極真空手の歴史|大山倍達の修行と大山道場からたどる極真会館誕生の歩み

極真空手は、大山倍達が複数の武道や格闘技に学び、直接打撃制の空手を育てた歴史から生まれました。目白や池袋の大山道場を経て1964年に極真会館が設立され、弟子の育成と海外への指導によって広がります。山籠もりや漫画に彩られた創始者の姿を、修行、道場、組織という足跡に沿ってたどります。

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複数の師に学んだ大山倍達

極真空手の創始者は大山倍達です。大山は松濤館流や剛柔流の空手に学び、ボクシングや柔道にも取り組みました。大山道場では直接打撃の組手が行われ、その後、国際空手道連盟極真会館が設立されます。創始者が複数の武道を学んだ経歴、門下生が稽古した道場、国内外で行われた指導と大会。極真空手の誕生には、これらの出来事が関わっています。

大山は1923年、日本領朝鮮の全羅北道金堤市に生まれました。幼少期は満州国と朝鮮半島で過ごし、中学ではボクシングを習います。その後、日本に渡って山梨の航空技術学校に入学しました。青年期には空手を学び、戦後には日本と海外で指導や普及の活動を行うようになります。出生地での幼少期から、日本で武道を学ぶ時期へと、大山の活動の場所は移っていきました。

1943年に、大山は松濤館流の船越義珍に空手を学びました。その後、山口剛玄に剛柔流を学び、曺寧柱にも師事しています。松濤館流と剛柔流は、大山が学んだ空手の系統です。極真会館を開く以前の経歴には、複数の師の名前が並びます。後に大山自身が道場を持ち、門下生を教えるようになるまでには、こうして他の師から空手の技を学んだ時期がありました。

大山が学んでいたころの本土の剛柔流では、防具付きの組手や、軽く接触させる「当て止め」の組手も行われていました。空手の技を当てる練習は、極真会館の設立に先立って存在しています。大山が接した剛柔流の組手と、後に大山道場で行われた直接打撃の組手。それぞれの稽古の形式が、大山の学んだ空手と、門下生に教えた空手の経歴に登場します。

空手以外では、大山は柔道にも取り組みました。また、合気柔術やステッキ術などにも触れています。空手の師に教わる活動と、他の武道や格闘技を学ぶ活動が、ともに大山の経歴にあります。後に極真会館では、他の武道や格闘技との交流も行われました。空手を指導する道場を開いたあとも、他の競技のルールで試合を行う活動が、その沿革に加わっていきます。

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山での修行と、日々の鍛錬

山に入る修行も、大山の経歴に残っています。戦後の山籠もりの場所として挙げられるのは、山梨の身延山と千葉の清澄山です。大山を主人公とする漫画でも山籠もりが描かれ、修行の場面として広く知られるようになりました。人物としての大山には、山での修行に加えて、道場での組手や身体の鍛錬、海外での指導といった活動がありました。

大山の鍛錬には、巻き藁を突く練習やサンドバッグを使う練習がありました。組手の稽古にも取り組み、身体を鍛えるためのボディビルも行います。山籠もりとともに知られる修行の経歴には、こうした具体的な練習が含まれています。道場で人と技を交わす組手、用具を使って行う打撃の鍛錬、筋力を鍛える運動という複数の形式が、大山の活動に並びます。

若いころの大山は、実戦を重視して型の稽古を嫌い、先輩から苦言を受けたとされています。組手や身体の鍛錬に力を注いだ時期には、型への取り組みについてこうした指摘もありました。後年には、大山が型を演じる映像も残っています。若いころの組手重視の稽古と、壮年期から晩年に行った型の演武は、いずれも大山の空手家としての経歴に含まれます。

大山は、若木竹丸の著書から影響を受けました。戦後には若木からウエイトトレーニングの指導も受けています。打撃や組手の稽古とともに、筋力を鍛える練習を行ったことが、大山の鍛錬の経歴です。空手の技を学ぶ師のほかに、身体の鍛え方を教わった相手もいました。著書を通じて鍛錬を知り、指導を受けて運動を行うという活動が、ここにはあります。

壮年期から晩年にかけて、大山が剛柔流の「転掌」や「鉄騎」を演じるフィルムが残されています。剛柔流を学んだ青年期から、後年の型の演武まで、大山の経歴には型との関わりがあります。巻き藁やサンドバッグでの鍛錬、組手の稽古、ウエイトトレーニング、そして型の演武。大山が行った練習や演武を挙げると、直接打撃の試合以外の空手の活動も並びます。

