立川の銭湯は、都の資料でいま3軒。八王子より多いと聞けば、市民でも驚くだろう。6円から600円へ上がった入浴料と、それを今も決める戦後の勅令、家に風呂が無かった昭和の暮らし、市制の年に生まれた湯、薪の湯と生まれ変わった湯、銭湯の作法まで、立川の湯けむりを資料でたどる。
10月10日は、銭湯の日である。1010と書いて、セントウと読む。東京都浴場組合のウェブサイトのアドレスにも、ちゃんと1010が入っている。語呂合わせにここまで本気の業界を、私は他に知らない。
その銭湯の日に、私は立川の銭湯を数えてみることにした。
東京都の資料によれば、令和7年(2025)12月末の時点で、立川市の公衆浴場、つまり銭湯は3軒。少ない、と思うだろうか。ところが同じ表で、隣の八王子市は2軒、青梅市と小平市と日野市は0軒である。多摩の市の中で、立川は銭湯が多いほうの街なのだ。
駅前にデパートとモノレールが並ぶ街に、昔ながらの湯屋が、多摩のほかの市より多く残っている。立川に住んでいる人でも、これを知っている人は少ないだろう。なぜ、ここには湯が残ったのか。その問いを抱えて、私は湯けむりの来歴をたどることにした。
立川の銭湯はいくつある──都の名簿で数えると3軒
まず、数えるところから始めたい。
東京都浴場組合が公開している銭湯の地図で「立川市」を開くと、3件が出てくる。羽衣町の美保湯、同じ羽衣町の松見湯、そして高松町の立川湯屋敷 梅の湯だ。美保湯には「休業中」の印がついている。最寄り駅は、美保湯と松見湯が南武線の西国立、梅の湯が中央線の立川である。
組合の地図には、銭湯ごとに「お遍路番号」が振られている。都内の銭湯を巡る人のための通し番号で、立川市の欄は梅の湯が1番、美保湯が3番、松見湯が4番だ。
では、2番はどこへ行ったのか。
組合が公開している廃業のリストを開くと、答えがあった。2017年の地図の発行後に廃業した銭湯の一覧に、立川市の2番、高砂湯の名がある。住所は柴崎町2丁目。駅の南口から歩いて10分ほどの湯だ。サウナの記録を集めたサイトには、この湯が2023年6月末で店を閉じたと記されている。
ちなみに、同じ廃業のリストを「立川」で検索すると、もう一軒ひっかかる。墨田区立川の大正湯だ。東京の東の端には、立川という名の町がある。立川の湯を調べていたはずが、隅田川の向こうの湯の閉業まで知ることになった。地名の検索は、ときどき思わぬ寄り道をさせる。
都の資料に戻ろう。平成27年(2015)12月末の表では、立川市の銭湯は4軒だった。10年で1軒減って、3軒。それでも八王子より多い。
東京全体で見ると、減り方はもっと激しい。都の資料によれば、都内の銭湯がいちばん多かったのは昭和43年(1968)の2,687軒で、戦後の最多だ。それが令和7年(2025)には417軒。昭和43年を100とすると、15.5まで減った。多摩の市部に限れば、279軒が35軒になっている。8軒に1軒しか残っていない計算だ。
その35軒のうちの3軒が、立川にある。多摩の銭湯のおよそ12軒に1軒は、立川の湯ということになる。
数え終えたところで、次の疑問がわく。これだけ減った銭湯の値段は、いったい誰が決めているのか。調べてみると、その答えは、思いがけず古い法令の中にあった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
6円から600円へ──戦後の勅令が、いまも湯の値段を決めている
東京都浴場組合は、都内の入浴料金の移り変わりを一覧にして公開している。最初の行は、昭和23年(1948)3月5日。大人6円、中人4円、小人2円。
最後の行は、令和8年(2026)8月1日。大人600円。
ちょうど100倍である。78年かけて、桁がふたつ増えた。
一覧をたどると、昭和の暮らしの手ざわりが、数字の向こうから浮かんでくる。昭和23年の8月には、もう10円に上がっている。昭和40年(1965)に28円、昭和50年(1975)に100円。昭和49年から50年にかけては、75円から100円へ、1年で3割以上も上がった。石油危機の時代の値上げだろう。
一覧には、もうひとつ、いまでは見かけない欄がある。洗髪だ。昭和23年には、大人の入浴料とは別に、髪を洗うのに6円かかった。入浴料と同じ値段である。のちに10円になり、昭和40年からは5円に下がり、昭和45年(1970)5月1日からは取られなくなった、と組合の説明は書いている。
髪を洗うのに別料金。いまの若い人には冗談に聞こえるかもしれない。けれど、昭和の銭湯では、それが当たり前だった。番台で入浴料に洗髪の分を足して払う人が、どこの街にもいたはずだ。
では、この値段は誰が決めるのか。東京都のウェブサイトは、こう説明する。公衆浴場の入浴料金は、物価統制令に基づき、都道府県の知事が上限を「統制額」として指定する仕組みになっている。都は、公衆浴場の会計を調べ、東京都公衆浴場対策協議会で関係者の意向を聞いたうえで決めるという。組合の説明では、協議会が銭湯の決算書をもとに原価を計算し、知事が告示する。湯の値段は、湯屋の主人の気分では決まらない。帳簿で決まる。
物価統制令。百科事典によれば、昭和21年(1946)3月、終戦直後のインフレを抑えるために出された勅令だ。食べ物も着る物も、あらゆる値段を国が決めた時代の名残である。その統制は経済の復興とともに次々に外され、米の値段は1972年に、工業用アルコールは2001年に対象から外れた。そして2002年以降は、公衆浴場の入浴料金だけが残っている、と百科事典は書いている。
つまり、日本でいま、戦後すぐの勅令で値段が決まっている品物は、銭湯の湯だけなのだ。
