愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンを、肥満のある人に鼻や静脈から入れた試験を集めた。1回の投与で変わった脳の反応、8週間で動かなかった体重、女性で増えた食べる量、高齢者で増えた筋肉まで、試験食の一皿と体重計の数字を分けて、いま言えることを確かめる。
飼っている犬の背中をなでるようになってから、夜中に台所へ立つ回数が減った気がする。立川駅の改札を出たところで、友人がそんな話をした。どこかで読んだ記事に、なでたり抱きしめたりすると出る「愛情ホルモン」が食欲を抑える、と書いてあったらしい。
そのホルモンの名前はオキシトシンという。出産と授乳の場面で働くホルモンとして知られてきたが、食べる量や代謝の調節にも関わることが分かってきた[11]。鼻から吸い込む製剤は、肥満の治療になるかどうかを確かめる研究の段階にある[1][11]。
犬をなでることと食欲の関係は、集めた論文のどれも調べていない。調べられているのは、肥満のある人にオキシトシンそのものを入れて、目の前の一皿の量、食べ物の写真を見たときの脳の反応、そして何週間か後の体重計の数字を測った試験である。三つの物差しは、同じ答えを返してこなかった。

出産のホルモンが、なぜ食欲の話に出てくるのか
オキシトシンは脳の視床下部でつくられる小さなたんぱく質(ペプチド)で、出産、授乳、傷の治り、人との関わりなど、幅広い働きに関わる[11]。食欲との関係は、まず動物の実験で見えてきた。動物に長く与えると体重が減り、その減り方は食べる量が減ったことだけでなく、エネルギーの消費と脂肪の分解が増えたことにもよるとされる[11]。
基礎研究をまとめた小さなレビューは、オキシトシンが主に一回の食事の量を小さくする方向に働くと見ている。炭水化物や甘い味の摂取を減らす働きが特に強く、その反応の大きさは食事の中身や味、さらに誰と食べるかという社会的な状況によっても変わるという[18]。食卓の人数まで効き目に関わるとなると、試験の条件をそろえる側の苦労がしのばれる。
人の側の手がかりもある。視床下部が傷ついた状態や、オキシトシンが少なくなる一部の遺伝の病気では、食べる量が極端に増え、体重が大きく増えることがある[11]。人に一度だけ投与した試験では食べる量が減り、食べ物への意欲に関わる脳の部位の反応が弱まり、自分を抑える働きに関わる部位の反応が強まった[11]。
ここまで並べると、鼻のスプレーで痩せる日が近いように見える。ただし同じレビューは、基礎研究の明るい結果に比べて、人の臨床で肥満や食べすぎに使おうとした試みは「やや入り混じった」結果だったと書いている[18]。動物で強く出た作用が、人の体重計にどこまで届くのか。ここから先は、その答えを試験ごとに見ていく。
読んだ分のカロリーは、石の上で返せる。
1回の鼻スプレーで、脳と指先の反応はどう変わったか
体重より手前の、短い時間の反応から見ておく。過体重か肥満の男性10人に、オキシトシン24 IU(国際単位)か偽薬を鼻から入れ、日を変えて入れ替えた交差試験がある。投与の後、高カロリーの食べ物、低カロリーの食べ物、食べ物でない物の画像を見せ、脳の血流の変化を機能的MRIで調べた[19]。
結果は、見せた画像の種類で分かれた。高カロリーの食べ物を見たときだけ、報酬の仕組みの出発点にあたる腹側被蓋野と、島皮質、扁桃体、海馬など食べる意欲に関わる部位とのつながりが弱まった。低カロリーの食べ物や食べ物でない物の画像では、偽薬との差は無かった[19]。揚げ物やケーキの写真に脳がざわつく、その立ち上がりだけが静かになった、という読み方になる。
別の交差試験では、過体重か肥満の男性10人に1回24 IUを使い、合図に応じてボタンを押し、止めの合図が出たら押すのをこらえる課題を調べた[17]。オキシトシンの後は、押す課題の反応が平均936ミリ秒と偽薬の833ミリ秒より遅くなり、こらえきれずに押してしまう誤りの割合は36.41%で、偽薬の41.15%より少なかった[17]。研究者は、行動をあらかじめ構えて制御する働きが強まったと結論している[17]。
どちらも1回だけの投与で、人数は少なく、対象は男性だけである。脳のつながりやボタンの押し方が変わっても、それが毎日の食事の量や数か月の体重につながるかは、この型の試験からは分からない。指先が慎重になることと、夕方のコンビニで菓子パンを棚に戻せることの間には、まだ何段もの距離がある。

