「昭島」という名前の由来──昭和町と拝島村、そして中洲の大日如来
答えの半分は、拍子抜けするほど簡単だった。昭島市によれば、昭和29年(1954)5月1日、北多摩郡の昭和町と拝島村が合併し、東京都で7番目の市が生まれた。「昭島」という市名は、二つの自治体の名を合わせたものだ。昭和の「昭」と、拝島の「島」。市章も同じ年に定められ、黒地が「昭」を、内側の白地の4つの「マ」が「島」を表している。マが4つで島。そう言われてから市章を見直すと、確かにそう見えてくる。
では「昭和町」はどこから来たか。市のあゆみによれば、江戸時代から明治のはじめまで、いまの市域には東から郷地、福島、築地、中神、宮沢、大神、上川原、田中、拝島の9つの村があった。明治22年(1889)に9か村の組合村になり、明治35年に拝島村が分かれて独立した。残る8つの村が合併して「昭和村」になったのが、昭和3年(1928)である。昭和3年に生まれたから昭和村。名前を考える会議は、あまり長くかからなかったのではないかと思う。
ここで、立川が顔を出す。市の概要は、昭和に入って生糸の値段が暴落したあと、満州事変や日中戦争で戦時体制が強まるなか、「立川飛行場に近いこともあり」航空機を中心とする軍需工場と陸軍の施設が相次いで建てられた、と書く。軍の施設が集まり人口が急に増えた昭和村は、昭和16年(1941)に町になった。大正のころには市域一帯が桑畑で、蚕の卵の生産を中心に全国屈指の養蚕村だった土地が、隣の飛行場に引き寄せられるように、飛行機の町へ姿を変えていったのである。
その代表が、昭和飛行機工業だ。市の史跡めぐりの案内によれば、会社は日中戦争が始まった昭和12年(1937)に創設され、戦前は海軍系の軍需工場として青梅線沿線で最大の規模を誇った。今日の昭島駅北口の発展は、昭和飛行機の存在抜きには語れない、と市ははっきり書いている。
昭島駅の名前にも、その名残がある。市のあゆみの昭和34年(1959)の項に、短い一行がある。「昭和前駅を昭島駅に改称」。昭和前。つまり、昭和飛行機の前の駅だ。ウィキペディアの駅の項によれば、駅は昭和13年(1938)に青梅電気鉄道の「昭和前仮停留場」として生まれ、昭和飛行機が駅舎の用地を出したという。会社の門の前に駅があり、駅名がそのまま会社の前を名乗っていた。分かりやすいにも、ほどがある。
いま昭島駅の北口を出ると、広い緑が目に入る。いわゆる「昭和の森」の一帯だ。市によれば、旧本館の跡地は市立の昭和の森広場になり、「創設の地」の碑が立つ。つつじが丘通りから北へ約420メートル、72本のいちょうが並ぶ並木道があり、遊歩道としては日本有数の長さだという。その東側には、かまぼこ型の屋根の建物が並ぶ。かつての飛行機の格納庫を、いまは室内のテニススクールが使っている。飛行機を入れていた屋根の下で、いまはテニスボールが飛んでいる。飛ぶものの大きさが、ずいぶん穏やかになった。
市の案内はもう一つ、思いがけない名所を挙げている。代官山だ。室町時代に扇谷上杉氏の代官がこのあたりに館を構えていたので、後の人々が一帯を代官山と呼ぶようになったと伝えられる。令和元年(2019)6月には、その森の中に、大理石を中心とする9作品をめぐる「武藤順九彫刻園」が開園した。昭島にも代官山がある。しかも森と彫刻つきで。都心の同名の街を知る人には、ちょっとした驚きだろう。
さて、名前の残り半分、「拝島」である。こちらは簡単ではない。
平凡社の『日本歴史地名大系』は、拝島の大日堂の項で、大日堂の縁起を引いてこう書いている。本尊の大日如来は、天暦6年(952)の多摩川の洪水で中洲に流れ着き、浄土寺に安置されていた。小学館の『日本大百科全書』は拝島の項で、昔、大日尊が流れ着き、里の人がこれを堂に安置した故事が地名の由来と伝えられる、と記す。
つまり、拝島の「島」は、川の中洲のことだった。洪水の川に流れ着いた仏さまを、里の人が拝んだ。拝んだ島で、拝島。海のない街の「島」は、海ではなく川がつくった島だったのである。
