立川の祭りは花火だけではない。4つ作られた立川音頭、東海林太郎がオート三輪で駅へ送られた砂川音頭、商店街が青森から呼んだ羽衣ねぶた祭、500人が踊る立川フラメンコ、北のフラ、福生から来た妖怪盆踊り、よいと祭りのYOSAKOIまで、立川の踊りの来歴と今を一次資料でたどる。
「立川はフラフラだね」
道を行く誰かが、そう言ったという。立川の地元の情報誌『えくてびあん』が、編集後記に書きとめている。酔っぱらいの話ではない。南口ではフラメンコ、北口ではフラダンス。どちらも「フラ」で始まる。だから、フラフラ。
立川の踊りは、それだけでは終わらない。夏には羽衣町の商店街を青森のねぶたが練り歩き、「ラッセラー」の掛け声が響く。秋には北口の広場で、妖怪に扮した人たちが盆踊りの輪をつくる。翌日には、モノレールの下でYOSAKOIの鳴子が鳴る。花火の夜のことは、この特集の別の一編に書いた。花火の陰で、立川は一年じゅう、何かしら踊っている。
調べはじめてすぐ、私は妙な一文に出会った。この街のご当地の盆踊り歌「立川音頭」は、4つあるというのだ。一つの街に、同じ名前の音頭が4つ。なぜ、そんなことになったのか。そして、なぜ立川の踊りの多くは、青森やスペインやハワイや福生といった、よそから来ているのか。その謎を追って、立川の踊りの暦をめくってみる。
立川の踊りの祭り、一年の暦──春のフラメンコから秋の妖怪盆踊りまで
まず、暦を一度ひと回りしておこう。日付は年ごとに変わるので、ここに書くのは「例えば、この年はこうだった」という目安である。
春の大型連休のころ、南口のすずらん通りで「立川フラメンコ」が開かれる。主催は立川南口すずらん通り商店街振興組合で、2026年は4月29日に第23回が開かれた。同じころ、北口のGREEN SPRINGSでは「Aloha Hawaiian Festival」があり、2026年は4月25日と26日の2日間、フラと音楽とハワイの食べ物が並んだ。
夏は盆踊りの季節だ。北口のサンサンロードでは「あけぼの夏まつり」が開かれ、2025年は8月2日と3日の夕方6時から8時まで盆踊りがあった。8月の駅ビルでは、多摩地域のフラの教室の人たちが踊るフラフェスティバルがある。そして羽衣町では、羽衣ねぶた祭。町会や神社ごとの盆踊りも、7月の終わりから8月にかけて市内のあちこちで開かれる。
秋。2026年の10月は、10日から12日まで、GREEN SPRINGSで「妖怪盆踊り2026」。11日には、サンサンロードで「第38回立川よいと祭り」があり、民踊流しとYOSAKOIと松明回しが同じ日に並ぶ。この記事を書いているいま、ちょうどその週末にあたる。
フラメンコ、フラ、盆踊り、ねぶた、妖怪、YOSAKOI。並べてみると、ほとんど世界一周である。ただし一つだけ、どこにも行かずに、ずっとこの街にいたものがある。音頭だ。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
立川音頭は4つある──幻の音頭と、三木鶏郎の音頭
砂川で生まれ育った郷土史家が、地元の情報誌の連載「立川深層」に、「立川音頭は4つある」という一編を書いている。立川市歴史民俗資料館から写真の提供を受けた、レコードのラベルや盆踊りの写真つきの記事だ。それをたどると、こうなる。

写真: 深鸣 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
1つ目は昭和12年(1937)6月。当時の立川町の青年団が中心になってつくった。作詞は松本一晴、作曲は大村能章。新橋の芸者が歌い、コロンビアのレコードに吹き込んだといわれる。ところが発表の翌月に日中戦争が始まり、ほとんど広まらなかった。レコードも楽譜も残っておらず、「幻の立川音頭」と呼ばれている。残っているのは、歌詞の一節だけだ。「空の立川機翼に明けてヨー」。音頭の出だしから、飛行機の翼が出てくる。いかにも飛行場の町の歌である。
2つ目は昭和26年(1951)。同じ作詞と作曲のコンビで、キングレコードの歌手が歌ったが、これも広まらなかった。こちらの歌詞には、諏訪の森と日野橋が出てくる。翼の町から、川と森の町へ。戦争をはさんで、立川が自分を歌う言葉が変わっている。
