夕方の立川駅北口は、いつも少しせわしない。改札から吐き出される人の波、モノレールの駅へ急ぐ人、待ち合わせの相手を探してスマートフォンを掲げる人。信号が変わるたびに足音の向きが入れ替わり、そこでは誰も、誰にも頭を下げません。
そこから歩いて1分、ビルの3階に上がる。道場の入口で立ち止まり、一度、頭を下げる。たったそれだけのことで、背中にくっついてきた駅前のざわめきが、すっと剥がれ落ちる瞬間があります。
この記事を書いているのは、オンザショア立川店です。JR立川駅北口から徒歩1分の溶岩ホットヨガスタジオですが、同じ場所で、ワールド極真会空手連盟 東京支部として極真空手も教えています。教えるのは、極真空手 三段・師範代で、東京支部長でもある代表です。稽古はすべて、代表との1対1。
今回は、空手の「礼法」の話をします。「礼に始まり礼に終わる」という言葉は、空手をやったことがない人でも一度は聞いたことがあるはずです。けれど、その礼がいったい何をしているのか、なぜ突きや蹴りを学ぶ稽古の前後に頭を下げるのかを、きちんと説明された経験のある人は多くないかもしれません。礼法は、行儀のよさを見せるための飾りではありません。少なくとも、この道場ではそう考えています。

「礼に始まり礼に終わる」は、飾りの言葉ではない
「礼に始まり礼に終わる」は、空手に限らず、柔道や剣道など日本の武道で広く使われてきた言葉です。稽古は礼から始まり、礼で終わる。文字どおりに読めばそれだけですが、この言葉にはもう一つの読み方があります。
礼と礼のあいだにあるものは、すべて稽古だ、という読み方です。
始まりの礼は、扉を開ける音です。ここから先は、ふだんの自分とは違う時間に入る。終わりの礼は、扉を閉める音です。ここで稽古はおしまい、外へは持ち出さない。始まりと終わりがはっきりしているからこそ、そのあいだの時間に全力を注げる。逆に言えば、礼のない稽古は、いつ始まっていつ終わったのか分からない、締まりのない時間になってしまいます。
もう一つ、礼は「自分の外にあるもの」に向かって頭を下げる所作でもあります。道場という場所、教えてくれる人、一緒に稽古する相手。極真の精神を表す言葉として、大山倍達総裁の「頭を低くして(謙虚)、目を高くして(野心)、口を閉じて(静寂)、親孝行を基本とし、他を利する」が知られています。その最初に置かれているのが「頭を低くして」なのは、偶然ではないように思えます。強くなろうとする人間ほど、まず頭を下げることを覚える。礼は、強さに最初にかけるブレーキでもあるのです。
初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。
道場に入るとき、出るときの礼
この道場では、入口で一度礼をしてから中に入ります。そして稽古を終えて外に出るときにも、振り返って礼をする。礼の深さや向き、声を出すかどうかといった細かな作法は、流派や道場によって違います。ここでは「なぜそうするのか」の側から話します。
入るときの礼は、外の時間を置いてくるため
道場に入る前の人は、たいてい何かを背負っています。仕事の段取り、言い返せなかった一言、夕飯の献立、子どもの宿題。そういうものを抱えたまま組手をすると、気持ちが散って、相手の動きが見えなくなります。見えないまま打ち合えば、ケガにつながりかねません。
入口での一礼は、その荷物を敷居の外に置いていく合図です。もちろん、頭を下げただけで悩みが消えるわけではありません。けれど、「ここから先は稽古」と自分に宣言する小さな儀式があるかないかで、その後の時間の集中は変わってきます。
空手の稽古は素足で行います。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、足の裏がじかに床に触れたとき、体のほうが先に「ここは外とは違う場所だ」と気づきます。入口の礼と素足の感覚は、同じ役目を二重に果たしているのです。
出るときの礼は、稽古を外へ持ち出さないため
出るときの礼には、別の意味があります。稽古の中では、相手に向かって本気で突きや蹴りを出します。その熱を、そのまま駅前の雑踏へ持ち出してはいけない。出口で振り返って一礼することで、道場の中の自分と外の自分のあいだに、もう一度線を引きます。
ビルを出れば、さっきまでの稽古を知らない人たちの流れに、また戻ります。

正座と黙想――動く前に、いったん止まる
