立川のライブハウスと音楽の街を一次資料でたどる。南口の地下に並ぶ20年選手の店、元キャバレーの扇形の舞台、立川に65年いた航空自衛隊の音楽隊、TM NETWORKの「TM」が多摩だった話、昭和記念公園に6万人が集まった夏、横田のジャズが来る音楽まつりまで、名乗らない音楽の街の素顔。
1983年、立川で育った二人を含む三人組が、自分たちの名前を決めかけていた。TAMA NETWORK。
ところが、その一人が言った。多摩はカッコ悪くない? 多摩を名前に入れたいと言い出したのも多摩の人なら、却下したのも多摩の人である。こうして「TAMA」は二文字に縮められ、TM NETWORKが生まれた。公式には、TMはタイムマシンの略ということになった。
立川は音楽の街か、と聞かれて、うなずく人はたぶん少ない。音楽の街を名乗る街は、中央線の沿線にいくつもある。立川がそう名乗ったという話を、私は聞いたことがない。
それなのに、調べていくと、この街の地下や基地のフェンスの内側や、広い公園の芝生の上に、音楽の痕跡がいくらでも出てくる。どうやら立川は、音を鳴らしてきたのに、名前だけは名乗らずにきたらしい。なぜなのか。その問いを抱えて、私は南口の地下へ降りていくことにした。
立川のライブハウスはどこにある──南口の地下に、20年選手が三軒
立川のライブハウスを探すなら、まず南口に出るといい。駅の南側、歩いて数分の範囲に、20年前後続いている店が三軒ある。そして三軒とも、地面の下にある。

写真: An azalea / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
一軒目は、柴崎町3丁目のA.A.COMPANYだ。地元の人は短くAAとかAACと呼ぶ。立川経済新聞の2007年の記事によれば、店は2001年に開いた。ジャズやロックだけでなく、オールディーズ、ディスコ、ハワイアン、お笑いまで、ジャンルを問わず舞台に上げてきた。店の広さは約30坪。公式サイトは、南口から徒歩5分と書いている。
二軒目は、錦町のHeart Beatだ。公式サイトによれば2005年の開業で、ここで結成したり出演したりしていたバンドや歌い手の何組もが、メジャーの世界へ進んでいったという。南口から徒歩3分、無人の練習スタジオが入る建物の地下1階にある。出演の予約だけでなく、店を借りての企画ライブやパーティーにも使え、初めて舞台に立つ人も歓迎すると公式サイトは書いている。メジャーへ進んだ人と、今夜はじめてマイクの前に立つ人が、同じ地下の板を踏む。
三軒目は、同じく南口から徒歩3分ほどのBABELだ。正式にはBABEL The Rock Towerという。公式サイトによれば2008年に開き、300人以上が入るホールに、横8メートル、奥行き5メートルのステージを持つ。地下に、バベルの塔。天に届こうとして叶わなかった塔の名を、わざわざ地面の下に付けた人の気持ちを、私は少し考えてみたが、よくわからなかった。わからないけれど、嫌いではない。
この三軒に通ったバンドの中には、のちに名を知られた者もいる。2010年に高校の軽音楽部の4人で結成されたロックバンドは、立川のライブハウスを拠点に活動を始めた、と百科事典は書いている。その話は、立川ゆかりの人々を訪ねた別の回に譲る。
三軒とも地下にあるのは、偶然ではないのだろう。大きな音は、地面の下に閉じこめるのがいちばん穏やかだ。駅前の雑踏を歩いている人は、自分の足の下で、いまこの瞬間にもギターが鳴っているとは思わない。立川の音楽は、まず地下で鳴っている。
では、なぜ南口のこの界隈に、地下の舞台が残ったのか。手がかりは、一軒目の店の舞台の形にあった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
元キャバレーの扇形の舞台──A.A.COMPANYと、基地の街の夜
ライブハウスを紹介するウェブサイトの2020年の取材記事に、A.A.COMPANYの店長の話が載っている。それによれば、この物件はもともとショーパブ、つまりキャバレーだった。扇形の舞台や内装の一部は、その名残だという。店の公式サイトも、昔キャバレーだった場所を活かした、ミュージシャンライクな空間、と自己紹介している。