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目白から池袋へ、大山道場という出発点

極真会館の前身は、大山道場です。目白の自宅には野天道場があり、池袋ではバレエスタジオ跡を使った道場が開かれました。屋外の稽古場と、建物を使った稽古場が、大山の道場の経歴に登場します。西池袋に本部道場が建てられる以前、大山はこうした場所で門下生を指導していました。大山道場という名称は、極真会館の設立前に使われていた道場の名です。

1956年、大山は池袋に大山道場を開きました。当初は剛柔流に所属し、そのころからフルコンタクトの組手練習を行っていました。極真会館としての組織が設立される前に、大山道場では直接打撃の稽古が行われています。池袋の道場の開設と、のちの極真会館の設立は、異なる時期の出来事です。道場での稽古が先にあり、その後に団体の名前と体制が整いました。

目白や池袋の道場で学んだ門下生の中から、海外で指導する空手家も出ています。来日して本部で稽古し、帰国後に支部を開く門下生もいました。大山が稽古を行う場所には、自ら技を学ぶ時期の道場と、門下生を教えるために開いた道場があります。大山道場を前身として極真会館が設立されたあと、その本部で学ぶ人と、各地で教える人の活動が続きました。

大山自身が柔道やボクシングを学んだことに加え、極真会館では他の格闘技との対戦も行われました。設立年には門下生がタイへ向かい、ムエタイのルールで試合をしています。その後、全日本選手権は他流派や他格闘技の参加を認める形式で始まります。他の競技を学ぶ創始者の経歴と、他の競技者と対戦する門下生の活動が、道場から大会へ続く沿革に含まれています。

池袋の大山道場では、直接打撃の組手が練習されていました。後の全日本選手権では、その方式による試合が行われます。道場で行う組手と、観客を迎えて開催する大会は、実施の場が異なります。大山道場の開設から本部の建設、さらに選手権大会の開催へと、直接打撃の空手が行われる場所も増えていきました。道場の名称の変化と、稽古や試合の開催が、その歩みに並びます。

1964年の設立と「極真」という名前

1964年4月、国際空手道連盟極真会館が設立されました。大山道場は財団法人極真奨学会の傘下となり、会長には佐藤栄作、副会長には毛利松平が就任しました。大山は館長となります。同年6月には、東京都豊島区西池袋で本部道場の建設工事に着手し、11月に竣工しました。前身の道場から新しい団体の設立へ進み、その年に本部の建物も完成しています。

翌1965年1月、極真会館は正式に発足しました。設立は1964年4月、本部工事の着工は同年6月、竣工は11月です。正式発足は、その翌年に当たります。前身の大山道場の開設、極真会館の設立、本部建設、正式発足という出来事が、年代を追って並びます。池袋で直接打撃の稽古を行っていた道場は、西池袋の本部道場を持つ団体となりました。

極真の名には、修行に関する言葉が用いられています。「千日を以って初心とし、万日を以って極とす」という言葉に由来し、心を真として「武の真髄を極める」という意味を持ちます。館長となった大山の名前を掲げる大山道場から、極真会館という名称へ。新しい名称の由来には、日数を表す言葉と、武の真髄を求める意味が含まれています。

極真会館の本部が完成したあとは、国内外の活動も続きました。大山が各地へ赴く活動に加え、弟子が派遣されるようになります。また、海外から日本の本部へ学びに来る門下生もいました。日本にある本部道場と、弟子が指導する海外の支部。その間を人が移動し、学んだ技を各地で教える活動が行われます。設立した組織の活動は、本部での稽古と海外での指導の双方に及びました。

大山道場から極真会館への改組では、大山が館長に就任し、会長と副会長を迎えました。本部の建設も同じ年に進み、翌年には正式発足しています。極真会館の沿革には、こうした組織と建物の出来事に続いて、弟子の派遣や大会の開催が並びます。池袋の道場で行われていた直接打撃の空手は、国内での選手権と、海外の支部で行う指導にもつながりました。

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直接打撃を、稽古から大会へ

極真会館は、直接打撃制の空手を提唱し、普及させました。その前には、防具付き空手や、グローブを使う組手の試みが行われていました。大山が学んだ剛柔流にも、接触を伴う組手がありました。極真会館の直接打撃制は、こうした先行する練習や競技に続く時期に広まっています。防具を用いる方式、グローブを使う方式、極真の方式が、フルコンタクト空手の歴史に登場します。