3つ目は昭和38年(1963)。立川市と商工会議所が中心になり、ラジオの「日曜娯楽版」の冗談音楽で人気のあった三木鶏郎が作詞と作曲を手がけ、初代の西崎みどりが振り付けた。いま最も広く市民に親しまれている「立川音頭」は、これだ。全部で11節あり、そのうち4節がレコードに吹き込まれた。「西も東も南も北も 丸く輪になりゃ 手拍子そろえ立川音頭」。この年は、立川市と砂川町の合併の年でもある。東西南北を丸く輪に、という歌詞が、私にはどうしても、合併の祝い歌に聞こえる。
4つ目は昭和48年(1973)。こちらは根川の桜と「多摩と東京を結んで開く」街を歌ったが、あまり広まらず、忘れられようとしている、と郷土史家は書く。
さらに、平成元年(1989)の第1回立川よいと祭りのためには、宇崎竜童が作詞と作曲を手がけた「立川マイホームタウン」という歌がつくられた。これもいまは、歌も踊りも知る人が少なくなったという。
4つの音頭と、1つのマイホームタウン。半世紀のあいだに、立川は5回、自分の歌をつくろうとした。そのうち、街に根づいたのは1つだけだった。打率で言えば2割。プロ野球なら、少し肩身が狭い数字だ。けれども、つくるたびに、そのときの立川の顔が歌の中に残っている。翼、川、輪、桜、そしてマイホーム。音頭は、街の自画像の連作でもあった。
砂川音頭と、オート三輪の東海林太郎
立川の北の砂川にも、自分の音頭がある。
同じ郷土史家によれば、砂川音頭がつくられたのは、戦争が終わって3年目の昭和23年(1948)。戦後に再建された砂川村の青年団が、音頭と団歌をつくろうと、団員から歌詞を募った。十数編が集まったが、いいものがなく、結局、専門家に頼むことになった。頼んだ相手は、1つ目と2つ目の立川音頭を書いた松本一晴。作詞のため、青年団の幹部と自転車で砂川をひと回りしたといわれる。作曲は、これも同じ大村能章。10月15日、阿豆佐味天神社の境内で発表会が開かれた。
歌詞には、当時の砂川がそのまま入っている。「おらが名物数々ござるヨ〜 麦にさつまに欅の並木 桑の苗なら日本一」。各節のあとには「ソレ砂川一本街道 ヨ〜イヨイトサノ ヨイヨイヨイ」という囃子言葉がつく。歌がつくられたころの砂川は、東西に約9キロ、五日市街道が一本だけ走る村だった。一本街道とは、そういうことだ。
ただ、このときはレコードに吹き込まれず、歌は広まらなかった。5年後の昭和28年(1953)、なんとかレコードにして広めたいという声が上がり、今度は人気歌手の東海林太郎と野村雪子が歌って吹き込んだ。振り付けもつき、阿豆佐味天神社で歌と踊りの発表会が開かれた。東海林太郎が来るというので、砂川始まって以来と言われるほど人が集まった。
そして、この一行である。テレビはもちろん無く、オート三輪がようやく広まりはじめたころで、青年団の役員が持っていたオート三輪の荷台にむしろを敷き、その上に座布団を置いて、東海林太郎を立川駅まで送り迎えしたという。
昭和の大歌手が、オート三輪の荷台で、座布団に座って五日市街道を揺られていく。その光景を想像すると、私はどうしても頬がゆるむ。郷土史家はその日、青年団の役員として司会を務め、東海林太郎に褒められた記憶があると書いている。
砂川には、音頭よりもっと古い歌も残っていた。昭和40年(1965)11月、200人あまりの会員で「砂川伝承民謡保存会」ができ、昔から歌い継がれてきた民謡を聞き書きし、テープレコーダーに録った。麦打ち唄、臼挽き唄、茶摘み歌、茶もみ歌、養蚕数え歌、機織り歌、糸引き唄、藍葉棒打ち唄、そして何種類かのわらべ歌。そのうち麦打ち唄、糸引き唄、茶もみ歌は、昭和44年度のNHKの芸能百選に選ばれ、全国に放送された。その秋には集めた民謡に踊りが振り付けられ、阿豆佐味天神社で発表会が開かれている。働くための歌が、踊るための歌になった。
ちなみに、保存会が発足当時に調べたところ、旧柴崎村には「多摩鮎担ぎ音頭」のほかに民謡らしきものがほとんど見つからなかった。立川の南と北で、歌の蔵の中身がずいぶん違う。
戦後の砂川の青年団が、村ごとにばらばらだった盆踊りを何年もかけてそろえ、昭和35年(1960)に「統一盆踊り会」にこぎつけた話は、この特集の養蚕の一編で書いた。踊りの輪をそろえるのも、楽ではなかったのだ。
数字で読む立川の踊り
- 4 — 立川音頭の数。昭和12年、26年、38年、48年。街に根づいたのは1つ。
