立川の水道水はどこから来るのか。利根川と多摩川、そして街の下の深い井戸。昭和27年に井戸からガソリンの匂いがして国会で議論された水道の始まり、町の水道から都の水道へ、柴崎や栄町の水源井戸、災害時給水ステーションと備蓄の水まで、都水道局・市・国会の資料でたどる立川の水のルポ。
立川の蛇口をひねると、水が出る。あたりまえのことだ。だが、その水がどこから来たのかを、私は一度も考えたことがなかった。
多摩川の水だろう、と漠然と思っていた。立川は多摩川のほとりの街である。ところが東京都水道局の資料を読むと、東京の水道の水源は、その8割が利根川と荒川の水系だという。群馬や埼玉の方角から来た水が、立川の台所に届いているかもしれない。
そして、もうひとつ。都の水質の年報の一覧には、柴崎、富士見、砂川、栄町、西砂と、立川の町の名を冠した水道用の井戸が、20本以上も並んでいた。私たちの足もとの、ずっと下から、水が汲み上げられている。
調べるうちに、もっと意外な記録にも行き当たった。昭和27年(1952)、立川の井戸水は、国会で質問が出るほど汚れていた。井戸からは、ガソリンの匂いがしたという。
立川の水は、どこから来て、どんな道をたどってきたのか。蛇口の向こう側へ、さかのぼってみる。
立川の水道水はどこから来るのか──利根川、多摩川、そして足もとの井戸
まず、東京全体の話から始めたい。

写真: Yamaguchi Yoshiaki from Japan / CC BY-SA 2.0 / Wikimedia Commons
東京都水道局によれば、東京都の水源はほとんどが河川の水で、80パーセントが利根川と荒川の水系、17パーセントが多摩川の水系である。都が持つ水源の量は、1日あたり約680万立方メートル。昭和30年代までは水源の多くを多摩川の水系に頼っていたが、その後の急な需要の伸びに合わせて、利根川の水系への依存を高めてきたという。
多摩川の街に住みながら、飲んでいる水の多くは利根川から来ているかもしれない。地元の川に義理を欠いているような、妙な気分になる。
では立川はどうか。多摩地区の水道は、区部とは少し事情が違う。都水道局の多摩地区の水質の年報(令和2年度)によれば、多摩の26の市町と多摩ニュータウンの給水人口は約396万人で、1日の平均の配水量は約117万立方メートルだった。そのうち約89パーセントは、東村山浄水場や小作浄水場などから「補給水」として送られている。残りの約11パーセントは、多摩地区の中で川の水や伏流水、地下水を汲んで浄水処理や塩素消毒をし、配っている水で、「地区水」と呼ばれる。そして、地区水の約83パーセントは、水道用の水源井戸から汲み上げた地下水である。
つまり多摩の蛇口には、遠い川の水と、足もとの井戸の水が、混ざって届いていることがある。年報は、地区水だけを配る区域は少なく、大半の施設は東村山浄水場などからの補給水を受け、地区水と混ぜて配っている、と書いている。
立川の水の道筋は、令和5年度の年報の系統図で追える。立川市の柴崎給水所は東村山浄水場の系統に置かれ、立川砂川給水所は小作浄水場と東村山浄水場の系統に置かれている。富士見第三浄水所と立川栄町浄水所は、それぞれ自分の名を冠した系統として描かれる。
東村山浄水場は、どこから水を取っているのか。オンライン百科事典のウィキペディアによれば、多摩湖、狭山湖、玉川上水、それに荒川の秋ヶ瀬取水堰の4か所が主な水源だ。都水道局は、利根川の水を荒川から取る朝霞浄水場と、多摩川の水を羽村取水堰と村山・山口貯水池を経て取る東村山浄水場とが、長さ約17キロ、直径2.2メートルの「原水連絡管」で結ばれ、互いに原水を融通していると説明する。ふだんは主に利根川と荒川の水を使い、小河内貯水池など多摩川の水系の水は、できるだけ貯めておく。渇水や水質事故のときには、多摩川の水を回す。