空手の道場には、稽古の始めと終わりに正座をし、目を閉じて黙想する時間があります。号令の言葉や順番、どのくらいの時間黙想するかは道場ごとに違いますが、「動く前に、いったん止まる」という骨組みは多くの道場に共通しています。
始まりの黙想は、呼吸を自分に戻す時間
正座をして背すじを伸ばし、目を閉じる。最初の数秒は、頭の中がうるさいはずです。さっき読んだメールの文面、帰りに買うもの、明日の予定。それを無理に消そうとしなくてかまいません。ただ、自分の呼吸がどのくらいの速さで、どのくらいの深さなのかに気づく。駅から急いで来た日は、思ったより息が浅く速いことに驚くかもしれません。
黙想の静けさは独特です。音がなくなるのではなく、音が遠くなる。ビルの外を走る車の音も、自分の鼓動も、ちゃんと聞こえている。そのうえで、どれにも引っぱられずに座っている。短い時間でも、目を開けたときの世界の見え方が少し変わります。
終わりの黙想は、熱を冷ます時間
終わりの黙想は、始まりのそれとは違う働きをします。稽古のあとの体は、まだ戦う態勢のままです。息は上がり、手足には力が残っている。その状態からいきなり日常に戻ると、気持ちがざわついたまま帰ることになります。
正座をして目を閉じ、上がった呼吸がゆっくり静まっていくのを待つ。その日の稽古でうまくいかなかった動き、言われたこと、気づいたことを、頭の中で一度なぞる。終わりの黙想は、稽古を「やりっぱなし」にしないための時間でもあります。
正座がつらい人へ
正座が苦手な人は少なくありません。膝や足首にケガや痛みがある人、長く正座をしたことがない人は、無理をしないでください。気になることは最初の相談のときに伝えてもらえれば、1対1の稽古なので、それを前提に稽古を組み立てやすくなります。
「押忍」という言葉
極真空手の道場を見学すると、たぶんいちばん耳に残るのが「押忍(おす)」という言葉です。
「押忍」は、あいさつから返事まで、道場で何度も交わす言葉です。あいさつとして。「はい、分かりました」という返事として。礼の言葉として。ときには謝る場面でも使われる。一語でいくつもの気持ちを運ぶ、便利でふしぎな言葉です。
由来には諸説あります。字のとおり「押して忍ぶ」、つまり自分を抑えて耐えるという意味を重ねる説明はよく聞かれますし、ほかにも、ふだんのあいさつの言葉が縮まったものだとする話など、いくつかの説が語られています。どれが正しいのかははっきりしていないので、ここでは断定しません。
ただ、由来がどうであれ、道場で交わされる「押忍」には共通した手ざわりがあります。それは「受け取りました」という合図だということです。指導者の言葉を聞いて「押忍」と返すのは、「聞こえました。やってみます」という意味です。相手に「押忍」と言って構えるのは、「準備ができました。お願いします」という意味です。
だからこそ、「押忍」は口先だけで言うと、すぐにばれます。聞いていないのに「押忍」と返せば、次の動きで聞いていなかったことが分かる。言葉が軽ければ、構えも軽い。この二文字は、言った本人の中身をそのまま映す鏡のようなものです。
ひとつだけ付け加えると、「押忍」は道場の中の言葉です。空手を始めたうれしさで、職場や学校で誰かれかまわず使うと、相手を驚かせてしまうかもしれません。言葉には、ふさわしい場所があります。それを知っていることも、礼法の一部です。

相手への礼は、相手の体を守る約束
極真空手は、実際に相手の体に当てる直接打撃の空手として知られています。突きも蹴りも、本当に当たる。その重さを知っているからこそ、相手への礼を大切にします。ただし、入門した人がいきなり本気の打ち合いをする、という意味ではありません。ここで教える相手は女性と小中学生で、代表との1対1です。自分の体力や習熟度に合う範囲を、代表と一つずつ確かめる。1対1だから、その確認が稽古の真ん中にあります。
組手の前の礼は「ここまで」の確認
組手の前に、向かい合って礼をする。これは単なるあいさつではありません。「今から、決められた約束の中で、あなたに向かって技を出します」という確認です。どこまで当てるのか、どのくらいの強さで行うのか、何をしてはいけないのか。その約束をお互いが受け入れたことを、頭を下げる所作で示します。
礼をせずに打ち合いを始めることを想像してみてください。相手がいつ始めるつもりなのか分からない。どこまでやる気なのか分からない。それは稽古ではなく、ただのけんかに近いものになってしまいます。礼は、打ち合いを稽古の中にとどめておくための、目に見える約束なのです。
組手のあとの礼は「もう終わった」の合図
