立川の橋めぐり。市が管理する51の橋と、いちばん古い昭和9年の千手橋・六号橋、名前のない「無名橋」、玉川上水の「一の橋」から数えた村の橋、旦那橋と呼ばれた見影橋、残堀川の「坂下橋」と押散しの記憶、道路とモノレールの二階建て立日橋、三代目のめがね橋まで、橋の名の由来を資料でたどる散歩ルポ。
立川市が管理している橋は、51ある。そのうちの三つは、「無名橋」という名前を持っている。名前が無いという名前だ。
橋のことを調べはじめたのは、ほんの気まぐれだった。多摩川に架かる日野橋や立日橋なら、誰でも知っている。けれど立川には、玉川上水、残堀川、根川と、小さな水の流れがいくつも横切っていて、そのたびに橋が架かっている。毎日渡っているのに、名前を気にしたことのない橋のほうが、ずっと多い。
市の資料をめくっていくと、奇妙な名前が次々に出てきた。旦那橋。押散し。坂下橋。そして一号橋から十号橋まで、番号だけで呼ばれる橋の列。
橋の名前は、いったい何を覚えているのだろう。その問いを持って、立川の橋を一本ずつ渡ってみることにした。
立川の橋はいくつあるのか──51の橋と、昭和9年の千手橋・六号橋
手がかりは、立川市が令和4年3月にまとめた『橋りょう長寿命化修繕計画』だった。橋を長持ちさせるための計画書で、市が管理する橋が一覧になっている。
計画が対象にしているのは、長さ2メートル以上の道路の橋が43、横断歩道橋が8、合わせて51橋。ほとんどは長さ35メートルに満たない、ひと跨ぎの小さな橋だと計画は書く。長い橋は一つだけで、長さ180メートル、6つの径間をつないだ富士見高架橋。昭和44年に架けられている。
いちばん古い橋は、どれか。一覧の架設年をたどると、昭和9年(1934)の橋が二つある。玉川上水に架かる千手橋と、六号橋だ。千手橋は平成25年に手を入れられているが、生まれは昭和の初めである。立川の市の橋は、いちばんの長老でも90歳ほど。江戸から続く街道の街としては、思ったより若い。
それには理由がある。昭和30年代から40年代、多摩の人口が急に増え、道路が一気に整えられた時代に、立川の橋の多くが架けられた。一覧で数えると、昭和35年からの10年間に架けられた橋が18、昭和45年からの10年間が13。計画は、架けてから50年を過ぎた橋が、点検の時点で24橋、全体の47%だったと書き、10年後には67%、20年後には86%に急に増えていくと見通している。橋もまた、街と一緒に年を取る。
一覧には、番号で呼ばれる橋の列もある。一号橋、二号橋、三号橋と、十号橋まで。一覧に所在地が載っているものは多くが富士見町にあり、昭和39年前後に架けられた鉄筋コンクリートの小さな橋だ。そして、その中に「無名橋1」「無名橋2」「無名橋3」が混じっている。長さはいずれも3〜5メートル。名前をつけるほどでもないと思われたのか、名づける前に役所の書類が先に進んでしまったのか。いずれにせよ、名前の無い橋は、こうして名前を手に入れた。私の机の引き出しにある「その他」というラベルの箱と、境遇が少し似ている。
番号や無名で済まされた橋がある一方で、立川には、名前そのものが村の歴史を語る橋の一群がある。北の玉川上水に架かる橋たちだ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
玉川上水の橋──「一の橋」から数えた、砂川村の橋
江戸の玉川上水には、もともとどれほどの橋があったのか。昭島市の歴史のアーカイブは、寛政3年(1791)にまとめられた『上水記』に、玉川上水全体で名前のない橋も含めて82の橋が記されている、と書く。43キロに82本。500メートルに一本ほどの割合だ。

写真: 森のことり / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
いま、立川市域の玉川上水には、上流から松中橋、一番橋、天王橋、稲荷橋、上宿橋、新家橋、見影橋、金比羅橋、宮の橋、千手小橋、千手橋、清願院橋と、橋が続いている(百科事典の一覧による)。名前の由来をひとつずつたどっていくと、ここが砂川村だった時代の地図が浮かび上がってくる。