- 1 — 第1回羽衣ねぶた祭に来たねぶたの数。20回目には8基になった。
- 500 — 立川フラメンコのストリートで踊るダンサーの数(地元の情報誌による年もある)。商店街の道幅が心配になる。
- 50,000 — 2025年、3日間の妖怪盆踊りに集まったと主催者が推定する人の数。その何割かは妖怪である。
- 9 — キロ。砂川音頭に歌われた「一本街道」、五日市街道が村を貫いていた長さ。東海林太郎はその一部をオート三輪で揺られた。
旅人の寄り道クイズ
羽衣町の商店街の祭りに、なぜ青森のねぶたがやって来たのだろう。始まりのきっかけに一番近いのはどれか。(A)青森出身の商店街の理事長と、大相撲の力士のちゃんこ(B)立川市と青森の町の姉妹都市の約束(C)ねぶた職人が羽衣町に越してきたこと。答えは最後に明かす。
その答えは、羽衣町の豆腐屋の店先から始まる話の中にある。
羽衣ねぶた祭──商店街の人たちが、青森のねぶたを動かす
羽衣町の東立川商店街で、毎年8月に羽衣ねぶた祭が開かれる。
地元の情報誌『えくてびあん』は2018年、第20回を迎えた祭りの実行委員長に話を聞いている。商店街で親の代から続く豆腐屋を営む人で、ねぶた会の会長も務めていた。その話を、本人の言葉に沿ってたどってみる。
始まりは、補助金だった。東京都と立川市に、「元気を出せ」と名のついた商店街の事業への補助金があり、東立川商店街でも、何か商店街主催のイベントをやろうと話がまとまった。当時の商店街の理事長は青森の出身で、しかも、大相撲の舞の海と同郷で、出身高校の後輩にあたる。そこで最初に開いたのは、舞の海にちゃんこを作ってもらい、若い衆が配る催しだった。
その翌年、商店街の会員から、青森のねぶたを1基でも持ってきて祭りができないか、という声が上がった。それが第1回だという。人形ねぶたが1基。羽衣祭りと一緒に、ただねぶたを動かした。道路の通行止めの申請もまだ関係なく、それで済んでしまった時代だった、と実行委員長は振り返る。警察に申請するようになったのは3回目からで、それから1基ずつ増えていった。
ちゃんこから、ねぶたへ。相撲の土俵から、いきなり青森の夏へ跳んでいる。だが、この跳躍がなければ、羽衣町に「ラッセラー」は響かなかった。
20回目の2018年には、ねぶたは全部で8基になっていた。人形ねぶたが4つ、扇ねぶたが1つ、オリジナルのひょうたん提灯の山車が1つ、車止めに使う文字ねぶたが2基。人形ねぶたはすべて青森から来る。毎年8月6日には、青森からねぶたが届く。それまでに、ねぶたを載せる台も電気の配線も整えておかなければならない。準備は、昔は4月から毎週していたが、いまは6月から始める。
担い手の顔ぶれがいい。商店街の会員だけでは足りないので、年会費千円の「ねぶた会」をつくった。会員の中に、塗装屋もいれば電気屋もいる。ペンキ屋の会員が、何年か前から、ねぶたに防水をかけている。5年続けて大雨に降られたからだ。祭りの日の雨と戦ってきた商店街は、ついに、ねぶたそのものを雨に強くしてしまった。青年部の人たちは、地元の人より、地元とのつながりで入ってきた人が多く、だいたい都内から来るという。
この年には、ねぶたの縁で、青森県黒石市の市議会議長や市の職員も来賓に来た。来賓は60人ほどで、挨拶だけで30分以上かかったと、実行委員長は笑っている。
規模も大きい。2019年の東京の催しの案内は、例年16万人ほどが訪れると書き、地元の情報誌の別の号は「関東一、17万人を動員すると言われる」と書いた。30万人とも言われるがと聞かれた実行委員長は、30万まではいかない、と正直に答えている。数字を盛らない祭りは、信用できる。
情報誌の記事には、その年に祭りへ寄せられた川柳や俳句の入選作が、見出しのように並んでいた。その一つが、これだ。「はごろもで そだったぼくらは ねぶたっ子」。補助金とちゃんこから始まった祭りの中で育った誰かが、自分たちのことを「ねぶたっ子」と呼んでいる。20年は、ふるさとを一つつくるのに足りる時間なのだ。
羽衣町が夏の青森なら、南口の春は、スペインである。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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