腕立て伏せを外国語で数えると、回数を忘れたり動作に集中しにくくなったりするのか。成人の数処理、二言語での計算、数えながら画面を追う実験から、慣れた言語を選ぶ意味を考える。母語なら必ず有利とは限らない理由と、数え方の違いを筋力の変化に結びつけずに記録する方法も整理する。
腕立て伏せを終えるたび、頭の中で英語の数字を呼ぶ。途中で次の数字を探しているうちに、いま終えた動作を数えたのか分からなくなる。腕より先に、数字のほうが立ち止まった気分である。
そんなとき、数えやすい言語へ戻すのは実用的な選択である。数を扱う働きは言語の経験や習熟と関係し、数字を声に出しながら別の課題をすると、その課題の成績が下がる実験もある。ただし、慣れた言語なら腕立て伏せの回数や筋力が増える、という答えまでは導けない。[1][10][17]
既存記事「女性の筋トレは残り回数を逆から数える?きつさと開始前の合図を分けて読む」には、増やして数えるか減らして数えるかという問いを譲る。ここで考えるのは、同じ順序の数字をどの言語で扱うかである。動画の雰囲気に合わせることと、自分が迷わず数えられることを分けたい。

数字は同じでも、呼び名を取り出す経験は異なる
数の言葉を扱う研究をまとめたレビューでは、言語の特徴と、複数の言語を使う経験が、数の識別や取り出しから高度な数学的技能まで関わると整理されている。ここでいう数の言葉とは、記号として書く数字に対応する、声や頭の中で使う呼び名である。数を知っていることと、その場の言語ですぐ呼べることは、同じ問いではない。[1]
筋トレの場面でも、メニューに書かれた数字を見るときと、動きに合わせて次の呼び名を出すときでは、している仕事が違う。紙に書かれた予定を理解できるからといって、動画の外国語のカウントに自分の動作を重ねるのも同じように簡単だ、と決める必要はない。これは研究の考え方を日常へ移した見方であり、筋トレの効果を予測する式ではない。[1]
たとえば、外国語で挨拶をするのは日常でも、買い物の合計を考えるときはいつも別の言語かもしれない。「会話に慣れている」「数字を使い慣れている」を分けて振り返ると、自分の数えやすさを説明しやすい。二言語で計算する研究でも、言語の熟達と数の呼び方の構造が、それぞれ成績に関係していた。[17]
だから、選ぶ軸を「格好よく聞こえるか」から「動きの途中に言葉を探すか」へ替えてよい。外国語の動画を見ながら、日本語で数えてもよいのである。動画の字幕まで忠実に再現する必要はない。大切なのは、数えるために自分が何をしているかを見分けることだ。
ただし、言いにくさを感じた日を、その言語の能力全体の評価にしない。研究が扱っているのは、数の識別、計算、言葉の取り出しといった具体的な課題である。外国語が得意か不得意かという大きな札を自分に貼るより、どの数字、どの場面で迷うかに問いを狭めるほうが、数の研究との対応も明確になる。[1][17]
疑問の続きは、体で確かめるのがいちばん早い。
成人の実験では、慣れた呼び方の速さと正確さが分かれた
オランダ語と英語を使う成人の実験は、「慣れていれば全部よい」という考えに歯止めをかける。参加者は数の言葉を聞くと同時に、画面の算用数字を見て、数量が一致するか判断した。調べたのは筋力ではなく、音で聞いた数と目で見た数の照合である。成人の二言語使用者での結果を、18〜39歳の女性の運動中の数えやすさへそのまま当てはめることはできない。[6]
オランダ語では、たとえば49を「9と40」に当たる順序で呼ぶ。このように、発音する位の順と、書かれた数字の並びが一致しない特徴がある。実験では、普段使う呼び方に加え、位の順序が分かりやすくなるよう人工的に作った数の言葉も使い、数と音の対応を変えた。[6]
結果は片方の圧勝ではなかった。参加者は、従来の慣れた呼び方を聞いたときには速く判断した。一方、人工的でも位の構造が分かりやすい呼び方では、判断がより正確だった。この傾向には英語の習熟度も一部関わっていた。数えやすさを速さだけで評価すると、正確さの側を取り落とすことになる。[6]
この結果を腕立て伏せへ直接移し、「慣れた言語なら速く動ける」とするのは飛躍である。照合の反応時間と、体を支えて動かす速さは別の測定だからだ。日常で借りるなら、数がすらすら出たかと、記録が曖昧にならなかったかを別々に見る、という発想までにしたい。[6]
