立川の子どもは昭和をどう遊んだか。砂川の着物の制服「カラスの学校」、基地の中にあった2,000人の小学校、2万人の子が招かれたクリスマスと3.5トンの飴、駄菓子屋「デモ屋」、デパートの屋上と銀座通りのローラーゲーム、そしていまの児童館と子ども食堂と議場の子どもたちまで、市史と街の声でたどる。
昭和28年(1953)の暮れ、立川の基地で、子どもたちのためのクリスマスパーティーが開かれた。見込まれた参加者は2万人を超え、用意されたキャンディーは3.5トンあった。
3.5トン。私はこの数字を何度か読み返した。小型のトラックに積んでも、たぶん一度では運べない。飴の山である。それを、サンタクロースが子どもたちに配ったという。立川市の市史編さん室が出している広報紙が、市民から寄せられた古い文書の中から、そのときのプログラムを見つけている。
立川で子ども時代を過ごした人は、ときどき、ほかの街の人には通じない話をする。フェンスの向こうの英語の看板。日曜日の銀座通り。名前の妙な駄菓子屋。それらの話を一つずつ資料で確かめていくうちに、私は一つの問いに行き当たった。
1961年、立川には、2,000人を超える子どもが通う小学校があった。けれども、市の年表で学校の開校を順に追っても、その学校の名前は出てこない。その学校は、どこにあって、どこへ消えたのか。立川の子どもの昭和を、少し遠回りしながらたどってみる。
立川の子どもの歴史は、着物の制服から始まる──砂川の「カラスの学校」
遠回りは、明治から始めたい。
立川の北半分、砂川には、明治5年(1872)に開かれた学びの場が三つあった。立川市の市史編さん広報紙によれば、一つは五番組の家に開かれた私塾、一つは「共同学舎」、もう一つは流泉寺の境内に開かれた学校で、それぞれがいまの第八小学校、第九小学校の前身とされる。寺の境内や民家の座敷が、最初の教室だった。
砂川は、東西に細長い村である。同じ広報紙は、明治15年(1882)に林泉寺の境内に分校が開かれるまで、村の西の子どもたちは三番組の学校まで通わなければならず、その通学の距離は40町、約4.36キロあったと書く。往復で9キロ近い。いまの子どもに話せば、たぶん、遠足の話だと思われる。
その砂川の小学校には、明治の終わりから、制服があった。それも着物の制服である。
砂川で生まれ育った郷土史家が、地元の情報誌『えくてびあん』に書き残している。明治43年(1910)ごろから昭和18年(1943)ごろまでのおよそ40年間、砂川村の小学校の子どもたちは、濃い紺色の木綿の着物を着て学校に通った。作業着にも使われた丈夫な生地で、汚れが目立たず、家で縫えて、お金もかからない。発案した校長は、豊かな家の子も貧しい家の子も、貧富の差を気にせずに学校へ通えるようにと考えたのだと、第九小学校の百年記念誌は伝えているという。
濃紺の着物の子どもたちが、畑のあいだの道を群れになって歩いていく。その姿がカラスの群れのように見えたので、周りの人たちは、そこを「カラスの学校」と呼んだ。
村立の小学校で、子どもが制服を着ていた。それだけでも当時としては珍しかったはずだと、郷土史家は書く。彼自身、昭和12年(1937)に入学し、6年間この着物で通った一人だった。戦争が広がると転入生が増え、洋服の子が目立ちはじめる。昭和18年の卒業写真では、ほとんどが濃紺の着物で、何人かだけが洋服を着ている。翌年の写真では、男子は全員が洋服で、着物で写っているのは女子だけになった。そして戦争が終わると、着物で学校へ行く子どもは一人もいなくなった。
カラスたちがいなくなった砂川に、戦後、今度は飛行機の音がやってくる。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
基地の中にあった、もう一つの立川の小学校
