基地と駅の街・立川にも、昔話と伝説はたくさんある。大蛇の血が三日三晩流れた跡と伝わる残堀川、礼を言われるまで朝まで待っていた送り狼、芋畑を「おお深い」と渡らせた狐、炎の中から飛び去り松の根元で光っていた阿弥陀さま、そして「立川」の名を背負わされた中世の濡れ衣。市史と民俗の記録でたどる、立川の民話と伝説。
立川の昭和記念公園の西側を、残堀川という川が流れている。正確に言えば、流れていないことが多い。雨の日とその直後を除けば、川底の石が乾いて白く見えるだけの日が珍しくない。
この川には、大蛇の話がある。明治のはじめごろ、草刈りに出た人が蛇に巻きつかれ、どうしてもほどけないので、口で蛇を食いちぎった。すると蛇は見る見るうちに大蛇になって、のたうちまわり、その血が三日三晩流れた。その跡が、ザンボリ川だという。
立川といえば、駅とデパートとモノレールと、かつての基地の街だ。昔話や伝説とは、いちばん縁の遠い街のように見える。私もそう思っていた。だが、調べはじめると、狐も狼も大蛇も、空を飛ぶ仏さまも出てきた。立川の地面の下には、話の層が厚く積もっている。なぜ、新しい街の顔をしたこの土地に、こんなに古い話が残ったのか。そして、なぜ私たちはそれを知らないのか。大蛇の川から、歩きはじめる。
立川にも民話と伝説はある──61話の「むかし話」
まず、数から始めたい。
立川市教育委員会が刊行し、立川市歴史民俗資料館などで頒布している『続立川のむかし話』という本がある。市の案内によれば、多摩地区の昔話の調査を続けていた常民文化研究会に依頼して集めた180を超える昔話の中から、61の話を選んでまとめたものだ。「昔むかし……」で始まる狭い意味の昔話から、世間話、伝説まで、立川で語り伝えられてきた話を収める。語り手の口調のまま、「……したあとよ」といった言い回しで、言葉になるべく手を加えずに記録しているという。
180を超える話。立川の人が「うちの街には何もない」と言うたびに、少なくとも180の話が黙って聞いていたことになる。
案内には、収録された話の顔ぶれも少し書かれている。花を咲かせる枯れ木が江戸街道の桜になっている「花咲かじじい」。途中で難題を出される「舌切り雀」。そして、ばばあ汁も登場する「カチカチ山」。
花咲かじじいの枯れ木が、江戸へ向かう街道の桜になる。全国どこにでもある昔話が、立川で語られると、ちゃんと立川の道沿いに花を咲かせている。昔話は、語られる土地の地図を少しずつ取り込んで育つ。カチカチ山の「ばばあ汁」は、狸がおばあさんを汁にしてしまう、あの話のいちばん恐ろしい場面だ。子ども向けの絵本では省かれがちなところを、立川の語り手は省かなかったらしい。立川の昔話は、案外、容赦がない。
もう一冊、新しい記録がある。新しい市史の編さん事業で刊行された調査報告書『柴崎の口承文芸』だ。市の案内によれば、「はなし」として、人魂や送り狼、狐に化かされた話のような真偽不明のものから、豊かだった自然や質素な農村の暮らしの思い出話、空襲の下を逃げまどった幼い日の体験談、高度成長期前後の子どもたちの武勇伝まで、富士見町・柴崎町・錦町・高松町などの人々から聞いた約120の話を、土地の言葉そのままに収めている。「ことば」として、富士見町の一人の女性が伝える方言1300近くも収録した。
狐に化かされた話と、高度成長期の子どもの武勇伝が、同じ本に並んでいる。民話は昔の話ではなく、人が口で語り継ぐ話のことだ。そう考えれば、昭和の子どもたちの悪さ自慢も、立派な立川の民話である。
では、その話の中には、どんな生きものが出てくるのか。最初に戻って、大蛇の川を見てみたい。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
残堀川の大蛇──三日三晩の血と、堀だけが残る川
大蛇の話の出どころは、国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」で確かめられる。データベースによれば、この話は常民文化研究会の雑誌『常民文化研究』の1982年の号に載った「多摩の昔話(一)平野部」に収められ、立川市の話として記録されている。
要約をそのまま書けば、こうなる。明治のはじめごろ、草刈りに行って蛇にからまれた人がいた。どうしてもほぐれないので、口で蛇を食い切ったら、蛇は見る見るうちに大蛇になって、そこへのたうちまわって、その血が三日三晩流れた跡がザンボリ川である。
