流が埋め立てられるまで、湧き水を集めた水が多摩川へ流れ、土手に桜が並んでいた。いま、そこは緑道になり、下水処理場で高度に処理された水が新しい小川をつくって、その岸に同じ並木の桜が咲く。川は一度消え、桜は消えなかった。
十二景が選ばれたのは平成15年2月である。協議会は、この十二景が近い将来、市の有形文化財「立川村十二景」に続く緑の文化遺産になれば、と願いを書き添えた。明治の画家が描いた十二の景色の中に駅前の桜があり、百年後に選ばれた十二の景色の中に根川の桜がある。立川の人々は、百年ごとに十二の景色を選び直し、そのたびに桜を入れてきた。
では、その桜並木が延びていったという残堀川は、どんな川なのか。名前を聞いて、私は少し不安になった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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