まず、天王橋。五日市街道が玉川上水を渡る場所で、市史編さんの広報紙『たちかわ物語』4号は、南にあった天王社が名前の由来とされ、かつては上水を横切る街道の名から「五日市橋」とも呼ばれていた、と書いている。橋のたもとには、石橋供養塔が立つ。橋を架けたことを記念し、渡る人の安全を祈る塔だ。
ここで、少しややこしい話がある。いまの五日市街道が渡っているのは、天王橋ではなく、すぐ隣の新天王橋のほうだ。地域情報紙の記事によれば、天王橋が架かったのは昭和6年ごろ、新天王橋は昭和45年ごろ。古い名前の橋が脇道に残り、新しい名前の橋が本道を引き受けた。先輩に名前を譲ってもらえなかった後輩が、仕事だけは全部引き受けている。どこかの会社でも見かける構図だ。
天王橋は、砂川村の人々にとって「一の橋」だった。新家橋のたもとの説明板を書き写した地域情報紙の記事によれば、新家橋は、屋号を「しんや」と呼ぶ農家の裏に架けられていたので「しんやばし」と呼ばれ、また、砂川村のなかで「一の橋」と呼ばれた上流の天王橋から数えて三つ目の橋だったので、「三の橋」とも呼ばれた。寛政3年の『上水記』には、畑へ向かうための「作場橋」として書かれているという。
村の人は、上水の橋を、上流から番号で呼んでいたのだ。一の橋、二の橋、三の橋。富士見町の一号橋から十号橋の列を、江戸の砂川村の人々が見たら、昔と同じだと笑うかもしれない。
その次、四つ目の橋が、見影橋である。上水事典のサイトが紹介する現地の説明板によれば、見影橋は江戸時代から架かっていた古い橋で、砂川村を流れる上水の上流から4番目の橋だったので「四ノ橋」と呼ばれた。そして、名主の砂川家に近かったことから、「旦那橋」とも呼ばれた。大正の末に橋が改修されたときに「御影橋」と名を改め、のちにさらに「見影橋」と書き改められたという。四ノ橋、旦那橋、御影橋、見影橋。ひとつの橋が、ずいぶん出世魚のような名前の変わり方をしている。
旦那橋の旦那、砂川家には、もうひとつ置き土産がある。明治時代、橋のたもとから砂川家専用の分水が掘られ、当主の名にちなんで「源五右衛門分水」と呼ばれた。庭の流れにも使われ、このあたりでは珍しい田んぼにも水を引いた。橋の南の見影橋公園は、その田んぼの跡だと上水事典は書く。市の年表によれば、見影橋公園にはプールが開かれた年もある。名主の田んぼが、子どもたちの水遊びの場になった。水の使い道は、時代とともに、ずいぶん楽しげになった。
五つ目の橋が、金比羅橋だ。『たちかわ物語』4号によれば、村山(所沢)方面へ渡る村山街道と玉川上水が交わる場所にあったため「村山橋」と呼ばれ、いまの名は、橋のそばにある、神社をまつった小高い丘、金比羅山から来ている。立川市の文化財の案内は、この金比羅山を高さ10メートルほどの築山と紹介している。平らな砂川で、10メートルは立派な山である。
宮の橋の「宮」は、阿豆佐味天神社のことだと地域情報紙は書く。橋の南へ行けば、砂川の鎮守に着く。
上水の橋のあいだには、橋ではないものの跡も残っている。立川市の玉川上水の案内は、見影橋の下流に「通船事業の巴河岸跡」を挙げている。明治の初め、玉川上水に舟を通して荷を運んだ時代があり、『たちかわ物語』の年表によれば、明治3年の通船事業には砂川村も加わった。ところが上水の水が汚れることを心配した東京府の求めで、通船は明治5年に止められる。わずか2年ほどの舟の時代だった。橋の下を舟がくぐっていた景色は、立川の上水の長い歴史のなかで、ほんの一瞬のことだ。
いちばん上流の松中橋の南詰には、取水口が二つ並んでいる。地域情報紙の記事によれば、右が柴崎分水、左が砂川分水の取り入れ口だ。南の柴崎村と北の砂川村、立川の二つの村の水が、同じ橋のたもとから分かれていった。下流の清願院橋のあたりでは、上水の岸の一部が岩で埋められていて、戦時中に空襲で爆弾が落とされた場所だと伝わる、と同じ紙は書いている。橋のたもとは、村の水の分かれ道であり、戦争の傷の置き場所でもあった。