8週間、1日4回使った大人の体重はどうなったか
肥満の治療として役に立つかを確かめた中心の試験は、2024年に報告された[4]。肥満のある大人61人(平均33.6歳、BMIの平均36.9、54%が女性)を、性別と肥満の程度で層に分けてくじで二つの群にし、オキシトシン24 IUか偽薬を1日4回、8週間、鼻から使ってもらった。参加者も研究者もどちらを使っているかを知らない二重盲検である[4]。
主な評価項目は8週間の体重の変化だった。変化の量は順にオキシトシンの群が0.20 kg、偽薬の群が0.26 kgで、差は無かった(P=0.934)[4]。体脂肪の総量、お腹の内臓脂肪の面積、肝臓の脂肪の割合、筋肉などの量で補正した安静時のエネルギー消費にも、偽薬と比べてよい方向の変化は見られなかった[4]。
一方で、食べる量には差が出た。6週目に用意した試験食で、食べたカロリーの開始時からの変化は、順にオキシトシンの群が−31.4 kcal、偽薬の群が120.6 kcalで、差は−152.0 kcal(95%信頼区間は−302.3〜−1.7)だった[4]。信頼区間の片方の端は−1.7 kcalで、ゼロのすぐ手前にある。差があったことは言えても、どれほどの大きさかの見積もりには幅が残る。
試験食の一回で測れるのは、決まった条件での一食の量である。毎日の三食と間食、外食や家族の残り物まで積み重なって決まる体重とは、測っている物が違う。研究室の一皿と暮らしの中の体重計は、同じ試験の中でも別の問いに答えていた。
重い有害事象は無く、有害事象の頻度と程度も二つの群で差が無かった[4]。肥満の大人に8週間使ってもらった無作為化試験のデータで、女性ホルモン、男性ホルモン、乳汁の分泌に関わるプロラクチンを調べた解析でも、8週間の使用でこれらの値と月経周期の長さに偽薬との差は見られなかった[1]。研究者はこれを、生殖に関わる安全性を支持する「予備的な」材料と位置づけている[1]。
静脈から濃度を上げても、食べた量は同じだった
鼻からではなく血管から入れれば、体の中の濃度ははっきり上がる。肥満のある24人(女性12人、年齢の中央値41.5歳、BMIの中央値36.2)が、一晩何も食べない状態で、オキシトシンか生理食塩水を4.5時間かけて静脈に流す日を、少なくとも7日空けて1回ずつ経験した[2]。点滴の開始から60分後に決まった液体の食事をとり、4時間後に好きなだけ食べてよい食事を出して、その量を測っている[2]。
食べた量は、順にオキシトシンの日が平均714 kcal、生理食塩水の日が707 kcalで、ほとんど同じだった[2]。空腹感や満腹感、血糖、インスリン、GLP-1などの食欲に関わるホルモン、胃から食べ物が出ていく速さも変わらなかった[2]。このときの血中の濃度は約400 pg/mLで、体が自然に出す範囲を超えていたと研究者は書いている[2]。
この研究者たち自身は、鼻から1回入れると食べる量が減るという先行の報告を研究の出発点に挙げていた[2]。同じホルモンでも、鼻から入れるか、静脈に流し続けるかで、食卓の結果が一致しなかったことになる。どの経路で入れたかを確かめずに「オキシトシンは食欲を抑える」とひとまとめにすると、この食い違いが見えなくなる。
数字で読むオキシトシンの試験
- −152.0 kcal:肥満の大人の8週間の試験で、6週目の試験食の摂取カロリーの変化について、偽薬の群に対するオキシトシンの群の差[4]
- 714 kcal と 707 kcal:静脈から入れた交差試験で、自由に食べた食事の平均の量。順にオキシトシンを静脈に流した日、生理食塩水の日[2]
- −0.6 kg:視床下部や下垂体の腫瘍による肥満の小さな交差試験で、偽薬の期間に対するオキシトシンの8週間の体重の差。95%信頼区間は−2.7〜1.5で、有意ではない[7]
- 2.25 kg:筋肉の衰えが疑われる肥満の高齢者の8週間の試験で、偽薬の群に対してオキシトシンの群で多く増えた全身の除脂肪量[13]
- 48人、46人、40人:女性を対象にした交差試験の参加者。順にむちゃ食い障害のある人、過体重の人、標準体重の人[3]
- r=0.43:肥満の人を調べた小さな観察研究で、血中のオキシトシンの濃度とBMIの間の正の相関[9]
読んだ分のカロリーは、石の上で返せる。
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