青梅散歩 昭和レトロの街並みと映画看板、青梅線は青梅の人が立川へ引いた線路だった

立川から青梅線で約30分。青梅を歩く散歩ルポ。昭和レトロの街並みと映画看板が消えた理由、青梅宿と青梅縞・夜具地の来歴、そして青梅の人々が立川へ向けて自力で線路を引いた青梅鉄道の成り立ちまで、立川との意外な縁を一次資料でたどる。

明治21年(1888)の11月、青梅と羽村の有志53人が、連名で一通の依頼書を書いた。宛先は甲武鉄道。いまのJR中央線を、新宿と八王子のあいだに敷こうとしていた会社である。

依頼の中身はこうだ。青梅の奥の日向和田村には、無数の石灰石がある。運び出せば利益は少なくない。ただ、わずか12マイルの小さな線で一つの会社を立てても、採算が合わないおそれがある。ついては、貴社の手で「立川村ヨリ日向和田村マテ」線路を延ばしていただけないか。

書き出しには、こうある。「神奈川県西多摩郡青梅地方」。

当時の多摩は神奈川県だった。そのことにも驚くが、私がつまずいたのは別の一点である。青梅線は、立川から青梅へ延びた線路だと思っていた。立川の側が、山の町へ枝を伸ばしたのだと。ところが古文書の上では、手を伸ばしていたのは青梅の側だった。

なぜ青梅の人々は、立川を目指したのか。そして、その願いはどうなったのか。答えを探しに、立川から青梅線に乗る。

青梅散歩の入口、立川から30分の谷口の町

武蔵御嶽神社が案内する道順は、拍子抜けするほど簡単だ。JR立川駅から約30分で青梅駅。立川で青梅線に乗れば、あとは座っているだけで着く。新宿から来る人に向けて、青梅市観光協会も「中央線快速の青梅行き、または立川駅乗換」と書く。どちらにしても、青梅への道は立川を通る。

JR青梅駅の駅舎。3階建ての建物の1階に駅の入口がある。
JR青梅駅の駅舎。3階建ての建物の1階に駅の入口がある。
写真: 京浜にけ / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

電車は西立川、昭島、拝島、福生、羽村と、住宅の続く台地の上を走る。小作を過ぎると、窓の左右に山の気配が寄ってくる。東青梅を出て一つ先が青梅駅だ。

事典は、青梅の町を「谷口集落」と呼ぶ。多摩川が関東山地から武蔵野台地へ流れ出る、その出口に開けた町という意味である。山の物と平地の物が、ここで交換された。中世から市が立ち、江戸から甲州へ抜ける裏街道の宿場町でもあった。青梅宿である。

駅前に立つと、地形がそのまま目に入る。北にも南にも、すぐ山の斜面が迫っている。青梅駅のまわりは多摩川と丘陵に挟まれて、それほど広い土地が無い。だから町は街道沿いに細長く伸びた。立川が「平らで広いこと」を武器に育った街だとすれば、青梅は「狭いこと」を宿命に育った町だ。

駅舎は、ずいぶん堂々としている。鉄道の記録によれば、地上3階・地下1階のこの建物は、大正13年(1924)に青梅鉄道の本社として建てられた。駅の改札を抜けながら、私は一つの会社の本社ビルを通り抜けていることになる。会社はもう無いのに、本社だけが毎日、乗客を迎えている。律儀な建物だ。

その青梅鉄道の話は、あとでゆっくりする。先に、この町の名前の話をしておきたい。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

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熟さない梅と、白壁のための街道

青梅という地名には、平将門が出てくる。

青梅市の説明によれば、承平年間(931〜938)のころ、将門がこの地に来て一枝の梅を地に挿し、「わが願いがかなうならば栄えよ、そうでないなら枯れてしまえ」と誓った。梅は大いに枝葉を伸ばして茂り、将門は喜んで寺を建てた。いまの金剛寺である。

話はそこで終わらない。梅はやがて実をつけたが、秋になっても熟さず、青々としたまま枝に残っていた。それを不思議に思った土地の人々が、いつしかこの地を「青梅」と呼ぶようになった、と市は書く。

願をかけて根づかせた梅が、肝心の実だけは熟さなかった。町の名前は、その「熟さなかった」ほうから付いている。成功譚の主役を、ちょっとした失敗のほうに譲ってしまう。この町の人々の命名の感覚は、なかなか味わい深い。金剛寺の境内には、いまも「将門誓いの梅」が伝わる。駅から歩いて15分ほどだ。

町の背骨は、青梅街道である。名前は青梅だが、目的は江戸にあった。平凡社の日本歴史地名大系によれば、慶長11年(1606)、江戸城の大改修で天守をはじめとする白壁用の石灰が大量に要ることになり、幕府は青梅の上成木と北小曾木から石灰を採って納めるよう命じた。江戸と青梅宿の約11里を直接結ぶため、大久保長安が道を整えた。それがこの街道の始まりだという。