戦後の立川の子どもを語るなら、フェンスの話を避けては通れない。
アメリカの海外の学校の歴史を集めている団体の記録によれば、立川基地の中には、基地で働く人たちの子どものための小学校があった。1946年に学校の委員会ができ、1947年に開校した。最初の年の児童は44人。教員はひとりで、年の違う子どもたちをまとめて教え、最初の校長役は空軍の軍曹が務めた。
ところが、その学校は、たちまち大きくなる。1961年には児童が2,000人を超えた。開校から14年で、およそ45倍である。学校の歴史を記した同じ記録には、子どもたちがスクールバスで通い、その行き帰りを憲兵がひとり見守っていたという一行がある。ランドセルの子どもの見守りが、憲兵。立川の通学路には、そういう時代があった。
1958年に家族と基地へやってきたアメリカの少年は、のちにそのころの基地の暮らしを書き残している。幼稚園から中学までの学校が二つ、映画館が二つ、プールが三つ、野球場が八つ。基地のバスは15分ごとに、基地の中を逆回りに走っていた。野球場が八つある「町」が、駅の北側にあった。立川の少年野球の子どもが聞いたら、さぞ羨ましがっただろう。
フェンスの外の子どもは、その町の気配を、英語の看板で知っていた。立川の南口で育ち、のちに家業の印刷所を継いだ人が、情報誌の連載でこう振り返っている。西立川の駅前には、英語の看板がたくさんあった。駅前のデパートの中のおもちゃ屋で、プラモデルを眺めていると、白人の親子がやってきた。男の子が棚を指さして、父親に「ガッチャ、ガッチャ」と言う。指の先には、日曜の夕方に放送されていたアニメの、ガッチャマンの機体のプラモデルがあった。結局その箱は買ってもらえず、棚に戻された。
そして、それを買ったのが、彼だったという。
フェンスの内と外で、同じ番組を見て、同じ棚の前に立っていた子どもたちがいる。ほしかったプラモデルの行方だけが、少し違った。私はこの話を、基地の時代の日米関係の、いちばん小さな記録として読んだ。
昭和28年のクリスマス、3.5トンのキャンディー
冒頭のクリスマスの話に戻ろう。
立川市の市史編さん広報紙『たちかわ物語』の第15号によれば、そのプログラムの表紙には「立川少年・少女クリスマス祝典」とある。会場は、立川基地の東側の区域、当時フィンカム基地と呼ばれていた場所だった。基地で働く日本人向けの新聞も、このパーティーを報じていた。それによれば、基地が主催するクリスマスパーティーは、この年で5回目。その夏に朝鮮戦争が休戦したこともあって盛大に開かれる予定で、前の年に続いて、2万人を超える子どもの参加が見込まれていた。当時の市報でも紹介され、年の暮れの恒例の大行事になっていたらしい。
出し物の顔ぶれが、いい。軍楽隊の有志の演奏。都立立川高校の生徒の聖歌団による讃美歌の合唱で、指揮棒を振ったのは、基地でも歌自慢で評判の兵士だった。立川市立第三小学校や市内の幼稚園の子どもたちは踊りを見せ、基地の中の「立川米人小学校」の子どもたちは劇を演じた。プロの軽業師のアクロバットまである。そして最後に、サンタクロースが現れて、3.5トンのキャンディーの山を子どもたちに配った。キャンディーは、基地の中のチャリティーの収益で用意されたという。
2万人で3.5トンを分けると、一人あたり175グラムになる。実際には2万人を超えたのだから、もう少し少ない。それでも、飴玉にすれば両手からこぼれる量だろう。終戦から8年。甘いものが、まだ贅沢だったころの175グラムである。
同じ広報紙の別の号には、もう少し地味な甘いものの記録もある。柴崎町の諏訪神社の獅子舞では、稽古の宿で出す賄いの買い物が帳面に残っている。戦前は豆腐やこんにゃく、油揚げ、醤油がほとんどだった。それが戦後まもなくすると、パンやサイダー、ジュース、キャラメル、ガムが加わったという。子どもたちの口に入るものは、こうして、帳面の上で少しずつ変わっていった。