キャバレーの舞台で、いまはロックが鳴っている。扇形の舞台は、もとは踊り子や歌手が客席の三方から見えるように作られたものだろう。その同じ扇の上に、いまは高校生のバンドやブルースの弾き語りが立つ。
なぜ立川の駅前に、キャバレーの舞台があったのか。答えは、街の来歴の中にある。三井住友トラスト不動産の街の記録「このまちアーカイブス」によれば、戦後、立川飛行場は米軍に接収され、立川は基地の街になった。昭和30年代から40年代の北口の写真には、基地の正門から北西へのびる通りの商店会が写っていて、そこには米兵向けのバーやキャバレーも多かったと説明が添えられている。昭和30年代に入ると、将兵の減少や雇用の縮小で、基地の経済的な影響は少しずつ小さくなっていった、と同じ記録は書いている。
基地の街の夜には、音楽が要った。百科事典の「進駐軍クラブ」の項目は、音楽史研究者の内田晃一の記述を引いて、東京と横浜のほか、横須賀、立川、府中、横田など各地の米軍施設で日本人のバンドが活動していたと書く。同じ項目によれば、横須賀の基地のクラブには、連日100人を超える日本人のジャズ演奏家が出演したという。立川の基地のステージに立ったバンドマンたちの話は、基地の街の文化をたどった別の回でも少し書いた。ここで考えたいのは、その夜の音が、どこへ行ったのかということだ。
取材記事の中で、店長は面白いことを言っている。この店のディスコの夜には、発足のときから通う70代の常連がいる。客の年齢の幅が広いのは、立川が米軍基地の街だった影響もあるかもしれない、と。
断定はしていない。ただ、そう言いたくなる気持ちはわかる。立川経済新聞の記事によれば、2007年ごろ、この店の毎月第1金曜の「ディスコナイト」には、毎回60人から70人が集まり、参加者は40代から50代が圧倒的だった。約30坪の店内は、いつも満員だったという。計算すると、1坪に2人。踊るには、かなり窮屈だ。それでも人は来た。
同じ記事には、もっと遠くから来る人の話もある。インドネシアのダンドゥットというリズムに合わせて踊るライブは、それまでの4回とも70人から80人が集まり、埼玉からの参加者もいた。店の人は、ただ聴くより、自分も歌ったり踊ったりできる参加型のライブに人気がある、と話している。立川の地下で、インドネシアのリズムに合わせて、埼玉の人が踊る。基地の街の夜が、いつのまにか、ずいぶん多国籍な形で受け継がれている。
あのころ、キャバレーの扇形の舞台では、米兵のために誰かが歌っていた。いま、同じ形の舞台の前で踊っているのは、70代になった立川の常連たちだ。客席の顔ぶれは入れ替わった。舞台の形だけが、残った。
地元の人が書いた古いホームページには、この店を訪ねたときの戸惑いが率直に書かれている。昼はランチの看板が出ていて、インド人のコックがタンドールでナンを焼く。サラダとナンかライスがついて700円。普段はカレー屋だが、本当は結構有名なライブハウスなのだ、と書いたあとで、その人は一言で締めくくる。まったく理解不能な店だ。
私もそう思う。ナンを焼く窯と、ドラムセットが同じ地下にある店を、私は他に知らない。けれど、店のモットーは「ジャンルの壁をぶち壊す」だと店長は話している。カレーとロックの壁も、その中に入っているらしい。
キャバレーの舞台を受け継いだ店があるなら、基地そのものが残した音楽もあるはずだ。調べると、それは意外な人々の姿で見つかった。制服を着た音楽家たちである。
1958年、空の音楽隊が立川にやって来た──航空中央音楽隊の65年
昭和33年(1958)の夏、立川にひとつの音楽隊がやって来た。

写真: Doricono / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
航空自衛隊の航空中央音楽隊の沿革によれば、その年の1月、静岡の浜松基地で18人の音楽隊が仮に編成された。7月25日、中央への進出が認められ、立川分屯基地に移った。昭和36年(1961)には防衛庁長官の直轄の「航空音楽隊」となり、翌年2月、新宿の厚生年金会館で第1回の定期演奏会を開いた。