つまり青梅街道は、江戸城を白く塗るための道だった。しかも江戸時代には「青梅街道」とは呼ばれず、青梅道とか江戸道とか呼ばれていた。いまの名前が定着したのは明治以降である。

覚えておいてほしいのは、「石灰」という一語だ。この町の運命は、ずっとこの白い石と一緒に動いていく。300年近くあとに青梅の人々が立川へ線路を引こうとしたときも、理由は同じ白い石だった。

だが、宿場町の青梅を本当に豊かにしたのは、石ではなく布のほうだった。

青梅縞、番頭さんたちの着物

青梅縞という織物がある。

青梅市郷土博物館の解説によれば、江戸時代に青梅地域で織られていた、絹と木綿を織り交ぜた織物で、明治の初めまで全国に流通していた有名な織物だった。小学館の日本大百科全書はもう少し詳しい。享保年間(1716〜36)に上田縞をまねて、経糸に絹、緯糸に木綿を使う交織をつくりだした。江戸後期からは経緯とも綿糸の綿織物に変わり、夜具地、つまり布団の生地や着物地の産地として知られた。明治以後も縞物が盛んに織られ、入れ綿の青梅綿とともに名をはせたが、第二次世界大戦後、寝具の洋風化とともに衰えたという。平凡社の世界大百科事典も、とくに夜具地の青梅縞や青梅綿は戦後まで有名だったと書く。

江戸の人々は、青梅の縞の布団で眠っていたことになる。私は江戸の町人の寝床を想像しようとして、ずいぶん硬そうな布団を思い浮かべ、すぐにやめた。布団の固さまでは、事典は教えてくれない。

それより面白いのは、言葉のほうだ。精選版日本国語大辞典は「青梅縞」の二つ目の意味として、「粗末なものを着た人。番頭、手代などの商人に多かった」と載せている。用例に引かれているのは、享和元年(1801)の雑俳『柳多留拾遺』の一句である。

「まっくらなよしはらへ来る青梅縞」

真っ暗な吉原へ、青梅縞がやって来る。着物の名前が、そのまま人を指している。店の奉公人が、主人の目を盗んでこっそり遊郭へ忍んでいく姿を、着ている縞だけで言い当てたわけだ。江戸の川柳は容赦がない。青梅の織り手たちは、自分たちの布がそんな使われ方をしていると知っていたのだろうか。

縞を織った道具も残っている。郷土博物館には、青梅市の有形民俗文化財に指定された三反の青梅縞がある。文化年間(1804〜1817)、文政年間(1818〜1829)、明治の初めに織られた旨の付け札が付いた、数少ない現物見本だ。地機と呼ばれる古い機織機も残る。江戸時代の途中まではこの地機で青梅縞が織られ、後期には高機に取って代わられたという。

ただし、郷土博物館そのものは、設備の老朽化のため令和7年(2025)4月から休館している。縞を見に行く人は、開館の知らせを待つしかない。

代わりに、縞を売った家なら見られる。駅から西へ歩いて10分ほどの旧稲葉家住宅だ。青梅市によれば、稲葉家は江戸時代に青梅宿の町年寄を務めた豪商で、材木商と青梅縞の仲買問屋を営んでいた。「店蔵」と呼ばれる土蔵造りの母屋は、建築様式から江戸時代後期、18世紀後半から19世紀初めごろに建てられたと考えられている。昭和54年(1979)に所有者から市に寄贈され、昭和56年に東京都の有形民俗文化財に指定された。

厚い土壁と、重そうな扉。山の材木と、里で織られた縞が、この店先を通って江戸へ出ていった。宿場の財布は、こういう家に詰まっていたのだ。

数字で読む青梅

  • 30 — 分。武蔵御嶽神社が案内する、JR立川駅から青梅駅までの所要時間の目安。昼寝には少し短い。
  • 11 — 里。慶長の昔、江戸城の白壁のための石灰を運んだ、江戸と青梅宿のあいだの道のり。
  • 53 — 人。明治21年、甲武鉄道に「立川から線路を延ばしてほしい」と願い出た有志の数。
  • 12 — マイル。その依頼書が「小線」と呼んだ、日向和田から立川までの距離。自分で小さいと言ってしまうところが正直だ。
  • 20 — 枚。かつて青梅の商店街に掲げられていた大型の映画看板の数。描いた絵師は、市内でただ一人だった。
  • 3 — 反。郷土博物館が持つ、付け札つきの青梅縞の現物見本。江戸の布団の生き証人である。

旅人の寄り道クイズ

青梅鉄道が開業したとき、線路の幅は甲武鉄道より狭かった。そのせいで、石灰石を運ぶうえで、ある駅で厄介な手間が生じた。その駅はどこか。(A)新宿(B)立川(C)八王子。答えは、この先を歩きながら考えてほしい。