数字で読む立川の子どもの昭和
- 40町 — 明治の砂川で、西の子どもが学校まで歩いた道のり。約4.36キロ。片道である。
- 44 — 1947年、基地の中の小学校の最初の年の児童数。14年後には2,000人を超えた。
- 3.5 — トン。昭和28年の基地のクリスマスで配られたキャンディー。サンタクロースの腰が心配になる。
- 5 — 円。昭和の駄菓子屋で、怪獣のブロマイドが1枚買えた値段。
- 998 — 枚。そのブロマイドを集め続けた少年が、最後に手放した枚数。あと2枚だった。
- 23 — か所。いまの立川市の「子ども食堂マップ」に載る食堂の数。
旅人の寄り道クイズ
昭和の立川の柴崎町に、子どもたちが「デモ屋」と呼んだ駄菓子屋があった。この呼び名は、どこから来たのだろう。(A)店の前をデモ行進が通ったから(B)「何でも屋」を縮めたから(C)店主がデモが好きだったから。答えは最後に明かす。
一軒の駄菓子屋の名前の謎は、998枚のブロマイドと一緒に、すぐ先で解ける。
柴崎町の駄菓子屋「デモ屋」と、998枚の怪獣ブロマイド
フェンスの外の子どもたちの、放課後の話をしたい。

写真: Ocdp / CC0 / Wikimedia Commons
南口で育った先の人は、情報誌の連載の一回を、まるごと一軒の駄菓子屋に捧げている。いま柴崎町で真如苑の慧燈院が建っている一角に、その店はあった。もとは釣具店だったのか、「つり」という看板が掛かっていた。同級生が店のおじさんに名前を尋ねると、おじさんは「なんでも売っているから何でも屋」と答えた。以来、子どもたちはその店を「何でも屋」と呼んだ。富士見町の子どもはそれを縮めて「デモ屋」と呼び、地元の柴崎町の子どもは店主の苗字で呼んでいたという。
同じ一軒の店に、町ごとに違う名前がある。子どもの世界には、子どもの地名があるのだ。
デモ屋は、たたずまいからして普通の駄菓子屋ではなかった、と彼は書く。諏訪神社の祭りにやってくるお化け屋敷に入っていくような怪しさがあり、釣具を入れていたらしい木箱に、さまざまな駄玩具がずらりと並んでいた。その怪しさに子どもたちは惹きつけられた。彼はそこを「キングオブ駄菓子屋」と呼んでいる。
彼が集めていたのは、怪獣のブロマイドだった。1枚5円。分類された中からピッと1枚引き抜くと、ざら紙の袋に入った写真が出てくる。小学校の中学年になって、母親に「いい加減に捨てなさい」と言われ、庭の焼却炉に1枚、2枚と投げ込んだ。番町皿屋敷のように数えたら、998枚あったという。お菊さんは9枚目で泣いたが、こちらは998枚目で泣いている。
父親は駄菓子屋での買い物を嫌ったので、彼はいつも弟を見張りに立たせて買い物をした。ある日、首尾よく帰宅してニッキ飴を舐めていると、弟が「にいちゃん、おとうが帰ってきた」と叫ぶ。慌てて飴を噛んで隠そうとしたら、奥の銀歯にくっつき、力ずくで引き抜くと、飴と一緒に銀歯が出てきた。昭和の駄菓子屋の思い出には、たいてい、ほろ苦いものが一つ混じっている。この場合は、物理的に苦い。
情報誌の編集者も、その回にこう書き添えている。コンビニのない時代、子どもたちは学校が終わると駄菓子屋で買い食いをした。ラムネ、飴、酢昆布。懸賞つきのくじ、いわゆる「当てもの」が好きだったが、当たった記憶はない。くじが引きたかっただけかもしれない、と。
当たらないくじを、それでも引く。駄菓子屋は、子どもが最初に確率を体で学ぶ教室でもあった。
駄菓子屋を卒業した子どもたちは、次に、駅前の空の高さを目指した。デパートの屋上である。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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