ドイツ語とフランス語の研究でも、成人の単一言語使用者・二言語使用者と、言語習得の異なる段階にある参加者を調べ、位を呼ぶ順序と言語の習熟が数の大小判断に関係した。18〜39歳の女性の筋トレ中にも同じ関係が現れるかは、この数の判断課題からは判断できない。音声の数の言葉だけでなく、算用数字で示した課題にも、使う言語の影響が見られた。数字の記号に替えれば言語の経験を完全に取り除ける、とも単純には考えられない。[15]
たとえばメニューを数字で印刷しておくことと、その数字をどう理解して動作へ結びつけるかは、分けて考えられる。紙の表示を整えるのは予定を確認するための工夫であり、それだけで数処理の個人差までなくなるという話ではない。外国語をやめるか続けるかの二択より、表示、聞く合図、自分の数え方を整理するほうが具体的である。[1][15]
母語で数えても、別の作業への注意は変わりうる
数えることと注意の関係をより直接扱ったのが、画面上の複数の物体を目で追う成人の実験である。二言語使用者35人と単一言語使用者35人が参加し、追跡だけをする条件と、母語で声に出して逆に数えながら追跡する条件を比べた。同時に別々の仕事をする、この実験のような状況を二重課題と呼ぶ。成人の視覚追跡の結果であり、18〜39歳の女性の筋トレ中の注意の変化へそのまま当てはめることはできない。[10]
追跡だけの条件では、二言語使用者に平均的な成績の優位はなかった。しかし逆に数える作業を加えると、追える速さの限界は二言語使用者で15%低下し、単一言語使用者の低下はその3倍だった。対象となる集団と同時に行う課題によって、結果の見え方が変わったのである。[10]
ここでまず拾いたいのは、外国語を使った結果ではないという点だ。数えたのは母語である。それでも追跡の成績は下がった。したがって「母語に戻せば、数えながら何をしても注意の問題はなくなる」という読み方は、この実験には合わない。[10]
一方、目で物体を追う課題を腕立て伏せと同一視することもできない。実験の低下率を、そのまま筋トレの回数や動作の乱れに換算してはいけない。逆に数える負荷、声を出すこと、画面を追うことが組み合わさった結果であり、単に順番に数える場合や、心の中だけで数える場合の数字でもない。[10]
家では、画面の先生の手足を見て、自分の動きを確認し、回数を覚え、さらに外国語の数字を思い出そうとすることがある。その場面を見直す際、この実験は「数える仕事も、別の課題と一緒に行われている」と気づく手掛かりになる。注意がどれだけ奪われるかを決めつける材料として使う必要はない。[10]
母語と外国語の勝敗を急ぐ前に、何を同時に行っていたかを確かめたい。動画を追う必要があったのか、動き自体はすでに分かっていたのか。数が飛んだという出来事だけで原因を決めず、状況を書き留めるための問いである。画面の中の先生は、こちらが数字を探していても先へ進む。
この研究でいう「追える速さの限界」は、参加者が画面上の物体を追跡する成績を示す指標である。本人が「忙しかった」と答えた割合でも、数字を言い間違えた割合でもない。したがって、追跡が難しくなったことを、数を忘れやすくなった証拠として置き換えるのも避けたい。実際に測ったものを保つことで、注意の話と記憶の話を混ぜずに済む。[10]
また、単独での追跡成績が似ていたことは、同時作業を加えたときにも同じ結果になる保証にはならなかった。この違いは、日常の「普段は数えられるのに」という疑問を整理する入口になる。ただし入口であって、運動中の自分に同じ低下が起きたと確定するものではない。ふだん数字を言えるか、動きながら数が続くかは、実際の場面で分けて振り返りたい。[10]
腕立て伏せの記録に「数え方は日本語、動画の合図は外国語、途中で画面を確認した」と添える場合、残るのは回数の数字だけではない。どの情報を頼りに動いていたかも残る。これは特別な検査ではなく、後から自分の記録を読むための説明である。回数が違った日を見つけても、その違いを言語だけのせいにする前に、こうした場面の違いを確認できる。
数字で読む言語とカウント
35人ずつ:二言語使用者と単一言語使用者を比べた成人の視覚追跡実験の各群の人数である。[10]
15%:母語で逆に数える作業を加えたとき、二言語使用者で追跡速度の限界が低下した割合である。[10]
3倍:同じ実験で、単一言語使用者の低下は二言語使用者の低下のこの倍率だった。筋トレの低下率ではない。[10]
91人:フランス語と英語で数の見積もりを行った、5〜7歳の子どもの人数である。[9]
49:オランダ語の呼び方の順序を説明する例であり、腕立て伏せの推奨回数ではない。[6]
疑問の続きは、体で確かめるのがいちばん早い。
1
2