組手のあとの礼は、「ここで終わり。悔しさは道場に置いていく」という合図です。技が思うように出なくても、一礼して終える。止まれる人だけが、ちゃんと打てる。
礼法が「相手と自分の体を守るための約束」だというのは、こういう意味です。形式だから守るのではなく、守らないと危ないから、形として残ってきた。そう考えると、礼の一つひとつが急に実用的なものに見えてきます。
ミットを持つ人への礼
空手の稽古には、ミットに突きや蹴りを打ち込む練習もあります。ミットを持つ人は、あなたの技を自分の体で受け止めています。ミット越しでも衝撃は伝わりますし、狙いが外れれば腕や体に当たることもある。打つ前には「お願いします」の気持ちで礼をし、打ち終えたら感謝の気持ちで礼をする。空手の道場では、この「お願いします」と「ありがとうございました」の代わりに「押忍」が使われることもよくあります。
自分の技を受け止めてくれる人がいなければ、思いきり打つ練習はできません。その当たり前のことを、毎回、頭を下げて確かめる。それがミットの前後の礼です。
大人にとっての礼法――失った「区切り」と「敬意」
ここからは、礼法が今の暮らしの中でどんな意味を持つのかを、大人と子どもに分けて考えてみます。オンザショアの空手の稽古の対象は、女性と子ども(小中学生・男の子も可)です。まずは大人の女性の側から。
区切りのない毎日に、杭を一本打つ
いまの大人の暮らしには、区切りがありません。夜十時に仕事のチャットが鳴る。休日の朝に、家族の用事と仕事の連絡が同時に来る。台所に立ちながら頭の中では明日の会議の段取りを組み、布団に入ってからもスマートフォンの画面を眺めてしまう。どこからが仕事で、どこからが自分の時間なのか、自分でも分からなくなっている人は少なくないはずです。
道場の礼は、その区切りをわざとつくります。入口で一礼すれば、そこから先は稽古の時間。終わりの礼をすれば、稽古はおしまい。礼をするという、体を使ったはっきりした動作で区切るので、頭の中だけで「切り替えよう」と思うよりも、ずっと切り替わりやすい。週に一度でも、こういう明確な「始まり」と「終わり」を持つことは、区切りのない毎日に、杭を一本打つようなものです。
頭を下げる相手は、取引先だけだったか
もう一つは、敬意の話です。
大人になると、頭を下げる機会はむしろ増えます。取引先へのあいさつも、謝罪の電話も、礼を欠かせません。けれど、その多くは「下げなければならないから下げる」お辞儀です。心から誰かに敬意を払ったのはいつだったか、と聞かれると、少し考えこんでしまう。
名刺交換のお辞儀は何千回もしてきたのに、自分が汗を流す場所や、自分の技を受け止めてくれる相手に、本気で頭を下げたことは一度もない。道場の礼は、そういう大人が、損得の外で礼を交わせる数少ない場所です。
そして同時に、自分が礼を返される場所でもあります。礼は一方通行ではありません。こちらの一礼に、相手も礼を返す。会社の肩書きも、家庭での役割も外した一人の人間として、敬意をやりとりする。誰かの妻でも、誰かの母でも、どこかの部署の担当者でもなく、ただ「今日ここに稽古をしに来た人」として礼を受け取る。その時間に、気持ちが静かにほどけていくのを感じるかもしれません。
子どもにとっての礼法――あいさつ、姿勢、人の話を聞く
礼法は、子どもを行儀よく黙らせるための道具ではありません。礼の中には、子どもがこれから生きていくうえで役に立つ、いくつかの基本が詰まっています。
あいさつは、相手がいることに気づくこと
道場に入るときに礼をする。指導者に会ったらあいさつをする。それは、「ここに人がいる」「この場所は誰かが大事にしている」と気づくことから始まります。大人に言われたから頭を下げるのではなく、相手がいることに気づいたから頭を下げる。その順番が身につくまでには時間がかかりますが、稽古のたびに繰り返すことで、少しずつ形になっていきます。
姿勢は、ちゃんと止まれること
礼をするには、まず止まらなければなりません。走り回ったまま、よそ見をしたまま、きれいな礼はできない。足をそろえて立ち、背すじを伸ばし、相手を見てから頭を下げる。正座も同じで、体をぐらぐらさせずに座っていることは、子どもにとってはそれなりに難しいことです。礼法の稽古は、「動く」の前に「止まる」を練習することでもあります。
人の話を聞くことは、受け取ること