橋の名前は、いまも地域の暮らしに残っている。市の年表をめくると、「天王橋会館」「こんぴら橋会館」という地域の会館が開かれた年が載っている。橋が、町内の集会所の名前にまでなっている。立川の北では、橋はただの通り道ではなく、自分たちの場所の名前だった。
数字で読む立川の橋
- 51 — 立川市が管理する橋の数(道路橋43と横断歩道橋8)。毎日渡っていても、名前を言える橋は、たぶんこの1割もない。
- 3 — 「無名橋」という名前の橋の数。名前が無いことが、名前になった。
- 1934 — 市の橋でいちばん古い千手橋と六号橋が架けられた年。長老でも、まだ90歳ほど。
- 82 — 寛政3年の『上水記』に記された、玉川上水全体の橋の数。名前の無い橋も含む。無名の歴史は長い。
- 180 — 市でいちばん長い富士見高架橋の長さ(メートル)。2番目以降は、ほとんどが35メートルに満たない。
- 417 — 多摩川に架かる立日橋の長さ(メートル)。こちらは都の橋で、二階建てである。
旅人の寄り道クイズ
玉川上水に架かる見影橋は、名主の家に近かったことから、かつて何と呼ばれていたか。
(A)旦那橋 (B)殿様橋 (C)名主橋
答えは、この記事の終わり近くで。
上水の橋が村の暮らしの名前を背負っているとすれば、西を流れる残堀川の橋は、地形と水の暴れ方を名前に刻んでいる。
残堀川の橋──「坂下橋」と、「押散し」の記憶
残堀川は、瑞穂町の狭山池から流れ出し、立川の西の端を北から南へ縦断して、柴崎町で多摩川に注ぐ。その短い流れに、橋が驚くほど多い。百科事典の一覧によれば、立川市域だけで、新残堀橋、下砂橋、新おちらし橋、上水橋、上宿橋、残堀橋、田堀橋、松の木橋、鷹の道橋、大山橋、並木橋、松風橋、昭栄橋、富士見橋、滝口橋、立川橋と、道路の橋が並ぶ。

写真: DiKnK8713 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
そのなかで、ひときわ変わった名前が、新おちらし橋だ。市の計画書では昭和57年の架設で、かつては「おちらし橋」という橋もあったが、すでに撤去されたと書かれている。
「おちらし」とは何か。『たちかわ物語』6号に、手がかりがあった。江戸時代の砂川村の絵図を読み解く記事のなかで、当時は残堀川が玉川上水に合わされていて、その北側は時に水があふれたことから「押散し」と呼ばれた、とある。水が押し寄せて散らばる場所。橋の名の「おちらし」は、この「押散し」の記憶を引き継いだものと、私は読んだ。名前だけを見れば、のどかな響きだ。けれど、その下には、あふれる水に悩まされた村の記憶が埋まっている。
残堀川と玉川上水がいまどう交わっているかは、この特集の玉川上水と砂川の記事に書いた。交差する場所には、人の渡るすずかけ橋と、車の渡る上水橋が並んでいて、玉川上水は残堀川の下をくぐっている。
南へ下ると、橋の名前は地形の話を始める。富士見町のあたりで、残堀川は段丘の崖のそばを流れる。市の計画書には、山中坂下橋(昭和44年)、馬場坂下橋(昭和45年)、滝下橋(昭和45年)、滝上橋(昭和44年)が並んでいる。坂の下だから坂下橋、滝の下だから滝下橋。根川緑道を歩いた人のブログは、橋の名が「○○坂下橋」なのは、川の左岸が段丘の崖になっていて、岸に降りる坂があるからだ、と書いている。この特集の地形と坂の記事で歩いた坂の名前は、橋の名前にもそのまま流れ込んでいた。
多摩川との合流点の近くには、残堀遊歩橋がある。立川の新聞販売店が地元を歩いて書いているコラムによれば、橋の両端には立川市の木ケヤキと、市の花コブシが描かれ、橋の中央には小さな展望広場が設けられている。坂の下の橋から、市の木と花の橋まで。残堀川の橋は、上流から下流へ、村の記憶から市の顔へと、名前の調子を変えていく。
そして、その合流点のすぐ脇で、立川でいちばん目立つ橋が、多摩川を二階建てで渡っている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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