ちなみに、組合は都内のどの銭湯でも使える共通入浴券を、大人用10枚つづり5,400円で売っている。1回あたり540円。勅令で決まった上限の値段を、回数券で少しだけ下回る。銭湯好きの節約術としては、これがいちばん合法的だろう。
風呂に入るたびに、私たちは昭和21年の法令に従って600円を払っている。番台の向こうにいるのは、湯屋の主人だけではない。終戦直後の経済の記憶が、ひっそりと座っている。
それほど公の手で守られてきた湯が、なぜここまで減ったのか。答えは、昭和の家の中にあった。
数字で読む 立川の銭湯
- 3 — 立川市の銭湯の数(2025年12月末、都の資料)。隣の八王子は2。人口の差を考えると、立川はなかなか健闘している。
- 2,687 — 昭和43年の都内の銭湯の数。戦後でいちばん多かった年だ。
- 417 — 令和7年末の都内の銭湯の数。57年で、およそ6分の1になった。
- 6 → 600 — 昭和23年と令和8年の大人の入浴料(円)。ちょうど100倍。私の給料は、残念ながらそうなっていない。
- 42.2 — 昭和43年、都内で家に風呂があった世帯の割合(%)。半分以上の家には、風呂が無かった。
- 1万 — 梅の湯の休憩室に置かれた漫画の数(組合の紹介による)。湯冷めする前に読み終えるのは無理である。
旅人の寄り道クイズ
昭和の東京の銭湯で、入浴料とは別にお金を払っていたものは何だろう。
- 石けん代
- 洗髪代
- 湯上がりの牛乳代
答えは、この記事の終わり近くで明かす。
だが、湯の値段の話だけでは、立川の銭湯の素顔は見えてこない。次は、湯屋の暖簾の向こうにあった、昭和の暮らしをたどってみたい。
家に風呂が無かったころ──昭和の銭湯の暮らし
都の資料には、銭湯の数と並んで、もうひとつの数字が載っている。自家風呂の保有率だ。総務省の住宅・土地統計調査によるもので、昭和43年(1968)の都内は42.2%。家に風呂がある世帯は、半分に届かなかった。それが昭和53年に64.7%、昭和63年に83.1%、平成10年に94.1%、平成20年に97.6%と増えていく。

写真: VVVF / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
家に風呂ができるほど、銭湯は減った。数字の動きは、ほとんど裏表になっている。
同じ資料は、銭湯1軒あたりの1日の利用者の数も推計している。昭和43年は530人。平成20年には124人まで減った。530人が一つの湯に入る光景を思い浮かべてみる。夕方の脱衣所は、たぶん駅のホーム並みの混み方だっただろう。
立川の街にとって、家の風呂は、水道と下水道の歴史でもある。市の年表によれば、立川市が上水道の事業を始めたのは昭和26年(1951)、下水道の事業を始めたのは昭和36年(1961)だ。蛇口から水が出て、使った水を流せるようになって、ようやく家の中に湯船を置けるようになる。それまでの立川の人々にとって、湯に浸かるとは、銭湯へ行くことだった。
そもそも東京の銭湯は古い。組合の説明によれば、江戸で最初の銭湯は、天正19年(1591)、伊勢から来た与市という人が、いまの常盤橋のあたりにあった銭瓶橋のほとりに建てた銭湯風呂だと記録にある。徳川家康が江戸に入った翌年のことだ。17世紀の初めには、町ごとに風呂があると言われるほどに広まった。400年あまり続いてきた湯の文化が、昭和の後半の数十年で、急に細くなったことになる。
昭和の銭湯の道具で、いまも残っているものがある。黄色いプラスチックの湯桶、ケロリンだ。組合の説明によれば、鎮痛剤の広告が入ったこの桶は昭和40年ごろに売り出され、使いやすいうえに広告が入っているぶん安く買えたので、銭湯で急速に広まった。それまでは木の桶が主流だったという。立川の湯で桶を手に取ったら、底をのぞいてみるといい。昭和40年の広告が、まだ現役で働いているかもしれない。
壁の富士山も、昭和の銭湯の顔だった。組合によれば、都内の銭湯の富士山などの背景画は、いまは数人の絵師が描いている。あの大きな壁を、開店前の5時間ほどで仕上げてしまうという。ただし、改装した銭湯では、背景画を残すところは少なくなった。組合の地図を見ると、立川の美保湯と松見湯には「ペンキ絵」の印がついている。立川の湯の壁には、まだ絵が残っているらしい。
屋号の話も面白い。組合が平成27年(2015)に都内の銭湯の屋号を数えたところ、1位は「松の湯」で17軒、2位が「栄湯」と「寿湯」の13軒だった。松竹梅や鶴亀のような縁起のいい名前が目立つという。立川の湯の名前を並べてみる。松見湯、梅の湯。そして閉じた高砂湯。高砂は、婚礼で謡われる謡曲の名でもある。立川の湯屋の主たちも、縁起を担ぐことは忘れなかった。ただ、松の湯そのものは、立川には無い。松を見る湯はあるのに。
あのころ、銭湯は家の風呂の代わりだった。夕方になると、桶を抱えた人々が湯屋へ向かい、番台に小銭を置き、ついでに髪を洗う5円を足した。いま、立川の銭湯に来る人は、家の風呂が無いからではなく、家の風呂では足りないものを求めて来る。広い湯船、水風呂、露天、そして知らない人と同じ湯に浸かる、少しの照れくささ。
その変化を、湯屋の側はどう生き延びてきたのか。立川で最も古い湯の来歴をたどると、面白い偶然に行き当たった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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