1958年の立川には、まだ米軍の基地があった。フェンスの向こうでは、米軍のクラブで日本人のバンドがジャズを演奏していた時代だ。そのすぐそばで、日本の空の部隊が、吹奏楽の練習を始めた。基地の街の音楽は、米兵のためのダンス音楽だけではなかったのである。
この音楽隊の沿革を読んでいくと、立川で暮らした年月が、そのまま日本の吹奏楽の年表に重なっていく。昭和39年(1964)の東京オリンピックでは、開会式と閉会式などで演奏した。昭和47年(1972)には、編曲家の岩井直溥が手がけた「ブラスバンド・プレイズ・ブラス・ロック」などのアルバムで演奏を担当した。百科事典は、これを日本の吹奏楽ポップスの先駆けと書いている。学校の吹奏楽部でポップスを吹いた覚えのある人は多いだろう。その源流のひとつは、立川の分屯基地の練習室で鳴っていたことになる。
昭和57年(1982)、名前が航空中央音楽隊に改まり、隊長以下70人の編成になった。平成4年(1992)には、アメリカのスーザ財団が世界の優れた軍楽隊に贈る賞を、アジアで初めて受けた。平成8年(1996)には、立川に新しい庁舎ができた。
立川にいたころの音楽隊は、海の向こうにも出かけている。平成11年(1999)には、カナダのハリファックスで開かれた国際的な軍楽祭に、自衛隊の音楽隊として初めて参加した。同じ年、アメリカの首都ワシントンでは、アメリカ空軍の軍楽隊と共演している。基地の街の楽隊が、太平洋を越えて、基地の主だった国の空軍の楽隊と同じ舞台に立つ。立川から見ると、ずいぶん遠回りの再会である。
平成27年(2015)には、動画サイトが主催する大きな催しの音楽祭にも出演した。国家行事の式典で国歌を演奏する楽隊が、画面を流れる書き込みの中で吹奏楽を鳴らす。制服の音楽家たちの守備範囲は、私が思っていたよりずっと広い。
航空隊なのに、空は飛ばない。地上で、楽器を構える。名前と仕事の食い違いは、ちょっと可笑しい。けれど、空を飛ぶ人々の式典や士気を音で支えるのが、この部隊の任務だという。
そして令和5年(2023)の春、音楽隊は府中基地に建てられた新しい庁舎へ移った。浜松から来て、立川で65年。立川を離れたのは、つい3年前のことだ。駅前を歩く人の多くは、この街に半世紀以上、日本の空の音楽隊が住んでいたことを知らない。私も、調べるまで知らなかった。
あのころ、立川の空には米軍の輸送機が飛び、地上では日米の楽隊がそれぞれの音を鳴らしていた。いま、分屯基地の空は静かで、音楽隊の練習の音は府中から聞こえてくる。街の音楽は、ときどき引っ越す。けれど、その音を最初に響かせた場所は動かない。
数字で読む 立川の音楽
- 2001 — A.A.COMPANYが開いた年。キャバレーの扇形の舞台は、それより古い。
- 8×5 — BABELのステージの横と奥行き(メートル)。地下にしては、ずいぶん広い塔である。
- 65 — 航空中央音楽隊が立川分屯基地にいた年数(1958〜2023)。生まれた子が定年を迎える長さだ。
- 2 — TM NETWORKの3人のうち、立川で育った人数。多摩の名を却下した一人も、その中にいる。
- 6万2200 — 1998年の夏、昭和記念公園のコンサートに集まった人の数(百科事典のまとめによる)。
- 約220 — 立川いったい音楽まつりの出演団体の数。客より演者が多い時間の会場も、あるに違いない。
旅人の寄り道クイズ
航空自衛隊の航空中央音楽隊は、立川分屯基地に何年いただろう。
- 約15年
- 約40年
- 約65年
答えは、この記事の終わり近くで明かす。
だが、立川の音楽の話で、いちばん遠くまで届いた音は、制服の音楽隊でも地下のライブハウスでもなかった。それは、名前を隠したまま全国に広がった。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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