山田辰雄は、グローブを使う実戦空手に取り組み、空手競技会を開催しました。大山も山田のもとに出稽古に通い、その実戦空手に接しています。山田の門弟がボクシングの試合へ出場する活動もありました。防具を工夫する空手と、グローブで技を掛け合う空手が試みられる中で、大山も他の道場の稽古に参加していたことが、直接打撃制の成立前の経歴にあります。

1964年、黒崎健時、中村忠、藤平昭雄はタイへ遠征し、ムエタイのルールで試合を行いました。極真会館の設立と同じ年の出来事です。大山の門下生が海外へ赴き、現地の格闘技のルールで対戦しています。その後に開かれる極真の選手権大会とは別に、こうした遠征の試合も行われました。門下生の活動には、本部での稽古に加えて、海外での対戦が含まれています。

全日本選手権の開催に向けて、極真会館は東京体育館との交渉を進めました。直接打撃の試合への懸念に対して、安全性を説明しながら3年にわたって交渉したとされています。1969年9月、同体育館で第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が開かれました。道場で組手を練習する活動に加え、会場を確保して観客の前で競技を行う活動が始まりました。

最初の全日本選手権で優勝したのは山崎照朝、準優勝したのは添野義二でした。他流派の空手家に加え、柔道やボクシング、ムエタイの選手も参加しています。極真会館が主催した大会は、他の流派や競技からの参加を認めるオープントーナメントでした。直接打撃の試合を行うことと、所属の異なる選手が同じ大会で競うことが、初回の開催形式に含まれていました。

創始者から弟子へ、海を渡った空手

極真空手を広めたのは、創始者の遠征だけではありませんでした。大山が国内外を巡っていた時期に続き、弟子を各地へ派遣して支部を設ける活動が進みます。中村忠、大山茂、大山泰彦、三浦美幸、岸信行はアメリカ各地へ、磯部清次はブラジルへ派遣されました。帰国した人を除き、現地の支部長として活動を続けたとされています。

また、日本へ来て本部道場で稽古をした門下生が、帰国後に指導員や支部長となる経路もありました。オランダのジョン・ブルミンやルック・ホランダー、イギリスのスティーブ・アニールやハワード・コリンズなどです。日本から指導者が向かう動きと、来日して学んだ人が技術を持ち帰る動き。その両方が、極真空手の国際的な広がりを支えていました。

伝える手段には書籍もありました。大山は英文の空手書『What is Karate?』を執筆し、海外への普及に関わります。身体を使って教えることと、言葉や写真を通じて技術を紹介することは、別の入口です。道場へ足を運ぶ人だけが読者だったわけではありません。創始者の活動には、空手家としての稽古と同時に、空手を知らない人へ届く形を作る仕事がありました。

1971年に連載が始まった漫画『空手バカ一代』は、大山を主人公とする作品です。漫画の人気は、極真会館が広がる契機にもなりました。大山自身が書いた英文の空手書と、大山を描いた漫画は、異なる形で空手を読者に届けています。道場で技を教える活動、各地へ弟子を派遣する活動とともに、書籍や漫画を通じて空手が知られる機会も増えました。

大山倍達は、複数の師に空手を学び、他の武道や格闘技にも取り組みました。目白や池袋で門下生を教え、極真会館を設立したあとは、西池袋の本部道場を拠点に活動を続けます。弟子の海外派遣や、来日した門下生による帰国後の指導も行われました。山での修行から、道場での稽古、組織の設立、大会の開催、海外での指導へ。創始者と門下生の足跡は、国内外の複数の場所に残っています。

当店の極真空手

歴史に触れたあと、実際に学ぶ場を探す女性や子どもには、当店の極真空手という入口があります。オンザショア立川店の代表は宮川涼で、極真空手三段・師範代、ワールド極真会空手連盟 東京支部長です。当店の空手は、代表と1対1で行うパーソナルの稽古です。対象は女性と子どもで、小中学生は男女とも対象になります。女性が学ぶ場や、小中学生のお子さまの稽古についてご相談いただけます。

道場の所在地は立川店と同じ住所です。稽古の案内は立川の極真空手、支部に関する案内はワールド極真会空手連盟東京支部に掲載しています。相談の窓口は公式 LINEです。小中学生の申込は保護者から公式 LINEへお願いします。代表の段位と役職、対象、指導形式を確かめて、相談の入口につなげてください。

出典

監修: 宮川涼(ワールド極真会空手連盟 東京支部長・極真空手三段 師範代)

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