もっとも、同じ『日本歴史地名大系』は、拝島村の項にこうも書く。中世には「蠅島」とも記されたという。蠅の島。早島と書かれたこともあるそうだ。仏さまを拝む島と、蠅の島。どちらの字が先かは私には決められないが、少なくとも市の名前に選ばれたのが前者で、本当によかったと思う。「蠅」の市章をマ4つで描くのは、さすがに難しい。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
拝島の大日堂と樹齢800年のフジ──滝山城の鬼門を守った寺
大日如来が流れ着いた伝説の続きを見に、拝島へ向かう。

写真: Suikotei / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
立川から行くなら、バスがいい。昭島市によれば、立川駅北口の10番乗り場から「拝島操車場行」「拝島駅行」「福生営業所行」のいずれかに乗り、「拝島大師」で降りて3分。奥多摩街道を西へ、立川の駅前から乗り換えなしで着く。
拝島公園の一角に、大日堂がある。市の史跡めぐりの案内によれば、正式な名は拝島山密巌浄土寺大日堂。天暦6年(952)の創建と伝えられ、戦国時代には、多摩川の対岸に築かれた滝山城の鬼門よけとして、北条氏の庇護を受けた。『日本歴史地名大系』によれば、もとは東寄りの大神の浄土にあり、滝山城を築いたときに、鬼門よけのため西寄りのいまの場所へ移されたという。
本尊の大日如来と、両脇の釈迦如来、阿弥陀如来は、いずれも東京都の指定有形文化財だ。仁王門に立つ2体の金剛力士像は、正和3年から4年(1314〜1315)の造立。市は、鎌倉時代の作としては温和な立像だと書く。鎌倉の仁王さまは、たいてい怒っている。ここの仁王さまは、どうやら少し穏やかだ。
境内には、拝島のフジがある。市によれば「千歳のフジ」とも呼ばれ、樹齢800年といわれる。東京都の天然記念物で、昭和31年(1956)、まだ市になって2年目の昭島市が、都の文化財に指定されたと記録している。見頃は毎年4月中旬から5月上旬。市の公式ページは、開花の様子を毎年ほとんど日記のように伝えている。2026年の春なら、3月23日に「小さいですが、つぼみをつけ始めました」。4月15日に「昨年より1週間ほど早く開花が進んでいます」。4月20日に「藤棚一面が紫色になっています」。そして5月1日に「今年の見頃の最盛期は過ぎました」。役所の頁が、ひとつの木のために40日近くも実況を続ける。800年生きた木には、それくらいの敬意がふさわしい。
フジのそばに、おねいの井戸がある。市の指定旧跡で、伝わる話はこうだ。戦国時代、滝山城主の重臣だった石川土佐守は、娘のおねいの眼病が治るよう大日堂に祈り、この清水で目を洗うと、たちまち治った。
大日堂の隣は、旧拝島村の鎮守、日吉神社だ。毎年9月の例祭の前夜に行われる榊祭は、東京都の無形民俗文化財に指定されている。市の文化財の一覧には、大日堂の境域と日吉神社の境域が、あわせて都の史跡として並ぶ。仏さまの堂と神さまの社が、ひとつの境内のように隣り合っているのは、神仏分離の前の姿をいまに残しているからだろう。
少し歩けば、拝島大師がある。正しくは本覚院。市によれば天台宗で、元三大師ともいい、天正6年(1578)の創建。正月2日と3日の縁日は、「だるま市」として古くから有名だ。大日堂のまわりには、滝山城主の重臣が建てたと伝わる大日堂八坊のうち、円福寺、普明寺、本覚院がいまも残っている。
もうひとつ、拝島には覚えておきたい社がある。拝島天神社だ。市によれば祭神は菅原道真で、文禄年間(1592〜1596)に、国立市の谷保天満宮から分霊してまつったと伝えられる。昭島の天神さまの実家は、立川の東隣、国立にあるわけだ。立川をはさんで、西の拝島と東の谷保が、400年以上前から天神さまの縁でつながっている。