この話が書きとめられたのは、昭和57年(1982)だ。同じ号には、同じ語り手が話した送り狼の話も、立川市の話として残っている。その送り狼の話は「電車もバスもないころ」と始まる。あのころ、話を聞かせてくれた人々は、夜道を歩いて帰るしかなかった時代を覚えていた。いま、残堀川が流れる立川の北の砂川には、昭和58年(1983)に開業した西武拝島線の武蔵砂川駅があり、川が多摩川に注ぐ立日橋の上を、多摩モノレールが渡っていく。この記事で引く民話の多くは、電車もバスもない夜道を覚えている世代が、昭和の終わりに口で語り残したものだった。
口で食い切る。この話でいちばん驚くのは、大蛇よりも、その人の方である。巻きつかれて、手ではほどけない。だから歯でいく。明治の砂川の草刈りの人の胆力は、並大抵ではない。私なら、たぶん大声で人を呼んでいるあいだに、話が終わっている。
残堀川は、どんな川なのか。百科事典によれば、狭山丘陵の西の端に近い、瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池に源を発し、武蔵村山市、立川市、昭島市を流れて、立川市柴崎町で多摩川に合流する。もとは狭山丘陵の小さな川の水を集めて南東に流れ、矢川に注いでいたと考えられている。江戸時代から何度も流れを変えられた川で、承応3年(1654)には玉川上水につなげられ、明治には上水の下をくぐらされ、昭和38年(1963)には逆に上水が残堀川の下をくぐる形に変えられた。その来歴は、この特集の玉川上水の一編に詳しい。
その後の改修工事のあと、残堀川は、雨のときとその直後を除くと水の流れがほとんど見られない「瀬切れ」を、頻繁に起こすようになった。百科事典は、場所によってはその名のとおり「堀だけが残る川」になってしまった、と書く。原因については、川底を礫の層まで掘り下げたために水が地下に潜りやすくなった、という見方を紹介している。
ここで、話が一つにつながる。大蛇の血が三日三晩流れた川。そして、いまは水がほとんど流れない川。伝説が言うのは、ここを何かが流れたということだ。科学が言うのは、ここから水が消えたということだ。立川の人々が、乾いた川床を見て、ここにはかつて何かが流れていたと語りたくなった気持ちは、よくわかる気がする。
もう一つ、この川には名前の謎がある。立川市の市史編さん広報紙は、砂川という地名が、残堀川が砂と石のむき出しになった「砂の川」だったことに由来するといわれる、と書いている。残堀という名の由来は、私には確かめられなかった。大蛇の血の跡、という説明は、少なくとも語り手にとっては、十分な由来だったのだろう。
数字で読む 立川の民話と伝説
- 180 — 常民文化研究会が集めた立川の昔話の数。「何もない街」は、少なくとも180回は聞き流された。
- 61 — そのうち『続立川のむかし話』に選ばれた話の数。残りの119話は、まだどこかで出番を待っている。
- 約120 — 『柴崎の口承文芸』に収めた「はなし」の数。人魂と、昭和の子どもの武勇伝が同じ本にいる。
- 1300 — 同じ本に収めた、富士見町の一人の女性が伝える方言の語彙の数。一人で一冊の辞書である。
- 3日3晩 — 残堀川の大蛇の血が流れたと伝わる時間。水の少ない川に、話の中でだけ長い流れがある。
- 20.8 — 古墳かもしれない柴崎町の沢稲荷の塚を、地中レーダーで探って復元した墳丘の直径(メートル)。お稲荷さんの足もとに、1300年前の誰かがいるかもしれない。
狐の「おお深い」と、月が二つ出た夜
大蛇の次は、狐である。立川の狐は、よく人を化かした。
同じデータベースには、1983年の『常民文化研究』に載った「多摩の昔話(二)」から、立川市の狐の話がいくつも拾われている。いくつか、要約のまま並べてみる。
お祝いごとのとき、オサツ、つまりさつまいもなどを作っておくと、狐にとられることがある。川のつもりで「おー深い、おー深い」と言いながら、さつまいも畑を歩いたという話がある。まつげに唾をつけておくと、ごまかされない。
別の語り手の話では、おいもの畑を、尻をまくって「おお深い、おお深い」と言って入っていった。向こうの山林にいる狐が化かしたのだそうだ。
情景を思い浮かべてほしい。夜の芋畑で、大人が着物の裾を尻までまくりあげ、ありもしない川を渡るつもりで、一歩ずつ慎重に足を運んでいる。口では「おお深い」と言っている。翌朝、畑の持ち主は、踏み荒らされた畝を見て、たぶん狐を恨んだ。いや、恨むべき相手は別にいたのかもしれないが、狐のせいにしておけば、誰も傷つかない。
この「深い深い」の型は、立川だけのものではない。同じデータベースには、千葉県長柄町の話として、油屋のおかみさんが暗い山道で迷わされ、田の中を「深い、深い」とぐるぐる回らされた、狐の仕業だ、という記録もある。房総の田んぼでも、立川の芋畑でも、狐は人に見えない川を渡らせていた。土地が違えば、渡る畑の作物が違う。立川では、それがさつまいもだった。