縞と材木と石灰。山の町の産物は、どれも重くてかさばる。明治の青梅が鉄道を欲しがった理由は、そこにあった。

立川へ向けて引かれた線路、青梅鉄道の成り立ち

立教大学の経済学研究に、「青梅鉄道の設立と浅野総一郎」という論文がある。立川駅の記事でも少し触れたが、読み進めると、青梅と立川の関係は思っていたよりずっと込み入っていた。

話の始まりは、甲武鉄道のさらに前身である。論文によれば、明治17年(1884)4月22日、新宿と八王子のあいだに馬車鉄道を敷く計画が出願された。この馬車鉄道は、当初は東京と羽村のあいだを予定していた。発起人の一人が沿線の有志を勧誘するため青梅を訪れたとき、初めて青梅地方に石灰石が多く産することを知り、線路を羽村から青梅へ延ばす案を立てた。

ところが沿線の福生と羽村の名望家が、青梅へ延ばすのは急ぎではない、むしろ八王子へ延ばすほうが得策だと勧めた。計画は立ち消えになる。

もしこの助言が無かったら、と考えずにいられない。甲州へ向かう本線は、青梅のほうへ曲がっていたかもしれない。立川の駅が、いまの姿になっていたかどうかもわからない。歴史の分かれ道は、たいてい誰かの「急ぎではない」という一言で決まる。

その後も、青梅の人々はあきらめなかった。明治21年(1888)、福生、羽村、三田の有志が日向和田の石灰石の採掘を計画し、地主との契約までこぎつけた。当時の資料は、日向和田の石灰石を「十年採りて尽くる乎、二十年堀りて竭くる乎殆んど無限とも云ふべき程の分量」と書いている。言い回しが大げさで、景気がいい。

ここで、冒頭の依頼書が出てくる。石を運ぶ線路を自分たちで引くには、12マイルは小さすぎる。だから甲武鉄道に立川から延ばしてもらおう。青梅の有志はこの時点で、自前の会社の出願をいったん取りやめ、甲武鉄道の延長線に望みを託している。駅をつくる土地は町内の有志が無償で差し出す、という申し出まで添えていた。

甲武鉄道の返事は、つれなかった。論文によれば、断った理由は「新宿三崎町同市街線ノ計画ニ忙シク」、つまり都心へ線路を延ばす計画で忙しく、支線を延ばす余裕が無い、というものだった。しかも依頼を出すにあたって、有志たちは「敷くか敷かないかは会社に一任し、口出ししない」という念書まで書かされていた。頼んだ側が先に一筆入れさせられている。明治の大企業は、なかなか強気である。

こうして「有志者等ハ巳ムナク別ニ一会社ヲ起ス」ことになった。やむなく、自分たちで会社を立てたのだ。

ただ、甲武鉄道はまったく冷たかったわけでもない。明治24年(1891)5月、青梅鉄道を独立した会社として立てることが正式に確認されたとき、甲武鉄道は青梅鉄道側の契約書を受け入れた。その第一条が、立川駅の歴史にとって大事な一文になる。立川停車場の中で青梅鉄道が要る土地は無代で貸す。乗り換えや荷物の積み替えのために停車場を広げる費用は、甲武鉄道が持つ。第二条では、立川停車場での青梅鉄道の事務も甲武鉄道がすべて引き受け、報酬は取らないとした。

延長線は断ったが、乗り入れは歓迎する。立川駅が、線と線の出会う駅になる下地は、この契約で整った。

同じころ、東京でセメント工場を営んでいた浅野総一郎が、この事業に加わった。論文によれば、浅野の工場は栃木の葛生から石灰石を運んでいたが、運ぶ道に多くの障害があり、新しい原料の調達先を求めていた。青梅鉄道の計画は、浅野らの参画と出資によってようやく実現の見通しを得た。青梅鉄道の規則の第一条には、青梅と立川のあいだで運輸の業を営み、あわせて石灰石を採掘して販売する、と書かれていた。鉄道会社であると同時に、石の会社でもあったのだ。

明治27年(1894)11月19日、立川と青梅のあいだが開業した。立川市の年表にも、この年に青梅鉄道開通とある。翌年には、石灰石の採掘場がある日向和田まで線路が延びた。

一つだけ、後に響く選択があった。建設費を節約するため、青梅鉄道は2フィート6インチ、およそ762ミリという狭い線路幅を採った。甲武鉄道より狭い。論文は、石灰石の輸送が本格化すると、運ぶ単位が小さいこと、そして「立川で積替作業を必要とすること」など、多くの問題を抱えることになったと書く。

クイズの答えは、もう出てしまった。青梅の石は、立川で一度、貨車から貨車へ積み替えられていた。立川駅の構内で、白い石を抱えて汗をかく人々がいたのだ。

初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。

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