ところで、昭島市はこの拝島のあたりを歩く「史跡めぐりAコース」を用意していて、その案内に消費カロリーまで書いている。所要約2時間、距離約3.2キロ、消費エネルギー約441キロカロリー(別の頁では約411キロカロリー)。計算は、厚生労働省の基準にある「メッツ」という運動の強さの単位を使い、体重60キロの人を想定している、とわざわざ式まで示す。文化財めぐりにカロリー表示。仁王さまも、まさか自分が健康づくりの道具になるとは思っていなかったはずだ。もっとも、その数字のおかげで、だるま市の帰りに何を食べても許される気がしてくる。それが市の狙いかどうかは、知らない。
立川とつながる水と鉄路──九ヶ村用水、柴崎分水、五日市鉄道
昭島を歩いていると、何度も立川の名前に出会う。それも、看板ではなく、水路と線路の上で。
ひとつめは、水だ。昭島市の多摩川自然散策コースの案内は、その起点に「九ヶ村用水取水口跡」を置いている。江戸時代以来、昭島と立川の両市域の水田をうるおしてきた、通称「立川堀」の多摩川の取水口だ。水門の脇には水神の石碑が建つ。昭和8年(1933)には、取水口から引く水が少なくなったため、新たに昭和用水堰がつくられ、多摩川と秋川の水を取り入れて昭和用水、つまり立川堀に流した。いまも市域の水田をうるおしているという。立川の根川と多摩川の回で書いたとおり、拝島から来るこの九ヶ村用水は、立川の根川にも流れこんでいた。立川の田んぼの水は、昭島の河原から来ていたのである。
ふたつめも、水だ。昭島の北を流れる玉川上水の松中橋の南詰に、小さな取水口が並んでいる。市の案内によれば、砂川分水は明暦3年(1657)、柴崎分水は元文2年(1737)の開通で、それぞれ砂川新田と柴崎村、つまりいまの立川市の開発に役立った。立川の玉川上水と砂川を歩いた回で、短冊形の砂川の村を育てた分水をたどった。その水の入口は、実は昭島の側にあった。
同じ案内には、もうひとつ気になる一文がある。美堀橋を過ぎると両岸の林が切れ、上水は約300メートル暗渠になる。第二次世界大戦中、上水の南にあった飛行場の滑走路が延ばされたときにふたをした名残だ、という。江戸の水道の上に、滑走路が延びた。昭島の土地には、飛行機の時代の痕跡が、思いがけない形で残っている。
みっつめは、鉄路だ。立川市の年表の昭和5年(1930)の項には、「五日市鉄道が立川まで開通。立川駅南口開設」とある。立川駅の南口は、五日市鉄道を迎えるために開いたのだ。その線路は、どこから来たのか。昭島市の史跡めぐりBコースに、「大神駅跡」がある。昭和5年から昭和19年(1944)まで走っていた五日市鉄道の駅の跡だ。多摩川自然散策コースの案内は、戦前、五日市鉄道の武蔵田中駅から多摩川の堤防まで砂利を運ぶ線路が敷かれていたとも書く。拝島から昭島の南を抜け、立川の南口へ。いまは無いこの線路が、立川の南口の生みの親だった。毎日南口を通る立川の人のうち、それを知っている人がどれほどいるだろう。
そして、いちばん大きな縁が、あの公園だ。国営昭和記念公園は、公園の公式案内によれば、立川市と昭島市にまたがっている。公園には、東中神駅から歩いて約10分の「昭島口」というゲートもある。立川の誇りとして語られることの多い公園は、立川と昭島の二つの市が分け合っている庭なのだ。昭和52年(1977)、立川基地の全面返還の年に、東京都と立川市、昭島市が基地跡地の利用計画をまとめたことは、立川の基地の歴史を追った回でも書いた。
最後に、多摩川の河原のことを書いておく。アキシマクジラの出土地は、多摩川自然散策コースの途中にある。同じコースの案内には、八高線の列車事故の慰霊の場も載っている。昭和20年(1945)8月24日の朝、豪雨の鉄橋の上で列車が正面衝突し、客車が川に落ちて、少なくとも105名が亡くなった。平成13年(2001)には事故車両の車輪が川から引き上げられ、展示されている。クジラが眠っていた河原は、80年前の夏の悲しみを抱えた河原でもある。歩くときは、少しだけ足を止めたい。
立川と昭島の行き来は、用水や線路よりも、もっと暮らしに近いところにもあった。昭島市の年表をめくると、昭和のあいだ、ある「立川」の名前が何度も出てくる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。