指導者が話しているあいだは、動きを止めて聞く。聞いたら「押忍」と返す。これは「黙って従え」という意味ではありません。相手の言葉を、いったん自分の中に受け取るという練習です。受け取ったうえで分からなければ、質問すればいい。受け取らないまま動けば、空手の場合はケガにつながります。話を聞くことが、自分の体を守ることにつながっている。子どもにとって、これほど分かりやすい「話を聞く理由」は、なかなかありません。
もちろん、空手を始めたからといって、すぐに家でのあいさつが変わるとは限りません。礼法は、何度も何度も繰り返す中で、ある日ふっと身についているものです。焦らず見守っていただければと思います。
1対1だから、礼が「型どおり」で終わらない
ここまで書いてきた礼法の話は、多くの道場に当てはまる一般的なものです。最後に、オンザショア立川店の空手ならではの話をします。
ここの空手の稽古は、代表との1対1のパーソナルです。極真空手 三段・師範代が、直接、一人ひとりに教えます。
大勢で稽古をする道場では、礼はしばしば「全員でそろえる動き」になります。号令がかかり、大勢が一斉に頭を下げる。その光景には独特の美しさがありますし、集団で礼をそろえることにも意味があります。ただ、その中では、自分の礼がどうなっているのか、誰にも見られていないこともある。隣の人の動きをまねしていれば、なんとなく形になってしまう。
1対1の稽古には、隣の人がいません。あなたが頭を下げる先には、代表しかいない。代表が頭を下げる先にも、あなたしかいない。礼が、まねをする動きではなく、二人のあいだで交わされるやりとりになります。
浅い礼をすれば、それが見えます。目線が泳いでいれば、それも見える。「押忍」の声に気持ちが乗っていなければ、それも伝わる。逆に、今日は集中して入ってきたな、ということも礼一つで伝わります。礼の形を教えるだけでなく、その日の礼からその日の状態をくみ取って、稽古を組み立てていく。1対1の礼は、一回一回が、その日の稽古の最初の会話なのです。
そしてもう一つ、なぜその作法があるのかを、その場で一つずつ聞けるのも1対1のよさです。大勢の中では「そういうものだから」で流れてしまう所作の意味を、自分の体で確かめながら覚えていける。意味が分かった礼は、形が多少ぎこちなくても、中身のある礼になります。大手の道場の何十人もの列の中では決してできない、ぜいたくな礼の稽古です。
まとめ
「礼に始まり礼に終わる」。その言葉の中身は、扉を開ける音と、扉を閉める音でした。
- 道場に入るときの礼は、外の荷物を敷居の外に置いていくため。出るときの礼は、稽古の熱を外へ持ち出さないため。
- 正座と黙想は、動く前にいったん止まり、終わったあとに熱を冷ます時間。号令や順番は道場ごとに違っても、骨組みは共通しています。
- 「押忍」は、道場であいさつ・返事・礼として交わす言葉で、その芯は「受け取りました」という合図です。由来には諸説あります。
- 組手やミットの前後の礼は、決められた約束の中で打ち合い、終わったら悔しさを道場に置いていくという約束。礼法は、相手と自分の体を守るためのものでもあります。
- 大人にとっては、区切りのない毎日に打つ一本の杭と、損得の外で交わす敬意。子どもにとっては、あいさつ、止まれる姿勢、人の話を受け取る練習。
- 1対1の稽古では、礼は型どおりで終わらず、一回一回がその日の最初の会話になります。
礼法を知らないまま道場に来ることを、恥ずかしがる必要はありません。最初の一礼は、誰にとっても最初の一礼です。
立川で空手の相談をする
オンザショア立川店(ワールド極真会空手連盟 東京支部)では、極真空手 三段・師範代で東京支部長の代表が、1対1のパーソナルで極真空手を教えています。対象は女性と子どもで、子どもは小中学生(男の子も可)です。大人の男性の方は対象外です。
持病・怪我のある方は事前に医師に相談し、医師から運動を止められている方と妊娠中の方は空手を利用できません。
礼や正座のことも含め、空手の相談は公式サイトから公式LINEへどうぞ。お子さんの場合は、保護者の方からご連絡ください。レッスン中は電話に出られないことが多いので、質問もLINEで送ってもらえると確実です。
場所は、オンザショア立川店と同じ東京都立川市曙町2-14-10 エトロワビル3F。JR立川駅北口から徒歩1分です。誰も誰にも頭を下げない北口の雑踏から、1分。頭を下げることから始まる時間が、ここにあります。
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初日の汗は、予約した人だけが持ち帰れる。