東村山浄水場の来歴にも、多摩の水の歴史が詰まっている。事典によれば、昭和7年(1932)に東京市の第二水道拡張事業として、小河内貯水池とともに着手され、戦争による中断をはさんで、昭和35年(1960)8月16日に通水を始めた。はじめの原水は多摩川の水系だけだったが、昭和39年(1964)に荒川の水が、昭和40年(1965)に利根川の水系がつながった。昭和39年は東京オリンピックの年で、事典の小作浄水場の項は、同じ年の東京大渇水にも触れている。多摩川だけでは東京を潤しきれなくなった、ちょうどその時期に、東村山は利根川と手を結んだことになる。いまこの浄水場は東京都の四大浄水場のひとつで、全体の18.4パーセントを担う。比較的標高の高い場所にあるので、区部へは自然流下で水を送っている、とも事典は書く。狭山丘陵を望む浄水場から、水は坂を下るように東京の東へ流れていく。
奥多摩の山に降った雨と、利根川の上流の水。その二つが、地下の太い管でつながり、立川の手前の給水所で、ときには足もとの井戸の水と合わさる。コップ一杯の水道水は、思ったよりずっと遠くから、いくつもの道を通って来ている。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
街の下に眠る水源井戸──柴崎一号から九号まで
足もとの井戸の話に移ろう。
都水道局の多摩地区の水質の年報(令和2年度)には、多摩地区の水源井戸の一覧が載っている。立川市の欄を数えると、浄水の施設が8か所、水源井戸が24本あった。
柴崎給水所には、柴崎一号水源から柴崎九号水源まで、9本の井戸が並ぶ。同じ給水所には富士見一号、二号、三号、六号の水源もある。富士見四号と五号は、富士見第一浄水所と富士見第三浄水所に一本ずつ。立川砂川給水所には砂川二号水源と柏町水源。立川栄町浄水所には立川栄町一号から三号。砂川中部浄水所には砂川一号水源と上砂水源。西砂第一浄水所と西砂第二浄水所には、西砂一号と二号。
一覧を眺めていると、電車の号車の案内を読んでいるような気分になる。柴崎は九号車まで連結した長い編成で、富士見は四号と五号だけ別の車両に乗っている。井戸に番号を振った人の、几帳面な苦労がしのばれる。
この井戸の水は、どんな水なのか。同じ年報によれば、多摩地区の地下水は、pHが6.9から8.4までの範囲にあって、全般には弱いアルカリ性である。カルシウムやマグネシウムなどの量を示す硬度は、1リットルあたり12.0ミリグラムから148ミリグラムまでの幅があった。下の数字と上の数字で、10倍以上の開きがある。同じ多摩の地下でも、井戸ごとに水の性格がずいぶん違うのだ。水源井戸の水質検査は、3年に一度の頻度で行われているとも、年報は記している。
地下水には、新しい心配ごともある。立川市は、市が持つ9か所の井戸と、市内の事業所や市民が持つ19か所の井戸で、有機フッ素化合物の調査を行い、結果を公表している。水道水では、令和8年(2026)4月1日から、PFOSとPFOAの合計値に水質基準が設けられた。井戸は、その土地の過去も未来も、黙って溜めこむ。
ところで、立川の地下といえば、もうひとつ書いておきたいことがある。立川の名を冠した「立川断層」という活断層がある、と長く言われてきた。ところが百科事典によれば、平成27年(2015)に報告された調査で、確認された断層は瑞穂町の箱根ヶ崎あたりの約12キロで、立川市内には存在しないと結論づけられ、報告書の中では名前も「箱根ヶ崎断層」に改められた。立川の名を背負った断層は、立川にいなかったのである。立川の地下で確かに働いているのは、断層ではなく、20本あまりの井戸のほうだ。
台地の上は、水が遠かった──井戸と分水の時代
いまでこそ深い井戸から水を汲めるが、昔の立川の台地は、水に苦労した土地だった。
立川市は、地下水位が低くて人が住めなかった武蔵野台地に、玉川上水から多くの分水が引かれた、と説明している。都水道局の資料も、玉川上水が武蔵野台地の尾根筋を流れるため台地の各部に分水でき、分水は飲み水、田畑の水、水車の動力として使われ、水の乏しい武蔵野台地の開発に大きく貢献したと書く。寛政3年(1791)ごろには、33の分水が記録されていたという。玉川上水と砂川の分水の話は特集の別の記事で歩いたので、ここでは、台地の村が井戸より先に上水の分水で生き延びた、ということだけを確かめておきたい。