立川の狐の話は、まだ続く。おばあさんのところへ、うどんを作って持っていってあげようと、連れ合いを連れて出かけた。途中に川があって、大きな提灯が見えた。それはやはり狐の仕業だろう、ということになった。おじいさんが馬を引いていると、月が二つ出た。歩いているうちに消えてしまった。こういう話を聞いたことがある。春の夜、帰る途中で、ぱっと空が明るくなって、火が消えた。行ってみると何もなかった。燃えあがった火が何だったのか、わからずじまいだった。これは狐火として記録されている。
うどんを届ける途中の提灯というのが、いかにも立川らしい。この特集の麺の一編が書いたとおり、米のとれない台地の村では、うどんがご馳走だった。狐にとっても、そのうどんは気になったに違いない。
いちばん艶っぽい話も一つ。遊びに行った帰りに森を通ると、きれいな女の人が出てきて「一緒になりましょう」と言うので、一緒になった。できた子どもは、油揚げばかり食べたという。結末が、ずいぶんあっさりしている。正体が明かされる場面も、別れの涙もない。ただ、子どもが油揚げばかり食べる。それで聞き手は全部わかる。立川の語り手は、説明しすぎない。
狐の話を読んでいくと、もう一つ気づくことがある。どの話も、夜道と畑と川の話だ。立川の昔の夜は、それだけ暗く、畑は広く、道は寂しかった。狐は、その暗さの中に住んでいた。
だが、立川の夜道に出たのは、狐だけではない。
旅人の寄り道クイズ
平将門の首を供養したと伝わる「将門塚」がある東京・大手町の一帯は、かつて何と呼ばれていたか。
(A)芝崎村 (B)砂川村 (C)立川村
答えは、最後のページで。
送り狼に「ごくろうさま」を──礼儀正しい立川の獣たち
夜の山道で人のあとをついてくる狼、送り狼の話は、関東から近畿にかけて広く伝わっている。転んだ人を食い殺すが、正しく振る舞えば、かえって家まで守ってくれる、というのが百科事典の説明だ。お礼に食べ物や草履の片方をやると、満足して帰っていく、ともいう。

写真: Quatrogatos / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
立川の送り狼は、少し違う。データベースに残る立川の話はこうだ。電車もバスもないころ、送り狼についてこられた人が、「ごくろうさま」を言わずに家に入ってしまった。朝、戸を開けると、まだ外にいた。「ごくろうさまって言わなかっただろう」と言われたので、「ごくろうさま」と言うと、帰っていった。
食い殺しもしない。脅しもしない。ただ、礼を言われるまで、朝まで玄関の前で待っている。そして、礼を言われたら、きちんと帰る。私はこの話がたまらなく好きだ。立川の狼は、礼儀に厳しかった。夜通し送ってきたのに一言もないのは、たしかに失礼だ。狼が言葉をしゃべったことより、狼の言い分がまっとうなことの方に、聞き手は笑ったのではないか。
立川の生きものの話には、こういう「しつけ」の顔をしたものが多い。
手をきれいに洗わないと、きじに手を取りかえられる。きじは利口で、羽が大きく、爪の力が強いから、子どもの手をもいで自分の手と取りかえるのだという。手洗いの大切さを、これほど迫力のある方法で教える話を、私はほかに知らない。小学校の手洗い指導に採り入れれば、効き目は抜群だろう。泣く子の数も、たぶん抜群に増える。
娘と二人で畑に行くと、太い蛇がいたので土を投げた。すると蛇のたたりで、おばあさんの目が痛くて開かなくなった。井戸に卵と酒を供えてお詫びすると治った。土を投げたのは娘たちで、たたられたのはおばあさん、というところに、昔の家の連帯責任の重さがにじむ。
オイヌ様にお灯明をあげないでいると、オイヌ様が毎晩、敷居へ来て、手をかけたらしい。オイヌ様が何を指すのか、この短い記録だけではわからない。だが、毎晩敷居に手をかけて、灯明の催促をする。送り狼と同じで、立川の獣は、礼を欠かれると、静かに、しつこく、催促に来る。
どの話にも、悪意のある怪物は出てこない。出てくるのは、筋を通してほしい生きものたちだ。礼を言う。手を洗う。生きものに土を投げない。灯明を欠かさない。立川の民話は、怖がらせながら、暮らしの作法を教えていた。
ただ、一つだけ、作法ではすまない話がある。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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