一方、台地の南の縁、多摩川に近い崖の下には、湧き水があった。錦町のあたりにはかつて「井戸端」と呼ばれる、湧き水がたくさん出る場所があったと、根川の記事で書いた。満願寺の跡には、いまも井戸だけが残っている。台地の上は水が遠く、崖の下は水が近い。立川の水の地図は、もともとその高低差で描かれていた。
そして戦後、立川の井戸は、思いもよらない形で人々の暮らしを脅かすことになる。
昭和27年、井戸からガソリンの匂いがした──立川の水道の始まり
衆議院のサイトに、昭和27年(1952)の質問主意書と、それに対する政府の答弁書が残っている。題は「立川市における飲料水の汚濁に関する質問」。
同じ年の6月13日付の答弁書は、こう書いている。立川市の一部の井戸水は、昭和23年ごろから悪臭や汚濁が見つかり、昭和26年ごろから駐留軍の飛行場の周辺の一部の地域で特にひどくなり、範囲を広げてきた。その影響は、戸数1,600戸、約1万人に及んでいる。地下30尺から40尺ほどの井戸の水は、ガソリンの匂いと油類を含み、一部は赤錆色に濁って、飲み水としては不適当である。
30尺から40尺は、およそ9メートルから12メートル。人の手で掘り、つるべや手押しのポンプで汲み上げる深さの井戸が、ガソリンの匂いを放っていた。
同じ年の11月には、別の議員が質問主意書を出している。質問は、汚染が富士見町、曙町、柴崎町、錦町、高松町の一帯に広がり、2,317世帯、9,965人が、直接または間接にこの水を飲み水に使わざるを得なくなっている、と訴えた。給水車による給水は時間が限られているので、勤めのある人などは、いまなお汚れた水を飲まざるを得ない、とも書いている。
11月21日付の答弁書は、原因について、立川市の付近に駐留する駐留軍の輸送管の破損箇所から油が漏れ、少しずつ地下へしみこんだもので、これは日米の合同委員会での協議の結果、駐留軍側の調査で明らかになった、と答えている。破損箇所はその年の7月22日の現地調査で修理が確認された、という。都の衛生局長が市長に通知した結果では、880件あまりの検査のなかに、国が飲み水として許す量を超える鉛を含むものは見つからなかった、とも書いている。
そして、解決策はひとつだと答弁書は言う。水道を敷いて、速やかに給水を始めることである。
ここで、立川の水道の始まりが顔を出す。立川市の年表は、昭和26年(1951)の項に「立川市で上水道事業開始」と記している。答弁書によれば、立川市の水道の当初の計画は、給水人口2万3,400人、1日平均の配水量5,400トン、1人1日あたり230リットルで、費用は1億8,700万円。工事は昭和26年度に始まっていたが、汚れた地域が広がるにつれて、計画の外の地域を加えることになった。翌年の1月には、被害地域の一部に給水を始められる見込みだという。
翌昭和28年(1953)3月10日付の別の答弁書は、さらに踏みこんでいる。原因は駐留軍の基地からのガソリンの地下浸透とされてきたが、最近になって、旧日本陸軍の地下のガソリンタンクからも漏れているのではないかという疑いが出てきた、と書く。対策として、当局は市や町と住民に注意を呼びかけ、「ガソリン湧出井戸」の取り扱いと火災予防の知識を広めるとともに、必要に応じて井戸水の使用の禁止や、焚き火と喫煙を禁じる区域の指定をしているという。立川市では、3月末までに被害のひどい地域の大半に給水できる見込みとされ、隣の昭和町、いまの昭島市の側では、駐留米軍から水を分けてもらって応急の給水をしていた。
井戸のそばで、たばこを吸ってはいけない。そんな注意が、本当に出されていた時代があった。私は答弁書を二度読み、それから自分の家の蛇口を思った。
医学の雑誌『公衆衛生』の昭和34年(1959)4月号には、国立立川病院の医師による「立川市内に発生した汚染井戸水に関する研究」という論文も載っている。冒頭には、汚染が立川市内を中心に、近接する市町村にまで及んだことが書かれている。
立川の水道は、便利さのために敷かれたのではなかった。飲めなくなった井戸の代わりとして、急いで敷かれたのである。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
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